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「月子、すまん。私の配慮が足りなかった」
部屋を出て、廊下を歩みながら岩崎は、月子へ詫びてきた。
チェロの演奏はいつでも出来るのにと、押しかけた状態で披露した事を岩崎はひたすら気にしている。
月子の母の疲れ具合を目の当たりにしたからだろう。
「ご病気ということをうっかりしていた」
険しい表情の岩崎へ、月子は、そんなに気にしないで欲しいと言ったが、岩崎には聞こえてないようだった。
「もっと、色々お聞かせしたかったなぁ。というよりも……月子は聞きたい曲はないのか?」
「曲……ですか?あの、私は曲を知りません。旦那様が聞かせてくださる曲で十分です」
西条家での生活では、西洋の音楽どころか、巷で流行っている曲すら月子は耳にしたことがなかった。曲を知らないと言うしかない状態は、とても恥ずかしかった。
一方、岩崎は、先ほど演奏した物には続きがあるのだと遠慮がちに言って月子をじっと見ている。
「……続きですか?」
「曲には歌詞がある」
岩崎は言うと、さっとそっぽを向いた。
「歌詞ですか……」
やもすると挙動不審な岩崎の落ちつきのなさを月子は不思議に思ったが、先ほど聞いた物は、セレナーデという恋の曲だったと思い出す。
恋いしい人を想って音を奏で、気持ちを唄にして届ける。そうゆう趣向の曲だったはずだ。
つまり、梅子がはしゃいだ通り、恋唄を岩崎は演奏した。そして、今、その続きというのは、歌詞も聞かせたいと言うことなのでは……なかろうか?
岩崎がそっぽを向く時は、何かやりたいことがあり、その気恥ずかしさを隠しているのだと、月子も薄々わかってきた。
それに、月子も岩崎の演奏をもっと聞きたかった。
奏でられる曲はどれも素晴らしく、月子を夢見心地にさせてくれる。
そして……。
演奏している岩崎の姿は、時に凛々しく、時に優しく……つい、見惚れてしまうものだった。
「き、聞きたいです!!」
身を乗り出す勢いで返事をした月子の様子に、岩崎は、瞬間驚くが、何故かついて来ているお咲へ向きなおった。
「お咲!お前は月子の世話をする役目だろ?ならば、月子へ茶の用意をしてくれ。本館へ行って誰か女中へ頼んで来なさい」
月子は、どうして岩崎がお咲を女中扱いするのかわからなかったが、お咲はというと、
「はい!お咲は女中です!」
などと嬉しそうに答え、パタパタと廊下をかけていった。
岩崎は、落ち着きがないなどと愚痴っていたが、椅子がないから縁側に腰かけ演奏しようと、適当に襖をあけて部屋に入り込むと障子を開けた。
確かに縁側があるのだが、岩崎に着いて行った月子は、長く横に延びた枝を持つ、斜幹仕立ての松の木が印象的な、豪華な和風庭園を見ることになる。
岩崎は目の前に広がる庭など慣れたものなのか、縁側に腰を下ろしてチェロを構えた。
「まあ、歌詞については、うろ覚えの所もあるので……」
口ごもりつつも、岩崎は静かに弓を引く。
そして、外国語の唄を添えてくれるのだが、月子にはその意味はわからない。
だが、先ほどと同じ曲なのに、歌詞が付いただけで、いっそう深みが加わり、月子は聞き入ってしまった。
恋の唄。恋の曲。
愛しい人に捧げるものを、岩崎は月子だけに演奏し、唄ってくれている。
その唄声は、切々として清らかで……、月子は、知らぬ間にその場に力なく座り込み、うっとりと、岩崎なことを見つめていた。
こうして、月子がチェロの調べと岩崎の歌声に魅せられていると……。
バタバタと誰かが駆け込んで来て、悲鳴を上げた。
当然、演奏は中断し、邪魔されたと怒る岩崎の大声が流れる。
「なんですか!義姉上《あねうえ》!それに、兄上もっ!!」
びっくりするだろうと、苛立つ岩崎に、芳子が叫ぶ。
「嘘でしょ!!!なんで、セレナーデ!!!」
「京介!!」
「京介様!」
ついでに、男爵と共に現れた吉田も叫んだ。
「なんです!いけませんかっ?!」
岩崎も負けてはいない。
怒鳴り合いのような状況に遭遇し、月子は我を取り戻したが、何が起こっているのかは、当然分からない。
黙って、この成り行きを見ているしかなかった。