テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
18
3,143
川の音が、闇の中で大きく響いていた。
荒い息を吐きながら、マナとライは斜面を駆け下りる。
足はもう限界だった。
何度も転びそうになる。
それでも。
繋いだ手だけは離さない。
「……見えた」
ライが掠れた声で呟く。
木々の向こう。
月明かりに照らされた小さな船着場が見えた。
古びた桟橋。
岸へ繋がれた渡し舟。
そして、一人の老人。
深い笠を被った船頭が、静かにこちらを見ていた。
「……遅かったな」
低い声。
マナが目を見開く。
「待ってたのか?」
船頭は答えない。
ただ、二人の後ろへ視線を向ける。
山道の奥。
まだ微かに松明の光が見えた。
追手は完全には撒けていない。
「乗れ」
短い言葉だった。
ライが一瞬迷う。
「……何故、俺たちを」
船頭は鼻で笑った。
「若いのが命懸けで逃げてんだ。理由なんざ十分だろ」
その声に、どこかロウと似たものを感じた。
マナは唇を噛み、深く頭を下げる。
「……ありがとう」
二人は船へ飛び乗った。
船頭が縄を外す。
その瞬間。
「いたぞ!!」
怒声が夜を裂いた。
追手だ。
松明の光が一気に近づく。
マナの顔から血の気が引く。
「っ……!」
船頭が櫂を押し出す。
舟がゆっくり岸を離れる。
だが遅い。
追手の一人が川辺へ辿り着いた。
弓を構える。
「伏せろ!」
ライがマナを抱き寄せた。
ヒュッ、と風を裂く音。
矢が飛ぶ。
次の瞬間。
ガンッ、と舟へ突き刺さった。
あと少しずれていたら当たっていた。
マナの呼吸が止まる。
追手たちがさらに騒ぎ始める。
だが、その時だった。
「——もう追うな」
低い声が響いた。
空気が変わる。
追手たちが一斉に振り返る。
川辺へ現れたのは、ライの父だった。
黒い衣を風が揺らす。
誰も声を出せない。
父は静かに舟を見る。
離れていく、小さな舟を。
マナは思わずライを見る。
ライも父を見つめていた。
長い沈黙。
川の音だけが響く。
やがて追手の一人が戸惑ったように口を開く。
「ですが当主様、まだ——」
「追うなと言った」
鋭い声だった。
誰も逆らえない。
父は視線を逸らさないまま、低く呟く。
「……もう、伊波ライは死んだ」
マナの胸が締め付けられる。
その言葉の重さがわかる。
家を捨てるとは、こういうことだ。
名前を失う。
過去を失う。
もう戻れない。
ライは唇を噛み締めていた。
涙を堪えるように。
父は静かに続ける。
「次に会う時があるなら」
風が吹く。
月明かりがその横顔を照らした。
「……一人の男として生きてみせろ」
初めてだった。
父が、“伊波の跡継ぎ”ではなく、“ライ自身”へ言葉を向けたのは。
ライの目から、一筋涙が落ちる。
「……はい」
掠れた声だった。
父はもう何も言わない。
ただ背を向ける。
追手たちも静かに道を開いた。
誰一人、舟を追おうとはしなかった。
舟がゆっくり川を進む。
岸が遠ざかる。
ライはずっと父の背中を見ていた。
完全に見えなくなるまで。
やがて。
ぽつり、とマナが呟く。
「……優しかったんだな」
ライが目を伏せる。
「不器用な人です」
涙混じりの声。
「ずっと、家しか見てこなかった」
だからきっと。
愛し方もわからなかったのだ。
マナはそっとライの手を握る。
温かい。
生きている。
ここにいる。
ライは小さく息を吐き、握り返した。
空が少しずつ白み始めていた。
長い夜が、終わろうとしている。
船頭が前を見たまま呟く。
「もうすぐ隣国だ」
その言葉に、マナは静かに空を見上げた。
朝焼けが広がっていく。
綺麗だった。
泣きたくなるくらい。
ライも同じ空を見ている。
名前も、身分も、もうない。
けれど。
隣には、愛した人がいる。
それだけでいいと、今は思えた。
コメント
1件
うわあ…もう、ここまで来たか、って感じですね。船頭さんの「理由なんざ十分だろ」がすごく良かった。ロウさんと重なるところがあるんですね。そしてお父様…「伊波ライは死んだ」からの「一人の男として生きてみせろ」はもう、心臓をぐっと掴まれました。不器用な愛の綺麗な形を見せてもらった気分です。朝焼けの中で手を握り合う二人がまぶしかった。