テラーノベル
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空気が潰れるような悲鳴。
有夏の掌底が幾ヶ瀬の側頭部をはたいたのだ。
「客って何だよ。有夏に客とらす気かよ。1人で転職しろ! コックやめて、そ・ゆう店でもすりゃいいんだ!」
いちいち「な、有夏」と同意を求められるのが余程に鬱陶しかったようだ。
もう一度幾ヶ瀬の頭を叩く。
いやいや、転職ってのはエネルギーを使うもんだから、当分はちょっと考えられないよと頭をさすって苦笑いを返す幾ヶ瀬に、堪えた様子はないが。
彼にとって可愛い有夏が怒ったところで、それはやはり可愛いものでしかないのだ。
「じゃあさ、有夏。ここをそういう店にしない?」
「は?」
「は? なに?」
「は? 意味が……」
有夏の声がどんどん低くなっていく中、幾ヶ瀬の表情はいつになく明るい。
「有夏がこの店のNo.1で、俺が馴染みの客って設定で」
「キモイキモイ! 何言って……」
「だから、そういう遊びだって。たまには面白いでしょ。有夏だって変わったことしたいって言ってたじゃない」
「……変わったことしたいなんて言ってない」
有夏の苦情を軽く無視して、幾ヶ瀬は続ける。
「どうせなら夢のイタリアを舞台にしようよ!」
べつに有夏はそんな夢持ってないという反論は、もう幾ヶ瀬の耳には入っていないようだ。
「ルネッサンス末期のイタリアの男娼専門の売春宿で、客層はそこそこの金持ちって感じ。とんでもなく高級な所ってわけじゃないけど、庶民が行けるようなレベルでもないと」
「キモ……」
何だか設定に凝りだした。
「有夏、名前はどうする?」
「なまえ?」
「ほらぁ、源氏名っていうの? ヨーロッパっぽい名前考えてよ」
「何で有夏が……。じゃあ、メッシ」
「……めっし? サッカーの? え? 今頃?」
「うん、メッシ」
「そ、そう……」
アルゼンチンの選手だし、第一「メッシ」は苗字だ。
「……有夏がアホなのを忘れてたな」
「は?」
小さな声を聞き咎めて有夏が口をとがらせる。
「うん、アリカでいいか」
ノリに乗ってる幾ヶ瀬、勝手に命名した。
「アリカは男娼専門の娼館の売れっ子ね」
「う、うん?」
イタリアとか客層がとか言い出したあたりから、有夏は呑まれてしまっているようで。
うわ言のように「キモイキモイ」言いながらも、素直に頷いている。
「俺はアリカの初めての客」
「は? おかしくね? 初めてなのにNo.1なんて」
幾ヶ瀬のドリームがキモすぎるとごちながらも、有夏、これは意見を出してきたと言えるだろうか。
「や、違うって。今やアリカはこの地区の高嶺の花って感じの男娼で、ちょっとやそっとじゃ抱けないくらいの存在になってて……」
「この地区って、このアパート? プラザ中崎の?」
「有夏ぁ―っ!? 一気に現実もってこないでーっ!? イタリアだよー、ここは13世紀後半のイタリア地方都市。その一角にある夜の街。ブラザ中崎なんて言わないでよ。アリカは美人でかわいくてカラダも最高の売れっ子……」
「ちょ、ゴメン。これだけ言いたい」
「何、有夏?」
「幾ヶ瀬、キッモ!」
少々構えていただけに幾ヶ瀬、ガクッと肩を落とす。
「No.1はキモイキモイ言わないの!」
幾ヶ瀬が更に声を張り上げる。
「俺はアリカの処女を奪った初めての客ってことで。ここまでいいね?」
「ショ……何言って……キッ、ううっ」
キモイとの叫びを、今回はどうにか堪えたようだ。
「けどさ、風俗とかって最初は店長が研修がてらヤるんじゃないの?」
「やめてくれ、有夏! いや、そうかもしれないけど……知らないけど。でもアリカは処女だから、上客の俺に回そうと配慮されたって話で」
「キッ………………」
幾ヶ瀬の熱気に圧倒されるように有夏、じりじりと身を引いている。
「……幾ヶ瀬、上客なんだ。てことは有夏が入ってくる前から通いつめてるんだ。うわぁ」
「頼むよ、有夏。ちょっとだけ。アリカ、アリカ……昨夜はどうしていたんだい。他の男に抱かれてしまったのかい」
有夏──いや、アリカの手を取り細い指先に舌先を這わせる幾ヶ瀬。
「ちょ……もう入ってんの? やめろって。お客さーん、キモすぎなんですけどー?」
有夏ァッ! 幾ヶ瀬が怒鳴る。
「アリカはそんな頭悪いメスブタみたいな喋り方はしないの!」
「メスブ…!? わ、悪かったな。どうせアタマ……」
文句をぶつけようと開いた口を、幾ヶ瀬の唇が覆う。
「ううんっ……」
上唇と下唇の間を丹念に舐められ、有夏の肩から力が抜けるのが分かった。
幾ヶ瀬は唇を離そうとはしない。
舌先を使って有夏の上顎を内から撫で、それから彼の舌を自らの口中に引き入れると軽く歯をあてた。
抱き寄せた有夏の腰が震えているのを確認し、ようやく幾ヶ瀬は顔を離す。
目の前に見える耳が真っ赤だ。
「アリカ、可愛い……」
耳たぶに指先を這わすと、たちまち双眸が潤みだす。
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