テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
848
413
永 遠 . @ 眠
川の音が、闇の中で大きく響いていた。
荒い息を吐きながら、マナとライは斜面を駆け下りる。
足はもう限界だった。
何度も転びそうになる。
それでも。
繋いだ手だけは離さない。
「……見えた」
ライが掠れた声で呟く。
木々の向こう。
月明かりに照らされた小さな船着場が見えた。
古びた桟橋。
岸へ繋がれた渡し舟。
そして、一人の老人。
深い笠を被った船頭が、静かにこちらを見ていた。
「……遅かったな」
低い声。
マナが目を見開く。
「待ってたのか?」
船頭は答えない。
ただ、二人の後ろへ視線を向ける。
山道の奥。
まだ微かに松明の光が見えた。
追手は完全には撒けていない。
「乗れ」
短い言葉だった。
ライが一瞬迷う。
「……何故、俺たちを」
船頭は鼻で笑った。
「若いのが命懸けで逃げてんだ。理由なんざ十分だろ」
その声に、どこかロウと似たものを感じた。
マナは唇を噛み、深く頭を下げる。
「……ありがとう」
二人は船へ飛び乗った。
船頭が縄を外す。
その瞬間。
「いたぞ!!」
怒声が夜を裂いた。
追手だ。
松明の光が一気に近づく。
マナの顔から血の気が引く。
「っ……!」
船頭が櫂を押し出す。
舟がゆっくり岸を離れる。
だが遅い。
追手の一人が川辺へ辿り着いた。
弓を構える。
「伏せろ!」
ライがマナを抱き寄せた。
ヒュッ、と風を裂く音。
矢が飛ぶ。
次の瞬間。
ガンッ、と舟へ突き刺さった。
あと少しずれていたら当たっていた。
マナの呼吸が止まる。
追手たちがさらに騒ぎ始める。
だが、その時だった。
「——もう追うな」
低い声が響いた。
空気が変わる。
追手たちが一斉に振り返る。
川辺へ現れたのは、ライの父だった。
黒い衣を風が揺らす。
誰も声を出せない。
父は静かに舟を見る。
離れていく、小さな舟を。
マナは思わずライを見る。
ライも父を見つめていた。
長い沈黙。
川の音だけが響く。
やがて追手の一人が戸惑ったように口を開く。
「ですが当主様、まだ——」
「追うなと言った」
鋭い声だった。
誰も逆らえない。
父は視線を逸らさないまま、低く呟く。
「……もう、伊波ライは死んだ」
マナの胸が締め付けられる。
その言葉の重さがわかる。
家を捨てるとは、こういうことだ。
名前を失う。
過去を失う。
もう戻れない。
ライは唇を噛み締めていた。
涙を堪えるように。
父は静かに続ける。
「次に会う時があるなら」
風が吹く。
月明かりがその横顔を照らした。
「……一人の男として生きてみせろ」
初めてだった。
父が、“伊波の跡継ぎ”ではなく、“ライ自身”へ言葉を向けたのは。
ライの目から、一筋涙が落ちる。
「……はい」
掠れた声だった。
父はもう何も言わない。
ただ背を向ける。
追手たちも静かに道を開いた。
誰一人、舟を追おうとはしなかった。
舟がゆっくり川を進む。
岸が遠ざかる。
ライはずっと父の背中を見ていた。
完全に見えなくなるまで。
やがて。
ぽつり、とマナが呟く。
「……優しかったんだな」
ライが目を伏せる。
「不器用な人です」
涙混じりの声。
「ずっと、家しか見てこなかった」
だからきっと。
愛し方もわからなかったのだ。
マナはそっとライの手を握る。
温かい。
生きている。
ここにいる。
ライは小さく息を吐き、握り返した。
空が少しずつ白み始めていた。
長い夜が、終わろうとしている。
船頭が前を見たまま呟く。
「もうすぐ隣国だ」
その言葉に、マナは静かに空を見上げた。
朝焼けが広がっていく。
綺麗だった。
泣きたくなるくらい。
ライも同じ空を見ている。
名前も、身分も、もうない。
けれど。
隣には、愛した人がいる。
それだけでいいと、今は思えた。
コメント
1件
うわあ…もう、ここまで来たか、って感じですね。船頭さんの「理由なんざ十分だろ」がすごく良かった。ロウさんと重なるところがあるんですね。そしてお父様…「伊波ライは死んだ」からの「一人の男として生きてみせろ」はもう、心臓をぐっと掴まれました。不器用な愛の綺麗な形を見せてもらった気分です。朝焼けの中で手を握り合う二人がまぶしかった。