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359
保谷東
「凄い……」
わたしは感嘆の声をもらして、息を呑んだ。
晴明さまに連れてきてもらったそこは、坤鬼舎の裏から少し離れた木々生い茂る山の中腹で、瀑布の側に続く陵丘。山間からは坤鬼舎の森も見えた。
遥か見上げる高みから絶え間なく落下する水は、辺りにひんやりと白く靄を煙らせ心地がいい。少し離れたら音も気にならない。夕暮れの茜を映す滝壺からは迫るような轟きが風を吹き上げ、傍らの丘に立つわたしの髪を揺らした。
「たまに来るんだ」
晴明さまは紫雲を緩く繋ぐと、そこにある板屋を指差す。
「前に穢悪の清祓で、この辺りに来てね。そのときに見付けた。ここもずっと空き家で、私のとっておきさ」
「こんなところに、人が住んでたんですねえ……」
「或いは誰かの別宅だったのかもな。なにかを考えたいときにちょうどいい。いまはもう誰も来ない」
「わたしに教えたら、来てしまうかもしれません」
「気に入ったのならよかった」
晴明さまは振り向き、板屋の遣戸を開けた。そしてこっちを見る。
「お前は私の命の恩人なのだからねえ。さあ、入れ」
「……では」
促され、わたしは左右を見ながら板屋に足を踏み入れた。
見た目は糞小路に建つような簡素な家。半分が土間で、半分が板敷。
だけど中身は晴明さまが手入れしているらしく、きちんと丁寧に整えられていた。狭いのは狭いけど、綺麗だしよく片付いている。
わたしは目礼しつつ、晴明さまの前に恐縮して座った。
彼は円座にあぐらをかくと、壁に開く小さな戸を押し上げ、狭間から小さく見える雄大な滝を眺めた。満足そうに笑んでいる。ここが安らぎの場なのかと感じさせた。同時にここにわたしを連れて来た意味を考える。しかし……。
「あの」
良くも悪くも考えられ、不安を打ち消すように自分から口火を切った。そしてスケと出会ったこと、呪が戻るという話。だから戻ってきたという内容を、なるべく言いわけにならないように話した。
「興味深い」
晴明さまは自分の顎を撫でながら、考え込む。
「それが本当なら、隠岐で呪を取り戻した鬼女もいるかもしれないね。ちょっと使いを出して尋ねてみよう。人手が要るから」
「人手が?」
「呪が使えないとはいえ分かるだろう? この怨。限度を超えかけていて、寒くなるまでには決戦になるだろう。あの魚よりも、たぶん強い」
「ならわたし、坤鬼舎に戻って手伝えますか? なんでもします!」
「……坤鬼舎に帰るのは、難しいな。あそこは私がつくったとは言え、独立した意志を持っているから。私もあそこの作法に逆らうようなマネはできない。でないと余計な災いを生む」
「……そうですか……」
「だけどね、坤鬼舎の外は別だ」
晴明さまは俯くわたしの手を引き、強引に胸元へと抱き寄せた。わたしは逆らいはせず、仰向けの形になり彼の顔を間近に見る。
「ここにしばらく住め。もし呪が戻るようであれば、そのときは改めて私から坤鬼舎に話をしよう」
「お側に、いられるのですか……?」
晴明さまは返事の代わりに、腕に抱くわたしに自分のくちびるを重ねた。わたしは晴明さまのお手を握り、たぶんとても拙かったとは思うけど、頑張ってお応えした。
「母は殺される前、私を見て笑った」
くちびるを離して、晴明さまは濃い空色の眼差しを柔らかくする。
「私は考えている。母のあの笑みの意味。寝ても覚めても、ずっとずっと考えて、それでも私はまだ迷っている。お前のように真っすぐにはなれない」
「もし」
わたしは悲しげに曇る晴明さまの瞳を見て、たまらずその頬を撫でた。多くを知るわけではないけど、彼の悲しい経験に届くように、そっと。
「わたしが真っすぐであるなら、そう導いてくださったのは晴明さまです。あなたさまの情がなければ、わたしは道を間違ったまま死んでいたかもしれません」
「いまは逆だ。私こそお前に同じことを告げたい」
