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『お姉ちゃん、賢也くんをクビにしたの?』
桜の声は冷静だった。
「自主退職よ」
『そうするように追い込んだんでしょ』
「私がしたわけじゃないわ」
『けど、賢也くんはお姉ちゃんにハメられたって言ってたよ?』
「それを信じるの?」
『……』
沈黙が、桜の怒りを伝達する。
「私、結婚するの」
『……』
「黛から聞いてるんでしょう?」
『立波リゾート、ちょうだい』
「桜」
『旦那さんになる人、お金持ってるんでしょう? なら、私に立波リゾートをちょうだい』
「桜」
『また、お姉ちゃんだけ幸せになろうとするの——?』
桜……。
三年前にも同じことを言われた。
『私を置いて、お姉ちゃんだけ幸せになるの? それなら————』
その翌日。
私は昊輝に別れを告げた。
私と桜の時間は、三年前から止まったまま。
『お姉ちゃんにはお金持ちの部長さん。私には無職の賢也くん。ズルいよね』
「黛と別れるように、何度も言ったでしょう?」
『別れなかったから、クビにしたの?』
「黛がクビになるようなことをしたのよ。それに、黛には桜以外にも女がいた」
『浮気なんて、どうでもいい』
やっぱり知ってたんだ。
「そうね。お互い様だもんね」
『……』
やっぱり続いてたのね……。
黛とのことは、口実。
留学させることで、あの男との関係を断ち切らせたかった。
無駄だったようだけれど。
「黛は知ってるの?」
『お姉ちゃんには関係ないでしょ。とにかく、賢也くんを立波の——』
「ダメよ。黛に立波は渡さない」
『私を見捨てるの?』
何も知らない人が聞けば、涙を浮かべて縋るようなか細い声。
けれど、私は騙されない。
「見捨てられたくなければ、黛ともあの男とも別れなさい!」
電話は切れた。
桜が伯父さんに泣きつくのはわかっている。
だから、伯父さんには桜からの電話に出ないように頼んでおいた。
黛のしたことも、会社を辞めたことも伝えた。
伯父さんたちは、黛に立波家の敷居を跨がせないことを約束してくれた。
握りしめたスマホが震え、私は画面を見た。桜からのメッセージ。
『お姉ちゃんだけ幸せになるなんて、許さない』
私は仰け反って天井を見た。
桜は私がズルいと言うけれど、私にしてみたら桜の方がよっぽどズルい。
母親似で人目を引く容姿と誰からも好かれる愛嬌を持っていて、勉強も出来る。生まれた時から愛されて甘やかされていた。
なにより、実の父親が誰だかわかっている。
父親が誰だかわからず、母親には育児放棄され、祖父母からは血筋の悪さが滲み出ないようにと厳しく育てられた。
一人娘の育て方を間違えたから、孫でやり直したかっただけだろうけど……。
母親は桜を産んだだけで、育ててきたのは義父と私だった。
実の娘だと信じて育てたお義父さんが、可哀想よね。
義父に言い聞かされてきた。
『お前が桜を守っていくんだぞ』と。
お義父さんが生きていたら、どうなっていたんだろう?
義父は桜を可愛がったけれど、甘やかしていたわけじゃなかった。勲に比べたら、よっぽど父親らしかった。
勲は桜の望みを何でも叶えた。
欲しいものを与え、食べたいものを食べさせ、行きたい場所に連れて行った。
義父だと思っている実の父親のせいで、堕落してしまったなんて、皮肉なものね。
死期が迫った勲も私に言った。
『桜を頼む』と。
けれど、二人の義父は、間違えた。
私に桜を託すなんて、人選ミスだ——。
『お前が守りたいのは立波リゾートか? 妹か?』
黛は私に何度も聞いた。
その度に、私が守りたいのは妹だ、と自分に言い聞かせた。
黛から立波リゾートを守ることこそが、桜を守ることだと、自分を納得させてきた。
それも、もう限界なのかもしれない。
巻き込みたくなくて昊輝と別れたのに、雄大さんとは別れられる気がしない。
全部忘れて、雄大さんと生きていけたら……。
決して口には出来ない願いを呑み込み、私は会議室を後にした。
*****
「で? いつ籍を入れるの?」
澪さんがジョッキを傾けながら言った。
「結婚式の後で、なんて言わないでしょう?」
「まだ、具体的には何も……」
「雄大《あいつ》何やってんの? 親の承諾も得たんだから、役所に行くだけじゃない」
「ははは……」
停職が解けてから一週間。
雄大さんは溜まった仕事に追われて、帰って来ていない。
毎朝、始業一時間前に着替えと朝ご飯を持って彼の部屋に行くと、ソファで寝ている。
起こして、彼と朝食を食べる一時間だけが、私たちが一緒にいられる時間だった。
せめて週末はゆっくり休んでほしかったけれど、雄大さんは今朝早く出張に行ってしまった。日曜日《明日》の夜に帰る。
元々、今夜は三人で食事をする約束になっていた。
「雄大がいなくて寂しい?」
「え?」
「それとも、マリッジブルーかな。浮かない顔してるよ」
