「オーヴェ」
子供が甘えるようなどこか幼い感じがする呼ばれ方が好きになったのは、いつ頃からだろうか。
リオンと付き合いだし、初めて迎えたお互いの誕生日の夜、巨大すぎるテディベアの手を握りながら彼がそう呼ぶまでは、誰にもその様に呼ばれることはなかった。
兄と姉はミドルネームの愛称であるフェルやフェリクスと呼び、両親はウーヴェと呼ぶ。当然ながら親戚や友達も皆ウーヴェと呼んでいる為か、当初は自分のことだとはなかなか思えずに戸惑い、そんな自分を見たリオンが更に戸惑うと言うおかしな現象が起きていたが、いつしかそれも当然のようになり、買い物をしてサインをする際に思わずオーヴェと書いてしまいそうになるほどだった。
例えばこれが兄のギュンター・ノルベルトや姉のアリーセ・エリザベスだったらと考え、何やら随分と恐ろしい事を考えている錯覚に陥ってしまう。
小さな頃からの付き合いがあり、市内でそれなりに高級と称されるレストランを経営している友人が呼んだとすれば、気持ち悪いから止めろと即座に言い放ってしまいそうだった。
リオンだけが平気だと気付き、どうしてなのかと考えていると、使い勝手の良いデスクに置いた電話が控え目に着信を告げる。
「はい?」
『お電話が入っております』
「ありがとう、繋いで欲しい」
『かしこまりました』
今日の午前の診察が比較的早く終わった為、午後の患者のリストをパラパラと捲りながら受話器を肩で挟んで、バルツァーですと答える。
『オーヴェ!』
「っ!!」
受話器の向こうから聞こえてきた声に驚くと同時にリストを床に落としてしまい、慌てて拾い上げようとして電話機がデスクの上を引きずられて移動する。
『オーヴェ?どうかしたか?』
「・・・っ・・・い、いや、大丈夫だ」
聞こえてくる物音に首を傾げた気配が伝わってきた為、落ち着けと己に命じて逆にどうしたと返しながら床に落ちたリストと電話機を定位置に戻す。
『今日の夜、何か予定が入っているか?』
「夜?」
『そう』
背後から聞こえるエンジン音と人のざわめきから外で掛けてきている事に気付き、今のところ何も入っていないと告げ、ボールペンをくるくると指の上で回転させる。
『みんなが飲みに行こうって言ってるんだけど、オーヴェも一緒にどうだ?』
「私が行けば気を遣うんじゃないのか?」
『平気平気。みんながオーヴェにも来て欲しいって言ってるから』
「は?」
あっけらかんとした声で告げられる言葉に素っ頓狂な声を上げたウーヴェは、どういう事だと声を潜めてしまい、直後に響いた不気味な笑い声に思わず受話器を耳から外してまじまじと見つめてしまう。
『オーヴェ?』
「いきなり不気味な笑い方をするな」
『へへ。まあ詳しいことは夜に話すけどさ、仕事が終わったら迎えに行こうか?』
車をどうすると暗に問われていることに気付き、それならば一度車を置きに帰るから店に直接行くと伝えれば、何度かリオンと行ったことのあるガストシュテッテの名前が告げられ、そこならば地下鉄を使ってすぐに行けると頷く。
『じゃあ店で待ってるから』
「ああ」
最後にもう一度念押しで自分が参加しても気を遣わないのかと問いかけたウーヴェに、再び不気味な笑い声を発したリオンが問題ないと断言する。
今夜の飲み会に一抹の不安を抱きつつ受話器を戻し、タイミング良くノックされた為にどうぞと返せば、仕事が一段落付いた事を示す笑顔でそろそろお昼にしませんかと告げられ、今日のお昼は何を食べようかと伸びをしながら呟いて診察室を出るのだった。
約束通り電車で店に向かったウーヴェは、店先で寒い寒いと肩を震わせながら待っている恋人を発見し、いつもいつも言っているがどうして先に中に入っていないと眉を寄せる。
「ん?いつもいつも言ってるだろ?こうして待っているのが楽しいって」
にこりと心底嬉しそうな顔で笑われてしまえばそれ以上何も言えず、冷たくなっている頬を革手袋に包まれた手で一撫でし、中に入ろうと促す。