晴明さまは、自分の頬に触れるこの手を取る。その表情は柔らかくて、切なくて、それは坤鬼舎では見たことがない、特別な晴明さまな気がした。
「私にはお前の輝きが必要なんだよ。これからも暗い中で迷う私の側を、お前の緋の目で明るく照らしてくれ」
※
朝になり、わたしは小屋の表に出て背を伸ばした。
山間から生まれたばかりの陽光が、草木に当たって柔らかく跳ね返えっている。陽は眩しいけれど、滝が傍にあるお陰で暑くはならない。落差のある垂水なのに音も小さく、暮らしていく上でいい環境だと思った。
わたしは草を食んでいた紫雲に挨拶して、ふとせせらぎを感じる。
横を見るとささやかな小川が煌めきを放っていて、滝本から流れるそれは、水面に映る山の緑を清める緩やかな流れだった。屈んで水をすくって、口に含む。
「いい水」
澄んでいて、川底の小石まではっきりと見える。
この小川なら……。
わたしは確かめるように小屋を瞥見したあと、するりと小袖と緋袴を脱ぎ川瀬に置いた。素っ裸になると川に入り、体に水をかける。
昨夜のことで、体に汗が滲んでいる。小川の水は冷たすぎもせず、川浴にはちょうどよかった。ここに川があるならいつでも清拭できる。
そう言えば都の貴族さまたちの湯浴みは、陰陽師の易に従うと聞いた。そこまで陰陽や禁忌に振り回されていたら、たとえ出世しても窮屈だと思う。だいだいウチでは陰陽師である晴明さまが、体を綺麗にすることを推奨なさっているし……。
ウチ、か。
わたしはパシャリと自分の体に水を打ち、水面に映る寂し気な表情を眺める。
また、そう呼べる日がくればいいな。
心で呟くと手で首元を拭き、また小屋を流し見た。川の水は心地いいけど、なるべく手早く済ませて帰らなければ……。
「お、川浴かい」
晴明さまに見付かってしまう、と思った側から見付かってしまった。小屋から出てきた晴明さまに背を向け、わたしは慌てて川の中に屈み込む。昔はこんな恥じらいなんてなかったのに。
「もう。裸ですよ、わたし」
「いいじゃない。昨日はさんざん見たんだし」
「表は恥ずかしいんです!」
「つまらないねえ」
ベッと晴明さまに向かって舌を出す。彼は生意気な女房の仕草に笑って、紫雲を一撫ですると、また小屋へと踵を返した。
朝の煌めくひと時。
眩暈がするほど平和で穏やかで柔らかくて、とても愛すべき時間だった。
そう。愛すべき時間だった。
なのに。
なんの前触れもなかった。
いきなりだった。
辺りの空気が突然入れ替わったように暗転し、まるで背に蜘蛛が這うようなおぞましさが全身を駆け巡る。わたしは胸の中まで青ざめ、全身の毛穴が粟立った。
これは……。きっとこの瘴気は……。
確かにいつかはと覚悟はしていたけど……。
でもこの瞬間に訪れるなんて、あんまりだ。
「晴明さま!」
「――来たか……!」
晴明さまは歯を食いしばり、太い息を吐き出した。
人である晴明さまにも、たぶん息詰まる圧で理解された。
きっとこれは、溜まり続けた都の怨。
恐らくついにその形を結んで穢悪となり、産声を上げた。意識を澄まさないでも分かる。炎の熱さに肌が反応するように、激しい憎悪の気配。
わたしは川から飛び出ると、犬のように全身を震わせ水を弾く。そして大急ぎで衣を拾ってまとった。
「危険だ。お前はここにいろ」
晴明さまが紫雲の縄を引く。でもわたしは彼の前に立った。
「いいえ。お供します」
「呪が使えんだろう。ここにいるんだ」
「お供します! 晴明さまを死なせない。なにもできなくても、あなたの盾になる!」
こんな瘴気をまきちらす穢悪、相手にして無事に済むはずがない。死ぬなら絶対にわたしが先に……。
「おい……」
どんなにお叱りを受けても、絶対に付いていく。
いや、ことの次第では止めなくてはいけない。
そう強い思いで晴明さまを正面に見ていたけど、彼は遠い目でわたしを……。いや、わたしのうしろを見ている? 表情は呆然としている。
わたしは彼の目線を追うように、髪を振って顔をうしろに向けた。
