会場へ入る前にホテルフロントへ声を掛けて手荷物と上着をクロークに預けた天莉は、腕時計に視線を落として、少し早く着き過ぎてしまったかな?と思って。
すぐには二階の会場へ移動せず、ロビーでほんの少し時間をつぶすことにした。
窓辺の席へ腰かけて見るとはなしに外を眺めていると、尽がいつも使っている黒のセンチュリーがホテルの敷地内へ入ってくるのが見えて、何となくソワソワしてしまう。
別に逃げなくてもいいのだけれど、何だか照れ臭くて。尽に見つからないうちに会場へ移動してしまおうと思ってしまった天莉だ。
収容人数一五〇〇名の大宴会場には、入り口に受付が設けられていて、社名、所属部署、氏名などを告げてチェックしてもらってから、会場内へ入るシステムで。
仕事でいつも使っている名札を付けるよう前もって通達されていたので、『管理本部総務課 玉木』と書かれた札を首に掛けた天莉は、一度だけ深呼吸をして入り口をくぐった。
毎年この時期に開かれる『株式会社ミライ』主催の親睦会は、場内に設置されたフードコーナーから好きな料理を自分で取り分けるバイキング形式。テーブルはあるけれど基本立食の形でのパーティーだ。
会場の壁沿いには椅子がいくつも用意されていて、疲れたらそこへ座れるようになっている。
予定スタート時刻の十時まであと二十分くらい。
矢張りちょっと早過ぎたかな?と思いながら場内を見回せば、思ったより人が集まっていて驚かされた。
(まぁ会に参加する分母自体が大きいもんね)
天莉、いつもは裏方に徹しているので、こんな風に一般参加の雰囲気を味わうのは初めてで落ち着かない。
沢山人が来るのだから、色んな考え方の人がいて当然だよね、と自分に言い聞かせた。
とりあえず一人だけ早くに会場入りして悪目立ちせずに済むことにホッとした天莉は、場内をぐるりと見回してから、尽が演台前に立ったらすぐに気付けそうな位置へ移動しておこうと思い立つ。
もちろん一介の平社員の身で、余りにも真正面のド真ん中の辺りを陣取るわけにはいかないので、上座側に近い壁際に佇んでみた。
かなり大勢の人間がひしめき合っていても、尽はきっと誰よりもかっこよくて誰よりもオーラがあるから、絶対にすぐ目を奪われる自信がある。
それでも天莉は一六〇センチには及ばない程度と、そんなに背が高い方ではないから、あんまり長身の人が前をふさがないでいてくれたらいいなと、思って。
ふと無意識にそんなあれこれを思ってしまってから、(ヤダッ。私、滅茶苦茶尽くんのこと好きみたいじゃないっ)と今更のように気が付いて照れ臭くなった。
実際、尽はかなりハイスペックだし、誰から見ても間違いなくかっこいい男性だと思う。
顔も申し分ないほど整っていて、おまけに一八〇センチ越えの高身長。
センスのいい眼鏡をかけていて、どことなく理知的に見えるのが、天莉にはかなりポイントが高い。
声だって、耳元で囁かれたりするとぞくぞくしてしまうほど耳馴染みの良いバリトンボイスだ。
もちろん普段の喋り声も、声を張らなくても周りをしん……とさせてしまう重量感がある。
大企業と言うほどではないが、中小企業というのは烏滸がましく思えてしまうような、そこそこ大きな『株式会社ミライ』にあって、あの若さで専属秘書を宛がわれるような役付。
まだハッキリとは分からないけれど、恐らくご実家もかなりの資産家だろう。
そんな、きっと誰が見ても魅力的な尽が、どうして自分みたいに何の取り柄もない平凡な人間に執着してくれるのかが天莉には分からない。
そんな、非の打ち所がないように見える尽だけど、ただひとつだけ。
一緒に暮らしてみて初めて分かったのだけれど、生活能力だけは壊滅的に欠如している。
でも……それにしたって、天莉がちょっと教えれば何だって卒なくこなせるようになってしまう器用さも兼ね備えているのだ。
(教えてあげたらすぐ出来るようになるって分かってるのに……何でかな? 家事に関しては必要最低限のことしか学んで欲しくないって思っちゃう)
秘書で尽の幼なじみの伊藤直樹が、今まで尽にそういうことをさせずにいてくれたことへ、思わず感謝したくなってしまうくらい、天莉の中では大きなこだわりで。
それは、他のことではほぼ完璧。隙が見当たらない尽にとって、少しでも自分が価値ある存在だと思われたいと言う天莉の承認欲求の現れだったりするのだけれど、本人はそのことに気付いていない。
ほぅ、っと我知らず切ない吐息を漏らした天莉に、
「あの、隣、いいですか?」
突然見知らぬ男性が声を掛けてきた。
「えっ?」
まだパーティが始まるまでは間がある。
別に人でごった返してひしめき合っているというわけではない。
天莉がちょっとそこから身を引けば、その男性は好きな位置に立てるかも知れないな?と思って。
「あ、ごめんなさい、すぐ避けますね」
そう思った天莉は、そそくさと移動しようとしたのだけれど。
「あ、あのっ、ちょっと待って。……玉木さんっ!」
名乗りを上げたわけでもないのに名前を呼ばれた天莉は、「えっ?」と思わず怪訝な顔になってしまう。
その表情のまま同年代くらいの男性を見つめたら「あ、な、名札に書いてあったから」と胸元を指さされた。
確かに思いっきり〝玉木〟だと自己主張をしていたことに気が付いた天莉は、にわかに恥ずかしくなって。
「あ、あの……」
言って眼前の男を見つめたけれど、『株式会社ミライ』の人間ではないんだろう。
彼の胸元には名札が掛かっていなかった。
「ああ、俺は――『アスマモル薬品工業』で営業をしております沖村と言います」
言って名刺を差し出された天莉は、社会人としての条件反射。
思わず両手で小さな紙片を受け取って、「あっ」とつぶやいて。
「申し訳ありません。あいにくわたくし、今手元に名刺を用意していなくて」
と返した。
そうだ。
いくら親睦会といっても仕事の一環。
人脈を広げるための社交会だと思えば、名刺は必須だったのだ。
今までずっと裏方ばかりで……しかもこんな風に名刺を渡されるような立場にいなかった天莉は、そのことをすっかり失念してしまっていた。
外部とはほとんど関わりのない総務課の人間とはいえ、『ミライ』の名を冠した名札を付けている以上、気を抜いてはいけなかったのに。
しかも『アスマモル薬品工業』と言えば『株式会社ミライ』の親会社。
蔑ろにしていい相手ではないではないか。
「あ。それは全然構わなくて。えっと、俺……その、違うんだ。別に仕事の絡みで声を掛けたわけでも、貴女にそこを退いて欲しかったわけでもなくて――。あー、もう、何言ってんだろ……」
沖村はモダモダと自問自答みたいに独り言混じりにつぶやいてから、意を決したように天莉をじっと真正面から見つめてきた。
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