店内は程良く混み合っていて、リオンが案内したのは店の一番奥のテーブルだった。
今回集まったのは愛妻家で携帯の待ち受けも妻の画像だというコニーと、小柄で少し頼りない為かいつもみんなにからかわれているヴェルナー、その性格で良くリオンと付き合っていられるなと密かに感心する程生真面目なマクシミリアン、そして紅一点、見事な赤毛をベリーショートにして大きな双眸を好奇心で輝かせているダニエラの、リオン曰くの愉快な仲間達だった為、これならば確かに気を遣わないですむと胸を撫で下ろしたウーヴェは、恋人の同僚達からお疲れさまと労われ、同じ言葉を笑顔で返す。
「じゃあみんな揃った事だし」
「プロースト!」
ウーヴェが席に着いたと同時にビールが運ばれてきた為、ジョッキをそれぞれが手に持って乾杯と声を上げてガチャガチャとジョッキを触れあわせる。
「美味いっ!」
ぷはぁと、どこのおっさんだと思わず言いたくなるような飲みっぷりでジョッキを半分ほど空けたリオンの横、何食わぬ顔をしたウーヴェが既にジョッキを空にしていた。
「話には聞いていたけど、ドクってかなり酒に強いな」
ジョッキが空になるペースの速さに目を瞠ったのはいつもランチは愛妻の手作りだと自慢するコニーで、その横でヴェルナーが目を瞬かせていた。
「そうかな?」
自分自身意識したことはないと苦笑しつつ、傍を通った店員にビールのお代わりを注文する。
「酔っぱらったところって見たことあるのか、リオン?」
二人が付き合っている事を知っている面々の問いに、フライドポテトを食べるために大口を開けていたリオンは、ごくんとそれを呑み込んで考えるように煙草の煙で靄っている天井を睨む。
「見たこと・・・あるなぁ」
「あるのか?どんな風になるんだ?」
何故か身を乗り出して問いかけてくるコニーにリオンはただ瞬きをし、ウーヴェが若干焦りながら酔っ払った醜態を見せただろうかと、運ばれてきたジョッキを片手に思案する。
確かにどちらかと言えば酒には強い方だが、リオンの前で酔い潰れた記憶はなかった。
酒を飲んだとしても記憶がなくなる事などほとんど無く、酔い潰れることすら滅多になかった。
だから大丈夫だと己を安堵させるために内心呟いた時、リオンから思いも掛けない言葉を聞かされて目を見開いてしまう。
「酔っ払ったらすぐに襲ってくるんだぜ」
きっと彼女と付き合ってるときもそうだったんだろうが、一度なんか俺のアパートの廊下で襲い掛かられた。
にやりと笑いながらリオンが放った一言が衝撃を持って面々の上を通過し、真横のウーヴェの耳に辿り着いた時、周囲の者が一斉にこちらを見てしまうほどの大声が各々の口から発せられてしまう。
「えぇええええ!?」
「リ・・・リオン!?」
「ん?どうした、オーヴェ?」
「どうしたじゃない・・・!!」
そんな酒癖はないと、にやりと笑みを浮かべる恋人の胸ぐらを掴んで思わず揺さぶったウーヴェに4対の視線が突き刺さり、我に返って咳払いを一つすると、残っていたリオンのジョッキを無造作に掴んで一息にビールを飲み干す。
「あーあ」
俺のビールと嘆くリオンを羞恥から来る怒りにターコイズを染めたウーヴェがじろりと睨み、無言で肩を竦められてジョッキを腹癒せのように音高くテーブルに戻す。
「そんな酒癖はない」
うっすらと目元を赤くしながら小さく叫べば、別に良いじゃないかとけろりと笑われてしまって絶句する。
「俺も酔っ払ったらすぐにオーヴェをハグするらしいし?」
「お前は酔っ払わなくてもマックスに抱きついているだろうが」
リオンが胸を張っての一言にすかさずコニーが言い返し、被害を受けているマクシミリアンが仰々しく頷く。
「えー、俺マックスに抱きついてる?」
「今朝も出勤した途端に抱きつかれた」
どうして男に抱きつかれなければならないと、深々と溜息を吐いたマクシミリアンだったが、何かに気付いた様にウーヴェの横顔をちらりと見つめて目を伏せる。