思わず頬に手を当てた。
「悩みがあるなら聞くわよ?」
澪さんには敵わない。
「あ、食べながらね。焦げちゃうから」
今日は澪さんのリクエストで焼肉。
結婚を認めてもらえるように、一緒にご両親に頭を下げてくれたお礼にと、奮発して予約を入れておいた。
澪さんは特上カルビを頬張り、目を細めた。
喜んでもらえて良かった。
「で? どうしたの?」
私は空いたスペースに、塩ホルモンを乗せた。
「黛が辞めて、万々歳じゃないの?」
「妹が……黛を辞めさせた私を恨んでるんです」
「ああ……」
「私——」
職業柄なのか、人柄なのか、澪さんは聞き上手で、しかも雄大さんのお姉さんで、今の私には唯一、胸の内を曝け出される人になっていた。
「お姉さんと雄大さんみたいな姉妹になりたかったです」
「私たちみたいな!?」と、澪さんは意外そうに言った。
「はい」
「憧れられるような、理想的な姉弟じゃないと思うけど?」
「私と妹は……仲がいいとは言えないので」
ふと、隣の席の男性二人が、チラチラとこちらを見ていることに気がついた。
二人の視線の先には、澪さん。
澪さんの大人の女性の美しさや余裕には、女性同士でもドキッとさせられる。男性が目に止めないはずがない。
「ねぇ、馨ちゃん」
「はい」
「馨ちゃんは妹さんが好き?」
「————はい」
あからさまに気持ちのこもっていない返事をしてしまった。それを指摘される前に、目を逸らしてしまった。
「嘘……です」
「嫌いなの?」
「……はい」
「私も、雄大のこと嫌いよ」
「え?」
焼けているお肉をトングで掴み、私の皿に載せながら、澪さんが言った。
「ムカつくじゃない。姉から見てもいい男で、家事一切も完璧で、仕事でも出世コースに乗っちゃって。その上、こんな可愛い婚約者がいるなんて」
最後の件はさておき、他は共感できる。
「それに比べて、私は家事がダメだし、バツ二だし、子供も……もう厳しいし。いくら出世しても、自分磨きしても、子供や旦那の話で盛り上がる友達を見れば羨ましくなるわよ」
私は皿に積まれたお肉を、一枚ずつ胃に蓄えていく。
「そういう時は……雄大の完璧さが嫌いになるわ」
わかる気がする。
私も、思う。
どうして私なんかが、雄大さんに望まれているのだろう……?
「けど、雄大さんが完璧なのは、お姉さんの影響ですよね?」
「私の?」
「はい。家事が苦手なお姉さんの為に家事を覚えて、お姉さんの背中を見て出世コースを邁進中で、……いい男なのは血筋ですよね。お姉さんもご両親も美形ですもん。それに、どうしても下の子って要領がいいじゃないですか」
「そうそう! 私の失敗で学習するから、雄大はいつもうまく立ち回るの。何かあっても私が助けてあげてたし? けど、私を助けてくれる人はいなかったから、強くなるしかないのよね」と言いながら、箸を振る。
「ってゆーか? 雄大みたいな完璧な弟がいたら、どうしたって比べちゃうじゃない。旦那に私の女子力の低さを責められると、『雄大なら文句言わないのに』って思っちゃうのよ。弟と旦那じゃ立場が違うから当然なんだけど」
澪さんが人並みの悩みを持っていることに、少しホッとした。
「雄大さんも同じかもしれないですよ? 今まで付き合った人が綺麗系の美人でキャリアウーマンばかりだったのは、澪さんへの憧れからでしょう? けど、澪さんとは違うから結婚まで辿り着けなかったんじゃないですか?」
「何だか、私たちがものすっごいシスコンブラコンみたいに聞こえるけど」
不服そうに口を尖らせる澪さんに、笑えた。
「羨ましいです」
「……人のことはよくわかるのよね」
「え?」
「馨ちゃんと妹さんも同じなんじゃない? お互いに自分にないものを持ってる相手が疎ましくなってるだけ。それを相手が持っているのは、自分があるからこそなのに」
わかっている。
結局は、ないものねだりなのだ。
私も、桜も。
「けど、姉妹だから許せることと、姉妹だから許せないことがあると思うわ。それはどうしたって仕方がないのよ。異性ならない問題が、同性にはあるし」
「そう……ですね」
「今はわかりあえなくても、いつか分かり合えることもあるんじゃないかな」
そうだといいな、と思った。
「ま、私と馨ちゃんは大丈夫よ? 結婚してからも、こうしてデートしましょうね」
「はい!」
澪さんの前では素直になれる自分が好きだ。
ずっと、気を張って生きてきたから。
ずっと、一人で生きてきたから。
ずっと、誰かに寄り添って、誰かに包まれたかった。
ようやく、肩の力を抜ける場所を見つけた。
それが、嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
それがたとえ、束の間の休憩所だったとしても——。
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