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投稿遅れてしまいました。
話の方向性を決めるのに時間がかかってしまい……
「あの頃と同じ本当の欄干橋が好きだ」鮎川のその言葉が紫檀の胸の奥底で引っかかり続けていた。一度自分を救ってくれたはずのその言葉が彼女を虐げているのにはある訳がある。
「それが本当のお前か」
彼女の散らかった脳裏からある記憶の断片が顔を出す。彼女はそれが意味のない苦行にすぎないことを知っていながらまた回想を始める。
グラスの中でアイスコーヒーの下に溜まった氷を弄びながら私は答えた。
「私ね、そばにいてほしい」
鮎川は黙り込んでしまった。そうして、何かを言おうとしてからやめて、一度ため息をついた。
「正直に言う。お前は今は一人でいるべきだし、俺の土日は足跡も残さず平穏に終わるべきだし、お前がどれほど飢えていても俺の夜は寝ているうちに静かに過ぎ去るべきものなんだ」
そしてアイスコーヒーの氷を飲み残しのこぼし口に捨てながら彼は言った。
「だから、今の欄干橋は本当の欄干橋じゃない。少し混乱しているんだ、お前は。」
今の私は本当の私じゃない、という言葉が私の心を強く縛り付けた。確かに鮎川は私のことを私よりも理解しているようなところはある。でもそうじゃない。どれが本当の私かなんてあなたには分かりようがないんだ。それを知るのは私だけだ。
「これが本当の私」
鮎川は新書に無造作にしおりを挟み、時々見せる賢者のような鋭い目をして言い放った。
「今は、そうかもしれないな。だが、いつかは本当のお前に戻る。戻るはずだし、俺は、なるべく速く、本当のお前に戻ってほしい」
私は珍しくケーキを頼まずに会計をして帰った。後ろから奢るよと鮎川が言ったが応じない。ポケットから千円札を取り出して547円を受け取る。限定の抹茶ケーキののぼりが風に揺れている。ケーキは来週までしか売っていない。いや、いつまで売っていようと関係ない。一人でなら私はもうこのコーヒースタンドには来ないだろうから。そしてこの喫茶店に鮎川と来ることは二度とないだろうから。
あれから数週間が過ぎた。もうあれから鮎川とは全く顔も合わせていない。でも私はその時のことを回想してばかりで、どうしても忘れることができない。なぜか心がざわめくのだ。どうしようもなく。多分鮎川に会いたいのだ、ということはなんとなく自覚していた。けれども……
現実に引き戻される。司書の先生が「欄干橋さん」と呼ぶ。
「ああ、はい」
カウンターにずっと立っている。本を読んでもいない。目が虚にはなっていたかもしれないが仕事をサボっているわけでもない。なぜ呼ばれたのだろう。
「鮎川くんが来てるわよ」
そう言って彼女は微笑んだ。私は促されるがまま洋書コーナーに足を運んだ。やはり先生はなんでもお見通しだ。
「何かお探しですか」
私は他人行儀に鮎川に聞く。それ以外に言葉が思いつかなかったのだ。
「欄干橋を、探していた」
鮎川は微笑むと、一冊の洋書を取り出した。
「これは、洋書ではないんだけど思い入れがある本なんだ。読む?」
「ちょっと読ませて」
いつものお決まりの言葉を発する。じゃあ二、三時間、いつも通り立ち読みに付き合ってもらおうか。
司書はふふふと笑いかけたのち、いつも通りに本を読み始めた。その笑い声を聞いたのは私だけだったようだ。鮎川はいつも通り、ぼんやりとした目で図書室中のポスターに目を通し始めた。そして、虚構の中に私の意識は吸い込まれていく。その後に聞こえた、「どう?」という問いかけが本の中のセリフか鮎川の声か、一度混乱してしまうほどには、虚構の中に取り込まれていた。
私は本を読み終えて窓の外に目をやった。闇色の窓には、星の代わりに図書室の蛍光灯の光を受けて輝く雨粒があった。
「すまん、遅くまで」
返事がなかったので鮎川がいなくなったのかと思い、振り返ってみる。だが彼は依然そこに佇んでいた。
「元からわかっている。別に構わない、欄干橋」
彼は穏やかに微笑んだ。
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