言いたいことを素早く察した彼は、気にしないでくれと思いつつマクシミリアンを安心させるように微かに笑みを浮かべる。
「あ、きっとあれだ。マックスって体温が高いから暖かいんだ」
「間違いなく警察署で一番体温が高いのはお前だ、リオン」
己の言動の理由が分かったと自慢気に叫んだリオンだったが、今回もまたコニーに鋭く突っ込まれて思わずウーヴェの肩に顔を伏せてしまう。
自分も確かにリオンを子供扱いすることがままあるが、ここまで見事に子供扱いされている恋人を見てしまえばさすがに少しは気の毒になってくる。
「子供は体温が高いものねー」
「ひでぇぜ、ダニエラ!」
「だってそうじゃない?」
ねぇ、と、同じくパートナーがいて子供もいるコニーに同意を求めるように見たダニエラだったが、全くその通りだと子供を持たないヴェルナーやマクシミリアンにも何故か激しく同意されてしまう。
「オーヴェぇ」
「・・・お前は出勤した途端に人に抱きついているのか?」
泊まった翌朝に酒を出している覚えはないぞと、肩に懐いてくる金髪をぺしりと叩いたウーヴェは、自業自得だとも呟いてオーダーしたビールを今度はゆっくりと味わうように飲んでいく。
「あ、思い出した」
「何だ?」
くすんと鼻をすすって同情を買おうとしているらしいリオンだったが、それを得られない事に気付いたら気分の切り替えが早いのか、軽く口を尖らせて顎を上げて斜交いにウーヴェを見下ろす。
「オーヴェって我が儘なんだぜー」
「は?」
「そりゃお前だろう」
「俺が我が儘なのはもうみんな知ってることだから問題ないんだよ」
何だそりゃとブーイングが起きるが、それを綺麗に無視したリオンがにたりと不気味な笑みを浮かべてウーヴェを見つめ、恋人が仰け反った拍子に顔をずずいと近付ける。
「俺がハニーって呼んだらベッドから追い出す癖に、酔っ払ったら自分は呼びたい放題に呼ぶんだぜ」
「ハニー!?」
この見るからにごついリオンがハニーだと、と、驚愕に顔を真っ青にしたマクシミリアンが呟き、コニーもヴェルナーも何やら胸焼けがすると言う顔で天井を仰ぐが、唯一ダニエラだけは興味を示したのか、テーブルに肘をついて顎を支え、どういう事だと先を促してくる。
「リオン・・・!」
それ以上は何も言うなと言うように叫んだウーヴェの口をリオンの大きな掌が覆い隠し、もがもがと掌に文句を垂れる恋人ににっこりと満面の笑みを浮かべる。
「コニーは奥さんの事をスイートハートって呼んでるだろ?」
「そうみたいね。私は名前だけど彼がダーリンって呼ぶわね」
「家は確かにスイートハートだな」
既婚者とリオンがお互いのパートナーを何と呼ぶかで盛り上がり始め、残されたマクシミリアンとヴェルナーが顔を見合わせて深々と溜息を吐くが、リオンの大きな掌に文字通り口封じをされてしまっているウーヴェにしてみれば、この後どんな言葉が飛び出すかが気に掛かり、滅多にないことだが慌てふためきそうになる。
「時々さ、俺もオーヴェの事をハニーって呼ぶんだよ。そうしたらさ・・・」
「誰がハニーだ」
「!!」
リオンの手を鷲掴みにして振り払ったかと思うと、その手で拳を作ってくすんだ金髪の上に落下させたウーヴェは、ぽかんと見つめてくる面々を肩で息をしつつ見渡していく。
「・・・・・・こうなる訳だ」
リオンが言いたかったことを目の当たりにしたコニーの一言に皆が無言で一斉に頷き、テーブルに突っ伏したリオンの頭を指で突く。
「おーい、リオン、生きてるかー?」
「・・・脳細胞が死滅した」
「脳細胞が生きている証明になって良かったな」
ふんと鼻息荒く言い放ったウーヴェを上目遣いで見つめたリオンは、自分は酔っ払ったときには文字通りハニーを連呼する癖にと口を尖らせてぶつぶつと文句を垂れるが、その文句を止めさせたのは再度ウーヴェが握った拳ではなく、ヴェルナーがぼそりと呟いた一言だった。
「・・・・・・イメージ的にハニーはやっぱりドクだね」
「!?」
「だろ!?」
