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時計の針が、深夜を過ぎていた。
伊月は机に突っ伏して、動けずにいた。
枕元に置いたスマホには、何の通知も来ない。遥からは、何も。
昼のあの光景が、脳裏にこびりついて離れなかった。
(あんなの……遥が、嬉しいはずない。
なのに……俺、何もできなかった)
遥の目を、唇を、震えた声を、全部覚えている。
だからこそ、それが本物じゃなかったことも、わかってしまった。
――それでも、信じていいのか、もうわからなかった。
(俺に言ってくれないなら、どうしたらよかったんだよ……)
拳を握りしめる。涙はもう出なかった。
ただ、胸の奥が焼けるように苦しくて――寝返りを打って、目を閉じた。
そのとき、ふと、スマホが震えた。
画面には、“非通知”の文字。
(……誰だよ、こんな時間に)
疑問に思いながらも、無視できなくて通話ボタンを押す。
「……伊月?」
その声に、心臓が止まりかけた。
「……遥?」
声が震えた。けれど、その声は確かに遥だった。
ノイズ混じりで、掠れていて、どこかで泣いた後のような声音。
「ごめん……今、話していいかな……少しだけでいい」
「……うん。聞かせて。何が、あったの」
電話の向こう、遥はしばらく沈黙した。
そして、小さく息を吐いて――言った。
「……俺、弱くてさ。
伊月を守りたかったのに……間違えた。ずっと間違えてた」
「……木嶋に、脅されてた?」
質問は静かだった。
遥は、驚いたように息をのんだ。
「……知ってたの?」
「なんとなく。……でも、信じたかったから、信じたくなかった」
静寂が流れる。
「俺さ。
あいつに写真撮られて、脅されて……
でも、それでも伊月が傷つくくらいなら、俺が嫌われようって……思って」
「バカだよ」
伊月の声が震えた。
「……俺のこと好きだって言ってくれたじゃん。
だったら、一緒に悩んで、戦ってほしかったよ……
勝手に一人で、決めんなよ……」
「……ごめん」
遥の声が、今度は確かに泣いていた。
「ほんとに……ごめん」
伊月は、深く息を吸った。
「……今、どこにいる?」
「……校舎の裏。さっき、木嶋と別れたとこ」
「動かないで。……今から行く」
通話を切って、伊月は部屋を飛び出した。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
でもその下から、新しい「覚悟」が顔を出していた。
セミの鳴き声も止んだ、夏の夜。
旧校舎の裏で、遥は静かに座っていた。
制服の袖は少し汚れて、目元は赤かった。
そこへ、伊月が駆けてくる。
「……遥!」
名前を呼ばれて、遥が顔を上げた。
その瞬間、伊月は思わず腕を伸ばし、抱きしめようとする。
けれど――
「……やめろっ!」
遥が、鋭くその手を払いのけた。
「……え?」
驚く伊月の前で、遥は肩を震わせる。
うつむいたまま、唇がかすかに震えた。
「……触んな……俺に……」
「遥……?」
「……もう、俺……お前に、触れてほしくない……」
その言葉は、拒絶ではなく、懺悔のように聞こえた。
伊月が一歩近づこうとすると、遥はさらに強く叫んだ。
「やめろって言ってんだろ!!」
涙が、頬をつたって落ちた。
「……俺、もう……汚れてるんだよ……
あいつに……あの木嶋に……触られて……っ
無理やりキスされて……首とか、舐められて……
制服の中にまで、手を入れられて……」
遥は、嗚咽をこらえながら言葉をつなぐ。
「“感じてるふりしろ”って、耳元で言われて……
“声、出してみて”とか……
そしたら、本当に……身体が、勝手に……」
そこまで言うと、遥はもう立っていられなくなった。
しゃがみ込んで、頭を抱える。
「やだ……思い出したくないのに、忘れられない……
何度も拒否したのに……怖くて、抵抗できなかった……
伊月……お前にだけは、見られたくない。こんな俺……」
伊月は言葉を失い、ただ、目の前で崩れていく遥を見ていた。
「俺、弱くて……
