テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
専業プウタ
646
2,027
時刻は午後五時を少し回っていた。Dream Gateのリハーサルスタジオには、夕暮れの暗い光が差し込んでいた。
天導隆一(てんどうりゅういち)は、鏡張りの壁に映る星凪美夏(ほしなぎみか)を眺めていた。
美夏は長い黒髪を後ろでひとつにまとめ、動きやすいトレーニングウェア姿で黙々と身体を動かしている。音楽に合わせてステップを踏み、何度も同じ振りを繰り返す。息が上がっても足を止めず、鏡の中の自分の姿を確認しては、わずかな動きのずれを修正していく。額には汗が浮かび、頬は赤くなっている。それでも表情を緩めることなく、最初からもう一度、同じ動きを繰り返した。
天導は、その様子をしばらく黙って見ていた。
映画の出演が決まった。だが、だからといって美夏に対して、湯水のように金を使うつもりはなかった。
天導にとってタレントとは、商品だ。商品を売るためには投資が必要になる。しかし、売れるかどうか分からない商品に大金を注ぎ込むほど、彼は甘い経営者ではなかった。
美夏は、悪いタレントではない。むしろ、欠点を探すほうが難しい。
容姿はアイドルにれなるような女の子の中でも平均以上。歌は下手ではなく、ダンスも踊れるし、演技にも対応できる。仕事を休むことはなく、レッスンにも真面目に通う。養成所時代から、彼女はずっと『努力家』と評されていた。
しかし天導は、その言葉の裏を知っている。
努力家。便利な誉め言葉だ。突出したものがあれば「天才」「素晴らしい才能」「センスが良い」「華がある」などと褒められる。それなのに、彼女に対して向けられる誉め言葉はいつも『努力家』──それはつまり、努力以外にこれといって褒めるところがない、という意味でしかない。
美夏には、何かが足りないわけではない。だが、突出したものが何もない。全部が『並以上』。一見すると優秀だ。しかし、ショービジネスの世界では、致命的な欠点だった。
観客は、努力を見るために金を払うわけではない。努力なら、舞台裏にいくらでも存在する。成果の出ない努力でいいなら、観客自身にだってできる。客が求めるのは、努力の結果として現れる何か──才能、すなわち『華』だ。ステージに立った瞬間、理由もなく目を奪う。歌い出した瞬間に、他の人間が背景になる。芸能の世界には、そういう人間が存在する。天導は、それを何度も見てきた。しかし美夏には、それがない。
(……だから、売れない)
努力ではなく才能を評価されてこそタレントだ。凡人の目を惹く輝きこそが才能、すなわちタレントの神髄。努力以外のセールスポイントを何も持ち得ないのであれば、商品としては使えない。それが芸を売る世界だと、天導はそう考えている。
殺人鬼となった看護師の再現VTRの美夏の演技を、天導は言うほど高く評価していなかった。正確には、美夏の役者としての資質を評価しているわけではなかった。
あのときの彼女が見せた迫真の演技には、本人の生育環境が大きく影響している──天導はそれを見抜いていた。親から理想を押しつけられ、認められようと必死になる子供。その感情を、美夏はおそらく自分自身の経験から理解していた。だからこそ、あの役では異様なほど生々しい表情を作れたのだろう。だが、それは裏を返せば、どんな役柄でも同じ水準の演技ができるという意味ではない。特殊な条件が重なった結果としての、一度きりの輝き。それが天導の判断だった。
(あの演技だけを根拠に、投資するわけにはいかないな……)
ショービジネスは、過去の一場面だけで人間を買う世界ではない。
再現性のない才能に、大金を賭けるつもりはなかった。
それでも、今回の映画の話は悪くなかった。原作者本人が美夏を指名した。原作者は有名インフルエンサーで、売り出し中のタレント。監督はあの寿志清純(ずしきよすみ)。作品そのものにも話題性がある。うまくいけば、美夏を売り出す材料になる。逆に失敗すれば、それまでだ。
天導は鏡越しに美夏を見た。彼女は黙々とストレッチをしている。真面目だ。実に真面目。だが、それだけだ。天導は小さく息を吐いた。