「だからといってリオンがダーリンという感じでもないし、スイートハートなんか呼ばれたのを聞いたら・・・ごめん、今飲んだビール全部吐き出すよ」
ヴェルナーが肩を竦めて呟いた一言に沈黙した面々だったが、確かにその通りと、話題にされているリオン自身も激しく同意をしてしまう。
「で、考えたんだけど、パンプキンかな?」
「パンプキン!?」
「俺、カボチャ!?」
「・・・・・・ぷっ」
ヴェルナーお前酔っ払ってるだろうと、リオンとコニーに突っ込まれていたが、いつもはどちらかと言えば頼りないヴェルナーが頑として譲らず、リオンのイメージはパンプキンだと繰り返す。
そのやり取りを見ていたウーヴェはさっきの羞恥から来る怒りを忘れてしまい、ついぷっと吹き出してしまう。
「パンプキンは良いわね」
あはははははと快活に笑い飛ばしながらテーブルを叩いたダニエラをリオンが恨みの籠もった目で見つめ、そう言って前はシンバと呼んだだろうと思い出したら腹が立ったらしい顔で笑い続ける面々の顔を一人ずつ見つめていく。
「シンバ?」
「この間さ、みんながシンバって呼ぶって言ってただろ?」
「ああ、そう言えばあったな、そんなことが」
「うん。で、後で戻って聞いてみたらさ・・・」
みんなアニメか何かを見て思いついて、ついからかい半分に呼んだら俺の反応が楽しかったそうだ。
「・・・・・・は?」
「オーヴェがああ言ってくれたのはすげー嬉しいけど、みんなはからかい半分だったって」
先日、診療の合間に駆け込んできた恋人は、皆が突然自分のことを異国の言葉で呼ぶと膨れっ面をしていた。
それを思い出したウーヴェは、その時には皆はからかっている訳じゃないだろうと慰めたのだが、実際は面白くて楽しかったらしい。
リオンに真相を教えられてしまい、その時の己の言動を振り返ればあまりにも気恥ずかしくなってしまう。
恋人のことを自ら誉め倒したようなものだった。
思わず顔を赤くして口を覆い隠して顔を背けたウーヴェに、リオンが今日の飲み会は俺とオーヴェはタダだと笑う。
「どういう事だ?」
「ん?ほら、これ」
リオンが脱いで椅子に引っかけていたコートのポケットから出てきたのは、30枚は優にあるだろう硬貨と数枚の紙幣だった。
「どうしたんだ、これは?」
「へへ」
イタズラが成功した悪ガキの顔で鼻の頭をかりかりと引っ掻いたリオンを瞠った目で見つめたウーヴェは、その様子からあることに気付いて目を細める。
「リオン、まさかとは思うが・・・」
刑事という職業に恥じるようなことをしたのではないな。
その問いにさすがに心外だと口を尖らせたリオンに素直に悪かったと謝罪をし、本当にどうしたと硬貨を摘んで矯めつ眇めつしながら問いかければ、寄付だと教えられて絶句する。
「寄付?」
「そうですよ、ドク」
ここぞとばかりにマクシミリアンが身を乗り出し、どういう事だと首を傾げるウーヴェに事情を説明する。
マクシミリアンの説明によれば、自分をからかい半分でシンバと呼んだ者をどうやってかは不明だが特定したリオンは、出勤してくる者を捕まえて小箱を差し出したそうだ。
「まさか・・・」
「俺をからかったらこうなるんだーって教えてやった」
自慢気に胸を張ってえへんと鼻を鳴らす恋人を呆然と見つめたウーヴェは、口にこそ出さなかったがさすがに昔は悪ガキで名前が通っていただけはあると、妙な感心をしてしまう。
「一番気の毒だったのはヒンケル警部だよな」
「どうしてだ?」
「偶々小銭の持ち合わせが無かったみたいで、5ユーロ紙幣しかないと言ったら釣りはないって。あの時はさすがにリオンが悪魔に見えたね」
小箱には皆が寄付した硬貨がじゃらじゃらとあったくせに、釣りはないの一点張りだぜと、本当に気の毒に思っているのか怪しい口調で告げられてただ苦笑し、硬貨に混じってよれよれになった紙幣を見たウーヴェは、紙幣が何枚かあることに気付いてヒンケル以外の被害者がいたことも知る。
「一人いくらだ?」