“守る”とか言いながら、結局、自分じゃどうにもできなくて……
嫌だったのに……
本当は嫌だったのに……あいつに……
“感じてただろ”って、笑われて……
……俺、自分のことが、もうわかんないんだよ……」
唇を噛みしめながら、遥はなおも震えていた。
「伊月まで……俺を汚いって思ったら……
もう、どこにも……居場所なんて、ないんだよ……」
その言葉に、伊月の胸がひき裂かれた。
静かに、ゆっくりと膝をついて、遥と同じ目線になる。
「……思わないよ。汚いなんて、一ミリも思ってない」
「……っ、でも……」
「お前がどんなふうに傷つけられたって、俺の目に映るお前は――
ずっと、大事な“遥”だよ。
好きだよ。……今も、ずっと」
遥の瞳から、新しい涙が零れた。
「……ほんとに、そんなふうに思ってくれるの……?」
「当たり前だろ。誰がなんと言おうと、俺はお前を守る。
もう、お前ひとりに全部背負わせない」
そっと、手を伸ばす。今度は、遥は拒まなかった。
ただそのまま、力なく、伊月の胸に顔を埋めた。
「……怖かった……ずっと、怖かったんだよ……っ」
伊月は、抱きしめながら震える背中を撫でた。
「もう、大丈夫。これからは、ふたりで全部終わらせよう」
夜風が吹いた。
あたたかな、涙の混じったぬくもりだけが、ふたりを包んでいた。
木嶋の写真。動画。脅迫の文面。
すべての証拠をまとめたファイルが、教員の手に渡った。
告発は、静かに進められた。
伊月がすべてを主導し、遥が証言に立った。
一つひとつの言葉を絞り出すように、震えながら――でも、逃げなかった。
木嶋は最初こそしらを切っていたが、
スクリーンに「生徒準備室での隠し撮り動画」が映し出された瞬間、顔色が変わった。
伊月は、怒りを堪えながら見守っていた。
遥の震える肩にそっと手を置くと、彼は小さく頷いた。
「全部……話した。伊月がいてくれたから」
木嶋は処分が決まり、停学と保護者面談の後、転校が決まった。
もう二度と、遥と伊月の前に現れることはない。
すべてが終わった――わけじゃない。
だけど、ようやく「日常」が、ふたりの手の中に戻ってきた。
夕焼けの色が、窓を染める。
あの日と同じ旧校舎の階段。
静かで、誰も来ない、ふたりの場所。
遥がそっと呟いた。
「……全部、終わったね」
「いや、まだ」
伊月が小さく笑う。
「“これからふたりでどうするか”が、始まりだろ」
遥はくすっと笑い、目を伏せる。
「……なあ、伊月」
「ん?」
「ほんとは、怖かった。
お前に抱きしめられたとき、自分が“壊れてる”って思って……
でも、こうやって、またここにいられて……
今、初めて、救われた気がする」
伊月は無言で、遥の手を取った。
「俺もさ。
あの日、あのキスを見たとき、
頭の中ぐちゃぐちゃで……
でも、信じてよかったって思ってる。
お前が、俺のこと……ちゃんと好きでいてくれたこと」
遥の目が潤む。
「伊月……」
「だから――これからは、いっぱい触らせて」
「……え?」
「“俺のもんだ”って、ちゃんと確かめさせてよ」
遥の顔が、少し赤くなる。
「……ばか。言い方がえっちすぎ」
「お前が好きすぎて、制御できないんだよ」
伊月は、遥の腰を引き寄せて抱きしめる。
今度は、拒まれなかった。
いや、むしろ――
遥の手が、伊月の背中にぎゅっと回された。
唇と唇が触れ合い、自然に重なる。
今度のキスは、誰にも見られていない。
誰にも邪魔されない、本物の“ふたりだけの時間”。
「……なあ、伊月」
「ん?」
「お前に触れられるの、安心する。……ちゃんと、“感じられる”」
伊月が遥の首筋にそっとキスを落とす。
「じゃあ、これからも、俺の手でいっぱい癒す」
遥の目が潤んで、微笑む。
「……好きだよ、伊月」
「俺も。ずっと、遥だけ」
制服の袖が触れ合って、心音が重なっていく。
西日に照らされた廊下の奥で、ふたりの影が重なる。
――誰にも見られなくていい。
ふたりが、ふたりであることを、世界に証明しなくてもいい。
ただ、こうして
心と心が触れ合うだけで――それが、いちばんの救いだった。