テラーノベル
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ずっと、花を見ていた。
庭の片隅で、静かに息をする花を。
蝉、風鈴、花火……音であふれる季節の中で、黙って溶けていこうとする白い、花びらを。
ただそこにあるだけの、密やかな影を。
陽炎に輪郭の滲ませた茎は、内緒話をこぼして揺れた。
もうすぐだよ、と。誰にも聞こえない声で。
ヒグラシの鳴き声が聞こえて、それがこの暑さの終わりを指すのか、はたまた全く別の何かを指すのかわからなくなる。
「暑いのに珍しい…アネモネですか?」
振り返ると、日本が佇んでいた。
雪のように白い肌が、そっと花びらを撫でる。
じわりと浮かんだ熱で、手に持ったハサミを滑らせかけた。
「うん。僕のとこ、寒いから春に植えるんだ。」
「へぇ〜。綺麗………。」
黒曜石のような瞳がわずかに伏せられて、まつ毛が薄く影を落とす。
君の目には、どう見えるの?
そんな言葉が喉元までせり上がってきて、どうにか耐える。
僕の気持ちも知らないで、日本は軽やかに微笑んだ。
「期待とか恋、とか……花言葉まで綺麗ないい花ですよね。」
無垢な声がひどく遠い。アネモネは陽を避けるように身を捩った。
かろうじて頷いて、言えなかった言葉を乾いた空気に溶かしていく。
「……君が、好きだって言ってくれたから。」
唇から溢れた言葉は、蝉時雨に紛れて震えていた。
日本が驚いたように顔を上げる。
一瞬何かを言いかけるように口を開いて、日本は息を吐いた。
「……ふふ、ありがとうございます。」
はにかんで、それだけだけだった。
頬を伝って、汗が土に落ちていく。
花びらがまた、ゆらりと揺れた。
一際濃くなる影を連れて、夕闇の中、懸命に最後の光を浴びている。
あぁ、やっぱり。
やっぱり一緒だ。
身を焦がされると知っていて、届きはしないと知っていて。
それでも手を伸ばすのをやめられない。
左手のハサミをみつめる。刃先が白昼の残滓で光っていた。
震える指先でやわらかな花びらに触れた。
胸がぎゅっと縮まる。
この小さな命が僕をずっと抱いてくれていたことを、知っている。
その細い首筋に刃を突き立てる。
ほんのわずかな悲鳴をあげて、手のひらに重みが伝わった。
くたりと僕に身を預ける花は終わりに安堵しているようでも、「見てもらえた」と笑っているようでもあって。
憎らしいほど羨ましかった。
「いいんですか?カナダさん……。」
物憂げな所作で空っぽになった草の上をみつめる日本。
「うん。……もう、諦めたから。」
ひとひら、涙のように花びらが舞う。日本は手を差し出して受け止めた。
その優しさが残酷なほど美しかった。
最後まで救われないね、と白い亡骸を抱きしめる。
切り口がひどく冷たい。
僕はまだ終われない。きっと、この先もずっと。
君も救われないね、とだけ残して、静かに花が事切れた。
この花が枯れるとき、僕は君を捨てられる。
それだけが報いになればいい、と思った。
(終)
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