「1ユーロ。安いもんだろ?」
からかい半分に呼んだ代償が1ユーロならば安いものだ。
にやりと、まるでどこかの悪魔のような顔で笑ったリオンに、ウーヴェが誰もが見惚けるような綺麗な笑みを浮かべて手を伸ばす。
「リーオ」
「な、何だ、オーヴェ?」
恋人が呼ばれると逆らうことの出来ない名をそっと呼び、他の面々が思わず赤面するような表情を浮かべて顔を寄せたウーヴェは、リオンの手に手を重ねて笑みを深める。
「からかい半分に呼んだ代償が1ユーロなんだな?」
「そ、そうだけど・・・オーヴェ、何か怖いんですけど・・・?」
「ならばお前がハニーと呼べばその代償に1ユーロ貰うことにしよう」
「げっ!!」
リオンが惚れて止まないターコイズを細め、うっすらと目元を赤くしながら囁いたウーヴェに一瞬にして顔色を変えたリオンが素っ頓狂な声を上げるが、さっき二回ほど呼んだだろうと囁きながら硬貨を二枚、手元に引き寄せる。
「オーヴェぇっ!!」
「・・・俺、悪魔の上前撥ねる人、初めて見た」
「本当だな」
「ドクの方が顔も綺麗だからもっと悪魔みたいね」
「似たもの同士って事か」
残りの四人が二人のやり取りをぽかんと見つめていたが、程なくしてあまりにも馬鹿らしくなったために溜息を吐き、傍を通った店員に各々ビールをお代わりと同時に叫ぶのだった。
楽しかった飲み会はあっという間に終わりを迎え、ダニエラとマクシミリアンが同じ方向だからと笑顔で手を挙げて駅に向かい、ヴェルナーとコニーもそれぞれ駅に向かって歩き出す。
リオンとウーヴェも地下鉄に向かっていたが、会計を済ませた頃からやけに沈み込んだ顔でリオンがとぼとぼと歩いていた。
さっきはあの場の雰囲気とノリでついついハニーと呼べば1ユーロと言い放ってしまったが、ウーヴェにしてみればハニーと呼ばれる気恥ずかしさが嫌なだけで、リオンが呼ぶことに関しては特に嫌悪はなかった。
それを伝えていない事を思い出すが、もしも出来るのであれば周りにいる人達や恋人達が呼び合うよう、ハニーだのダーリンだのとは呼び合いたくはないと考えている事を伝えようと足を止めて振り返る。
「リオン」
「ん?」
「今日は家に泊まるか?」
「そーだな・・・うん。泊まって帰る」
本当は狭いながらも楽しい我が家に戻るつもりだったがこのまま帰ってしまうのは何か気分的にすっきりしないかった為、泊まって帰ると告げられて目を細める。
「リーオ」
「・・・・・・なに」
珍しくとぼとぼと歩く恋人に自分だけが呼ぶことの出来る呼び方をしたウーヴェは、僅かに明るくなった顔に手を伸ばして頬を撫でて落ち込むなと目を細める。
「ハニーって呼ばれるのがそーんなに嫌だったのか?」
子供が拗ねた顔で見つめてくる恋人に軽く目を瞠った後、小さく溜息を吐きながらコートのポケットに突っ込まれている手を握るためにそっとポケットに手を差し入れる。
「オーヴェ?」
「タクシーで帰るぞ」
「うん」
ポケットの中で一度きつく手を握った後、何ごともなかったかのようにタクシー乗り場へと足を向けたウーヴェを追いかけて肩を並べたリオンは、突然どうしてタクシーで帰ろうと言いだしたのかが分からなかったが、今は逆らわない方が良いと気付く。
乗り場で待機しているタクシーに乗り込んで自宅の住所を告げたウーヴェは、運転手に怪しまれない程度に身を寄せ、小さく欠伸をしながらリオンの肩に頭を預ける。
さすがにタクシーの中で告げる訳にはいかなかった為、自宅に戻ればきちんと伝えようと決めてリオンの手に手を重ねれば、振り解かれることなく逆に軽く握りしめられる。
それに自然と安堵の溜息を零して早く家に着いてくれないかと目を閉じていれば、夜は車の量が少ないからか思っているよりも早くに家に着いてくれた為、代金を支払ってマンションのフロアへと向かい、待機しているエレベーターでリオンが乗り込んでくるのを待つ。
「リーオ」
「え?」