そのとき、美夏が振り返った。
「天導さん……」
「どうしたんだい?」
「映画のことで、お願いがあります」
天導は眉を上げる。
「言ってごらん」
「アクションの練習をしたいんです」
「アクション?」
「はい」
美夏は頷き、まっすぐ天導を見た。
「映画では、かなり動く役ですよね。普通のダンスレッスンだけじゃなくて、ちゃんと殺陣を習っておきたいんです。その方が、今後の仕事の幅も広がると思うんです」
「なるほど……」
天導は美夏から視線を外し、鏡越しに彼女を見ながら、思考を巡らせる。
悪くない提案だった。むしろ、映画の完成度を考えれば当然の要求とも言える。問題は費用だ。有名なアクションコーチを呼べば、それなりの金がかかる。美夏にそこまで投資する価値があるか。天導の頭の中で、即座に損益計算が始まった。
そのとき、美夏が続けた。
「天導さんなら、そういう人をご存じじゃないですか?」
天導の目が細くなる。
「そういう人、というのは?」
「本格的なアクションを教えられる人です」
美夏は少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「映画用の殺陣だけじゃなくて……実際に動ける人」
なるほど。天導は理解した。この娘は、映画のために本物を知りたいらしい。悪くない。むしろ、そのくらいの意欲があるほうが扱いやすい。
「そうだね」
天導は視線を鏡へと戻し、頭の中で候補を探す。もちろん、正式なアクション指導者ならいる。しかし金がかかる。美夏のためだけに、そこまでの費用を出す必要はない。それなら──
無料で使える人間を使えばいい。
天導には、そういう知り合いが何人かいた。表向きは運送業や警備会社などを営んでいる。しかし実際は、まともな仕事だけで食べている連中ではない。いわゆる反社、ヤクザ者だ。それでも彼らには『本物の殺陣』を教えるだけの腕があるし、口も堅い。何より、天導からの頼みなら話が早い。美夏に殺陣を教える程度なら、金を払う必要すらない。金を使うのは、売れる見込みのあるタレントを売るための経費、投資だ。その原則からすれば、これほど合理的な方法はなかった。
「……一人、心当たりがあるよ」
「本当ですか?」
「ああ」
美夏の顔がわずかに明るくなった。
その表情を見て、天導は内心で頷く。
(映画に対する意欲はある、か……)
使える商品だ。少なくとも、現時点では。
「……ただ、少し変わった男でね」
「どんな方ですか?」
「本職のアクションコーチではない」
天導はそこで一拍置いた。
「だけど、腕は確かだよ」
美夏がじっと天導を見る。
彼女はにこりともしなかった。真顔のまま、黒目がちの大きな目に天導の顔を映している。その表情に天導は言葉にならない違和感を覚えた。しかし深く考えなかった。自分を見上げる美夏の顔は、小動物のように愛らしかったからだ。まさかその表情が、獲物を狙う狩人のものだと誰が想像できるだろう。俺に気があるのかな、と勘違いして浮かれる方がよほど現実的だった。
美夏の視線がかすかに揺れる。
「教えていただけるなら、本職の方でなくても構いません。お願いできますか?」
「ああ。紹介してあげよう」
天導は穏やかに微笑んだ。
窓の外では、夕日がビルの向こうに沈みかけていた。
鏡に映った二人の姿が、薄暗くなったスタジオの中に浮かんでいる。
美夏の口元にふっと笑みが浮かんだ。天導の背筋がぞくりと震えた。美夏の見せた微笑みは、新人アイドルとは思えないほど冷たく妖艶だった。
もしもこのとき天導が己の勘に従っていれば、彼は破滅を回避することができただろう。しかし彼が選んだのは、危険を告げる直感ではなく、経営者としての打算だった。
こうして天導隆一は、星凪美夏の仕掛けた罠にはまった。
コメント
1件
しらなみさん、第9話読みました。天導の「努力家=突出したものがない」という評価、冷たくてリアルでゾッとしましたね。でも美夏の最後の微笑みがすべてを塗り替える。あの瞬間、天導の打算が罠に繋がる構図が鮮やかで、見事な伏線回収でした。次が気になります!