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【廿漆話】



野々村は体勢を変えずにずっと庭を見つめたままの彼女の耳元にそう云った。

彼女の表情は私からは見えなかった。

只、艶の在る漆黒の長い髪、その毛先が少し踊る様に跳ねた。


「君は何も悪く無い。生きようとしただけの話だ。

自分の居場所を作っただけだった。そうだろう?」


返事は返ってこない。


「見事だったよ。実に良く出来ていた。事実、君の目論見通りに煩わしく自己的でしか無い、論理的思考の大いに欠如した下らない母上は檻の中、

さぞ胸の空いた事だろう。君は正しい事をした。だから僕は君が好きなんだ。君に――拍手を送りたい。」


疲弊しきって誰も声を出す元気が無い室内に

野々村の拍手だけが場違いに響く。

遥は――拳を握って小刻みに震えていた。


志津子さんは遥さんをじっと見ていた。

その表情からは動揺と――何故か少しの安堵が見えた様な気がした。


樋口が彼女の歩を促す。外では他の警察官が待っているのだろう。

彼女は名残惜しそうに一度振り返ったが、ふと悲しげな――立ち止まる事を諦めた様な顔をして

再び、部屋から出ようとその細い足を前に出した。


「待って下さい。志津子さんには聞いておくべき話では無いのですか?」

「私などに――そんな権利など――」

顔だけを振り向かせたまま彼女は目を伏せた。


「怖いんでしょう?」


伏せられた瞳が見開かれた。


「今更何が怖いものですか。もう失うものは無いのです。私にはもう何も――」

彼女は悔やむ様に、吐き捨てる様に、そして全てを諦めたかの様な酷く憔悴した声で言葉を吐き捨てた。


「貴方は非常に負を纏って生きるのがお好きですね。現実と未来から目を背けて後ろばかり見て歩いても過去などこれ以上開きようが無い。必然的に袋小路に到る事ぐらい、もうそろそろ分かりませんか。それよりも未来に起きるべく事態の為に、いや、貴方の過去の精算の為に、少しでも可能性が残っているなら情報を、現状を見ていくべきだとは何故思えない!愚かだ。愚かな事この上ない。だがそのお陰で彼女は――」


――遙は、こんなにも強くなれた。貴方のその不甲斐なさのお陰で。



野々村は遙を見た。答えない母親の代わりに遙が畳をじっと見つめたまま、それに応える様な形で口を開いた。



「――ええ、とても良い結果になりましたわ。お陰で私は自由よ。でも私は何もしていない。証拠は何も出ませんでしょ?」


「何を勘違いしているか知らないが、僕は責めて居ない。僕が君でもきっとそうする。直接手を下さず、倒れそうに危うく連立していた駒をこうして――」


先程まで彼自身が音を立てて等間隔で並べていた将棋の一番端の駒をそっと押した。

流れる様に倒れる将棋の駒。


それはとても規則的に乾いたその木の音を響かせて大きな机を進む。

そして最後の一枚が倒れ――



縁側の上に落ちた。



――カタ―――ン――



その音は小さかったのだろうがこの緊張と静寂の中、

この屋敷に随分大きな衝撃で持って響いた様に聞こえた。


音の消えた盤の上にはまるで先の戦争で見た屍骸の様に倒れた駒が無機質に並んでいた。


私はその音に絶望と浮かんだ齟齬の気持ちの悪さを

胸の中に持て余していた。


彼女がこの一連を用意する事は出来ただろう。

そしてそうする理由もあった。


しかし、よしんば容易に使える毒を目の前に置いたとして実際に母親が使うと云う保証は何一つ無かった。


余りにも偶然任せ過ぎるのでは無いだろうか。

それにその毒薬はもしかすると自分に使われる可能性も在った。

いや、その可能性は大きいと予想されるのでは無いだろうか?


冷たい態度の母親、夜になると繰り返される狂宴、

朝になると薬が切れ、襲う苦痛。


そして――


志津子さんは云った。私を【見て】哂う――と。

瞼は開かれたまま、【見て】いる、つまりその映像は脳に認識は出来なくとも何処かには残らないのか?


被虐され続けるその記録は其処に行く?


記憶として本当に留まらないのか?在るのに?無かった事と処理されるのか?拡散されるだけの可能性だって幾らでもある。


脳への伝達など容易に阻めない。完全に消し去る事など、只の麻酔に出来るだろうか。


拡散の可能性。拡散した情報は何処へ行く?情報は散っても再び再構築するべく働く様になっている。拡散した後、記憶は再構築され舞い戻る、のでは無いか?


積み重なる被虐と苦痛の記憶、高まる怨恨、そこまでは野々村の云った事への裏付けにしかならないとして、それでもこの屋敷から逃げ出さなかった彼女。


これは仮定だ、仮定でしかない、しかしこれが

あながち間違いでは無いのであれば相当辛かったと思う。


只、その仮定を想像しただけの私でも身が切られる様に辛い。

それなのに――それなのに母親の傍を離れなかった彼女は


――何故この屋敷に繋がれている?


志津子さんの語る言葉の端々には屈折しながらも娘を愛する彼女の想いが漏れ出ていた。


その微かに見える想いが彼女を繋いだのか?

それとも彼女の云う通り復讐せんと傍を離れなかったのか?


こんな不安定な確率を寄せ集めた計画で――。


毒薬、証拠の残り辛い狂気、犯人の特定しがたい状況、共同生活、誰が疑われてもおかしくない状況。




そうか。

――だとしたらこんなに…



――こんなに悲しい話は無いじゃないか!



野々村を見た。私はその時きっと酷い顔をしていただろう。彼は私の視線に気が付くと全てを諒解した様な酷く冷たい顔で哂い、視線を遥さんに戻した。


【続く】

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