雨が降り始めたのは、大学の講義が終わる直前だった。
六月のじめっとした空気が教室の中にも入り込み、湿気に満ちた空気が肌にまとわりつく。望月晴人はノートを閉じながら、小さくため息をついた。今日も何もない、ただの日常。そうであるはずだった。
構内の自販機で缶コーヒーを買い、駅に向かう。傘は持っていなかったが、仕方ない。濡れてでも早く帰りたかった。曇ったアスファルトを踏みながら、足早に歩いていた。
最寄りの駅にたどり着いたのは、日もとっぷりと暮れた頃だった。
雨脚は強まっていた。濡れた髪が額に張りつく。そんな中、改札をくぐろうとした瞬間――なぜか、視線を感じた。
直感だった。肌の表面がざわりと波立つような感覚。首筋の産毛が逆立つ。
ゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡す。人混みに紛れて、誰かが見ている――そんな確信があった。
目に留まったのは、改札の柱の影。
そこに、傘も差さずに立ち尽くす男がいた。
黒いジャケット。濡れた髪。そして、まるで獲物を見定めるような、真っ直ぐな視線。
瞬間、心臓が跳ねた。
こちらをじっと、まばたきもせずに見ている。笑ってもいない。怒ってもいない。ただ、見つめているだけ。
(なんだ、あれ……)
足がすくみそうになった。だが、次の瞬間、電車のアナウンスが流れ、周囲の人の動きに流されるようにして、晴人は視線を外した。
もう一度柱の方を見た時には、その男の姿はなかった。
それでも、胸の中に残る違和感は、冷たく、粘ついた感触で心臓に張りついていた。
⸻
***
「……ただいま」
靴を脱ぎ、鍵を閉める。誰もいないはずの部屋に「ただいま」を言うのが癖だった。狭いワンルーム。清潔ではないが、特に不自由もしていない。
床に置かれたコンビニ袋に気づいたのは、その数分後だった。
玄関脇。郵便受けの下に、ビニール袋がそっと置かれている。ラベルを見ると、近所のコンビニのロゴが入っていた。
中には、晴人の好物ばかりが入っていた。
・セブンのメロンパン(ふわふわタイプ)
・なめらか濃厚プリン(生クリーム入り)
・リプトンのミルクティー(500ml)
しかも、どれも賞味期限が「今日中」。
「……誰、これ……」
ぞくっとした。だが、それは始まりにすぎなかった。
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***
次の日も、袋はあった。
中身は変わっていたが、やはり晴人の好みを突いてきた。
三日目には、袋の中に手紙が入っていた。
>「風邪ひかないでね。ずっと、君を見てるから」
その字は、丸みを帯びた丁寧な筆跡だった。性別を特定できない、それだけに不気味な文字。
怖かった。
本当は、すぐにでも警察に行くべきだった。
だが晴人は――行けなかった。
(まさか、そんな……ただの偶然……だよな)
信じたかった。常識で、この気配を否定したかった。
自分が誰かに“執着される”ほど魅力的だとも思っていなかった。
それでも、視線の気配は日を追うごとに強くなっていった。
大学に行けば、自販機の前で誰かが立っている。帰宅時には、曲がり角に黒い影がある気がする。
ガラス越しの反射。歩道橋の上。地下鉄の対面ホーム。
見ようとしなければ気づけない存在。
――でも、見つけてしまえば最後だった。
そこに、彼はいるのだ。
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***
そして、事件は起きた。
その夜、鍵を差し込もうとしたときだった。
ドアの向こうから、低い呼吸音が聞こえた。
誰かが、すぐそこにいる。それは明確な気配だった。生き物の“熱”を感じる。
動けない。声が出ない。冷たい汗が背中を伝う。
手の震えを抑えながら、鍵を引き抜こうとしたその時――
ドアが、内側から開いた。
ありえない。自分の鍵なしで、どうやって――
「やっと帰ってきたね、晴人くん」
目の前にいたのは、あの時の男だった。
濡れた黒髪に、細い輪郭。恐ろしいほど整った顔。
その顔が、にこりと笑っていた。
「君が帰ってくるまで、ずっと待ってたんだよ。何も手につかなかった」
まるで恋人を迎えるような口調で、彼は言った。
「やっと、会えたね」
その声は、やさしい。だけどその瞳には――常軌を逸したものが、潜んでいた。
コメント
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sanさんが過激投稿するの新鮮で素敵です。ストーリー性しっかりしてて大好きです。