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#NL
瀬名 紫陽花
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今夜の夜勤は、里奈と一晩一緒だ。
針のむしろのような空気の中、逃げ出すことはできない。こうなったら、一晩かけてでも奴らの悪意と遣り合うしかない――穂乃果は奥歯を噛み締め、冷たくなった拳を握りしめて覚悟を決めた。
(胃が痛くなりそうな、長い夜だな……)
重い足取りでナースステーションのパソコンに向かい、今夜受け持つ患者の情報を集め始める。
パラパラと画面をスクロールし、『本日入院 1名(検査入院)』の欄に目を留めた瞬間、穂乃果の指先がピタリと止まった。
【氏名:織田 健司(オダ ケンジ)】
【病室:特別室】
「……っ!」
胸の奥が、ドクンと激しく跳ね上がる。
ケンジ。
そう言えば、自分はナオミの本当の名前が『ケンジ』だということしか知らない。名字なんて、一度も聞いたことがなかった。
(一瞬、ナオミさん……? って思ったけど、まさかね)
あんなに「この顔で出歩きたくない」と苦笑していた綺麗な人が、わざわざ自分の勤務する病院を選ぶわけがない。しかも、その病室はこの病院で一番高額なVIPルームだ。
「違うよね……」
穂乃果は小さく首を振り、妄想を振り払うようにパチパチと瞬きをした。きっと今頃は、ここではない違う病院で、明日の検査に向けての準備をしているに違いない。
そう自分を納得させ、受け持ち患者の割り振りを確認しようとした、その時だった。
「あ! 安住さん。特別室の織田さんがいる方、私が見るから。アンタは反対側のエリアよろしくー」
背後から、割り込むように里奈の弾んだ声が響いた。
急な担当の変更に、穂乃果は眉をひそめて振り返る。
「はぁ? 何勝手な事言って……」
「なぁに? もしかして、安住さん、VIPルームの織田さんまで手籠めにしようとしてるわけ?」
「――っ!」
「いやだ、いやらしい」
「本当。直樹先生っていう素敵な婚約者がいながら、今度はVIPのイケメン患者に目を付けるなんてね……」
すかさず、周囲のナースたちから容赦のない心ない声が飛んでくる。
反論しようと言葉を吸い込んだ穂乃果の喉が、怒りと悔しさでカチリと凍りついた。
里奈が自分の都合のいいように、夜勤の担当エリアを「代わって」と言い出すのは、今に始まった事ではなかった。これまでは余計なトラブルを避けるため、気にも留めずに大人しく従ってきた。
別に、受け持ちのエリアが変わること自体は構わない。けれど、なぜこんな卑劣な言葉でなじられ、悪者に仕立て上げられなければならないのか。
クスクスとせせら笑う同僚たちの中、里奈は「じゃあ決まりね!」と嬉しそうにパソコンのデータをチェックして、勝ち誇った笑みを穂乃果に差し向けた。
「……分かったわ。じゃあ、私は反対側を見るから」
ここで感情的に言い返せば、それこそ周囲の思うツボだ。穂乃果は奥歯を噛み締め、冷たくなった指先で自分の担当エリアのカルテを引き寄せた。
溢れそうになる悔し涙をグッと堪え、一人で戦う覚悟を決めた、その時。
「……ねぇ、大丈夫?」
すぐ傍から、消え入りそうな、けれど確かな温もりを持った声が掛けられた。
えっ、と驚いて振り返ると、そこには同僚の彩美が心配そうにこちらを見つめて立っていた。彼女は、今にも自分が泣き出してしまいそうな、痛々しいほど歪めた顔をしている。
「みんな酷いよね。証拠もないのに……。私は、安住さんがそんなことする人じゃないって信じてるからね!」
「彩美、ちゃん……」
その言葉が、凍りついていた穂乃果の心をじんわりと溶かしていく。
張り巡らされた悪意の蜘蛛の糸、誰もが敵に見えるナースステーション。けれど、自分の日頃の働きを、自分という人間を、ちゃんと見て、信じてくれる人がここにいた。
「ありがとう、彩美ちゃん。私、大丈夫だから」
穂乃果は小さく微笑み、強くカルテを抱きしめた。そして、張り詰めた声を少しだけ和らげて、目の前の大切な同僚に言葉を続ける。
「あのね、今度時間があったら話したいことがあるの……聞いてくれる?」
「もちろん!」
彩美は即座に、パッと顔を輝かせて力強く頷いてくれた。その曇りのない笑顔に、穂乃果の胸の奥に眠っていた勇気がふつふつと湧き上がってくる。
里奈の仕掛けた罠に、ただ傷つけられるだけの穂乃果ではない。信じてくれる人のためにも、そして自分の尊厳のためにも、この長い夜を絶対に戦い抜いてみせる。
重苦しい申し送りが終わり、時計の針が夜勤帯の始まりを告げた。
胃が痛くなるような、最悪の夜勤が幕を開ける――。