渋々、岩崎含め一同が居間へ行ってみると、ふふん、と芳子が得意気に鼻で笑い、支配人を見下していた。
「京介さんも来たことだし、さあ、私の実力を見せてあげるわよ!」
ホホホと芳子は高笑う。
名指しされた岩崎は、当然、意味がわからぬとポカンとしている。
「岩崎の旦那、何が起こるんですかぃ?」
二代目が男爵へこっそり問った。
「まあまあ、後が面倒になるから、ここは、芳子の好きにさせてくれ。という事で、京介頼んだよ」
「はい?!私、ですか?」
「そうよ、京介さん。頼んだわよ!乾杯の歌、お願いね」
こちらへ来いと、芳子は京介を手招き部屋の真ん中に立った。
「どら、奥様は、随分とやる気だから、私達は、廊下に腰を下ろすか。月子さん、すまないねぇ。少し、付き合ってくれるかな?」
言って、男爵は腰を下ろすと、芳子へ向かって拍手を送る。
なんとなく、言わんとすることが読めた岩崎は、渋々、芳子の隣に立った。
「義姉上、ヴェルディですね?」
うんうんと、嬉しそうに芳子は頷き、姿勢を正した。
「あー、では、仕方なく。ジュゼッペ・ヴェルディによるオペラ、ラ・トラヴィアータより、乾杯の歌」
岩崎も、姿勢を正し、すっと息を吸う。
「あー、月子さん。外国の歌劇でね、その中の劇中歌なんだけど、芳子が唯一唄えるものなんだ。いわゆる十八番ってやつだな。それは、男女の合唱だから、京介の力が必要になるんだよ」
男爵は、一緒に座っている月子へ説明するが、なるほどと、そばに座る二代目が頷いている。
そして、岩崎の一声が流れ出す。
その迫力ある唄声と、外国語の歌詞に月子は驚いた。
大きく響き渡る岩崎の声は、とても張りがあり、透明感のある明るいものだった。
そもそも曲が明るい物なのか、岩崎の唄声が明るいものなのか、月子には、わからなかったが、とにかく、その声量に引き付けられた。
暫くすると、芳子が進み出て唄い始める。京介は中休みの如く、唄を止めた。
芳子も、当然外国語で唄い、とても高い音を出している。
そして、岩崎が追いかける様に、再び唄い出し、芳子との合唱が始まった。
月子は、つい身を乗り出してしまう。
何か祝う様な楽しい雰囲気の調《しらべ》と、岩崎の天を貫くように響き渡る美声に魅せられたのだ。
それは、月子だけでなく……。
「あぁーーあぁーーあぁーー」
お咲が、体を揺らしながら、一緒に唄い始めた。
「おや、お咲に気に入られたか」
男爵が微笑む。
岩崎、芳子、お咲と三人の合唱に、花園劇場の支配人も目を丸くして、
「恐れ入りました!男爵夫人!」
目一杯叫ぶと、畳に頭をすり付け芳子のご機嫌伺いを始める。
「……芳子、その辺でいいんじゃないのかい?」
「そうね、そのようね」
芳子も、男爵の一言に納得したようで、唄をやめ、ちらりと支配人の姿に目をやった。
「お咲がキャラメルなら、私は、あんパンで手を打つわ」
「もちろん、よろしゅうございます!!」
支配人は、更に頭を畳にすり付け芳子の機嫌を取り続ける。
「あっ、京介さんは?」
「はっ?……私ですか?では……汁粉で……」
岩崎が言ったとたん、二代目がぶっと吹き出す。
「好きなもん言ってる場合かよ」
「まあ、いいんじゃないのかい?芳子は、劇場に立つのが夢だったんだ。そして、好きなあんパンが食べられると」
一石二鳥だと、男爵がまたまた嬉しそうに微笑んだ。
いやいや、そうゆう話ではと、二代目が慌てているが、月子も、くすりと笑っていた。
岩崎が、つられて汁粉、と答えた。つまり、岩崎は、汁粉が好物なのだ。知らなかった一面を知れたと月子は嬉しくなった。
同時に、汁粉の作り方を誰かに学ばなくてはいけない。ガス台は上手く使えるだろうかと、岩崎のために台所に立っている自身の姿を思い浮かべていた。
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