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#NL
瀬名 紫陽花
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ナースステーションに飛び交う、ねっとりとした悪意の声。
耳をすませば、その噂話の内容は「穂乃果が夜な夜な怪しげなバーに足しげく通い、男を誑かして遊んでいる。そのせいで直樹との婚約が破談になりかけた」という、あまりにも悪質なものだった。
しかも腹立たしいことに、噂には最悪な続きがあった。――直樹はあまりにも心が広いので、そんな穂乃果の浮気を許して、もう一度やり直してあげるつもりらしい、と。
(……何それ。全部、全くの事実無根じゃない……!)
あまりの怒りと理不尽さに、全身の血が逆流するような感覚を覚えながら、穂乃果は視線でナースステーションを射抜いた。
――里奈ね。
2日前、BLACK CATに現れたというあの女の顔が、即座に脳裏に過る。確信した穂乃果は、少し遅れてナースステーションにやってきた里奈の姿を捉えると、すぐさま彼女を人気の無いリネン室へと連れ込み、詰め寄った。
「里奈、いい加減にして。証拠もないのに根も葉もない噂を流すのはやめて!」
「はぁ? 何のこと?」
里奈はわざとらしく小首を傾げ、しらばっくれた。その口元には、勝ち誇ったような醜い笑みが浮かんでいる。
「用事もないのに夜中にバーに通うのっておかしくない? どうせあの店のイケメン君目当てなんでしょ。直樹先生を裏切って男漁りなんて、サイテー」
「……違うわよ。だいたい、あの子は――」
――あの子は、本当は女の子なのよ。
そう言いかけて、穂乃果はハッと口を噤んだ。湊は訳あって男装して働いている。BLACK CATの大切な秘密を、自分の保身のためにこんな女に暴露するわけにはいかない。
言い返せずに黙り込んだ穂乃果を見て、里奈はフンと鼻を鳴らし、一歩距離を詰めて声を潜めた。
「ねぇ穂乃果、真鍋先生って本当に“優秀な先生”よね」
そう言いながら、リネン棚の書類を“さりげなく整えるふり”をして中身をぱらぱらとめくる。
「……ちゃんと“評価されるべき人”って、いると思わない?」
「ッ……!?」
里奈は書類の角を軽く揃えながら、視線だけをこちらに向けた。
「“ちゃんとした人”と結婚するのって、そんなに悪いこと?」
一拍置いて、笑う。
「……それが、私たちの年齢ならなおさら」
(だから、私が悪い事になってるの?)
あまりの衝撃と冷酷な真実に、目の前がクラクラとする。
「アンタが大人しく直樹と結婚していれば、私だってこんな噂流すつもりなかったのに……。親友として胸が痛いのよ? おかしな女に誑かされて調子乗ってるみたいだけど、いい加減目を覚ましなさいよ。普通の選択しかできないのよ、アンタは」
「……そういうことね」
喉の奥で、音にならない声が落ちた。
視界の端がじわりと滲む。
最初から、愛なんてこれっぽっちもなかった。里奈にも自分との友情なんて、最初から存在していなかったのだ。
わかってはいたけれど、こんなにも剥き出しの悪意に満ちた感情を直接ぶつけられるのは、流石に堪える。
自分はただ、直樹が病院でのし上がるための、長年かけて計画した野望の、そして里奈がその蜜を吸うための、都合のいい道具として利用されていただけ。
里奈は、穂乃果が訴えを起こすための費用も、戦うための証拠も持っていないことを確信しているからこそ、ここまで堂々と恐ろしい計画を口にしているのだ。
反論しようと、穂乃果が震える唇を開いたその時。リネン室のドアが開き、日勤帯の先輩ナースが顔を覗かせた。
「あ、斎藤さん、ここにいた。ねぇねぇ、今日ね、うちの病棟に入院してきた患者さん、超絶イケメンだよ! しかも、うちの院長の知り合いらしいの」
「えー? そうなんですか……?」
「そうそう。もう、すっごいイケメンなんだって!」
突然の世間話に、里奈へ反論する機会を完全に失ってしまう。里奈はフンッと鼻で笑いながら、先にナースステーションへと戻っていった。
今夜の夜勤は、里奈と一晩一緒だ。
針のむしろのような空気の中、逃げ出すことはできない。こうなったら、一晩かけてでも奴らの悪意と遣り合うしかない――穂乃果は奥歯を噛み締め、冷たくなった拳を握りしめて覚悟を決めた。