上昇する箱の中、もう一度ウーヴェだけが呼ぶ名で恋人を呼ぶと、目を丸くするリオンにふわりと笑みを浮かべてくすんだ金髪を抱き寄せる。
「オーヴェ?」
「─────それが良い」
「へ?」
エレベーターの中で互いの頭を抱き寄せながら囁きあった恋人達は、自宅があるフロアに到着したことを教えられるが離れることが出来ず、転がるようにエレベーターを出てすぐの壁に凭れてキスをする。
「・・・は・・・っ」
「オーヴェ」
いつしか呼ばれる本人も好きになった呼び方をされ、ぞくりと背筋を震わせたウーヴェは、この時ばかりはこのフロアにあるのが自分の家だけで良かったと思い、コートのポケットからキーを取り出そうとするが、リオンの手が僅かに早くポケットに忍び込んでキーを取り出して鍵を開ける。
二人を招き入れるために開かれたドアを縺れるようにして潜りながらも、どうしても離れることが出来ずに今度は玄関の壁に背中を預けてキスをする。
口の端を伝い落ちる唾液を拭うこともせず、玄関先であることも忘れて早急に互いの身体に手を伸ばしてコートを足下に落としてスーツを脱がせようとするが、さすがにいくら何でもここで抱き合うことは嫌だとウーヴェが目を伏せる。
「オーヴェ」
「・・・っ・・・シャワーを浴びてから・・・っ」
「待てねぇ」
「リオンっ」
大柄なリオンに背後から抱き締められながらも、廊下の壁に手を付いて何とか長い廊下を歩くウーヴェを邪魔するようにキスの雨を降らせたリオンは、ベッドルームに辿り着いた事をドアが開く音で気付き、小さく掛け声をかけてウーヴェの身体を横抱きにする。
「リオンっ!」
所謂お姫様抱っこはさすがに恥ずかしいが、じっと見つめてくるロイヤルブルーの双眸に言葉を続けることが出来ず、羞恥のあまり視線を逸らせば鼻先にキスが一つ。
「このままするかシャワー浴びながらするか。どっちが良い、オーヴェ?」
「な・・・っ!!」
シャワーは浴びたいがバスルームで抱かれるなどまるでがっついているようで嫌だったが、だからといってシャワーを浴びずに抱き合うのも少しばかり気が引けた為、さあどうすると目を細めるリオンの鼻を一つ摘んで軽く睨み付ける。
「いてっ」
「バカタレっ」
「いてて」
むぎゅーっと鼻を摘んで馬鹿を繰り返すウーヴェからそのまま続けて良いとの言葉を感じ取ったリオンは、まるで貴重品か何かのようにベッドに恋人の身体を下ろし、腰を跨いだまま手早く服を脱いでいく。
それを見上げていたウーヴェだったが、服の中に潜り込んできた手が次は自分の番だと教えてくれたため、腰を持ち上げて協力するのだった。
リオンが快感を与えながらさっきの言葉の意味を教えろと強請り、堪えきれない嬌声と共に、オーヴェと呼ぶどこか甘えたような調子や音の高低が好きで、誰もが呼ぶようなハニーだのダーリンだのとは呼ばれたくないしまたリオンの事をそんな風に呼びたくはないとの思いを吐露してしまい、リオンを更に喜ばせてしまう。
ひっきりなしに高い声を上げ続けるウーヴェが好きだと言った呼び方を何度もしたリオンは、同じようにウーヴェだけが呼ぶ呼び方をしてくれと、汗の玉が浮く紅潮した身体を抱き寄せて囁きかける。
何度となく名を呼ばれ、その度に望む呼び方をし続けた二人は、ほぼ同時に白熱の瞬間を迎えるのだった。
翌朝、いつもより気怠い顔のウーヴェにいつもより早い時間に起こされたリオンは、それでも絶品の朝食を用意してくれる恋人に感謝をして残さず綺麗に総てを平らげる。
出勤する前に一度家に戻って着替えをするからと、お互いに名残惜しさを感じつつもキスをし、元気に働いてくると出て行く背中を見送るのだった。
その後、雑貨屋で買い求めた中国風のデザインが施された豚の貯金箱を自宅に持ち帰ったウーヴェは、先日の宣言通りにリオンがハニーと呼べばリオンの財布から取り出した1ユーロ硬貨を貯金箱にチャリンと落としていくのだった。
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