目に映ったのは、少し遠くにある山間をゆっくりと進むなにか。
山みたいな大きさで、肥えた人の形をして、体に木や草が生えていて……。
わたしはこれまでに覚えのない光景に全身から力が抜け、紫雲の縄を落としていた。晴明さまもだいたい似たような表情で、彼は音を立てて息を呑んだあと、絶望の色を帯びた呟きを口にする。
「あれが……、穢悪なのか……?」
陸燈
父君も母君も、ツノの生えたあたしを愛してくれていた。
裕福な貴族で、暮らし向きに余裕があったのが大きな要因だろう。また両親は体裁上でこそ陰陽に従っていたが、根っこの部分で穢れに無頓着だったのも事由になっていたかもしれない。
あとから知ったが食うものも事欠く所帯では、生まれてしまった鬼女の扱いなど見るに堪えないほどひどいらしい。
ただ、やはり両親の心労は偲ばれた。
鬼女は強い穢れだ。少なくともそう思われている。
ツノが周囲の知るところになれば、さすがに守り切れない。
あたしは人前に出ることを禁じられ、誰かと会うときは、ほんの童の頃から御簾越しだった。必ず両親が立ち会い、興味本位で御簾を覗く者を厳しく咎めた。
だが厳格な姿勢は予期せぬ風の沙汰を生む。
あたしが姿を見せぬのは、絶世の佳人が由という。
噂はさらに尾ひれの付いた噂を呼び、いくら追い払っても邸の周りには見物人が集まってくる。まるで竹取の翁の物語だと思ったが、ただ話と違うのは、実際に夜這いにやってきた男がいたというところ。
男はあたしを見るなり悲鳴を上げ、いずこへと逃げていった。
それから噂は様変わりし、まるで由緒ある我が家が鬼の栖のように語られるようになってしまった。風の沙汰は内裏にまで及び、帝も宸憂遊ばされていると聞く。
あたしは耐えられなかった。自分のせいで名門の名に傷が付く。父君の御政道が難しくなる。母君が鬼女の母と謗られる。
だから……。
「いい三本ヅノだ」
両親が探し出した陰陽師は、澄んだ紺青の目をして言った。
産まれてからずっと疎ましく思っていたこのツノを、よりにもよって陰陽師に褒められ、あたしはなんとも言い難い複雑な心地になってしまった。男は柔らかい瞳であたしを見つめ、初めての経験に、ガラにもなく心臓が跳ねるのを感じた。
両親はこの男と利害が一致し、あたしを預けることで話を付けたたらしい。我が家は都の裏鬼門に建つ神社を修繕し、それを保つための金子を払う。男はあたしを正室として迎え、北に建てる対屋に住まわせる。
そうしてあたしは陸燈の仗と名付けられ、坤鬼舎の鬼女となった。
ここで働き都に住む父君と母君を守ることが、いまのあたしのお役目だ。
夜火を隠岐に送った、そのあと。
「あんたの仕業かい」
あたしは北の対屋に亜鐘を呼び出し、正座で項垂れる彼女と対峙していた。あたしの隣には霞も侍り、きつい目で亜鐘を睨み付けている。
「なにを仰っているのか……」
「魚の穢悪だよ。なんらかの方法で亜鐘が謀って、あれがここに現れた。違うかい」
「覚えがございません」
亜鐘は胸の内を秘すように、目を合わせようとはしなかった。瞬きも多く、鬼女の中でも一等優れたあたしの目は、微かに開いた亜鐘の黒目も捉えている。
やはり夜火を送ったあとにこの場を設けて正しかった。
「亜鐘」
座したまま霞が口を開く。
「魚の穢悪が顕現した前の晩、私は見たわ。あんた、赤ん坊になにかを飲ませていたでしょ?」
「…………」
「泳がせていたけど、あんた、監視には気付かなかったのね。飲ませていたのは自分の血じゃない? 直前に自分の指を切ってた。なんの意味があるか分からなかったけど、結果的に魚の穢悪が現れた」
「…………」
「あんたの血は、人を穢悪に変えるんじゃないの? それか穢悪に力を持たせるか。真実は分からないけど、疑わしい行動のあとに赤ん坊が穢悪の怨魄として現れた。なにか申し開きがあれば聞かせて」
「…………」
「……なんで黙ったままなの。教えてよ、亜鐘。私の見間違いだって、もっと怒ってよ! あんなの見たくなかったのに……! あんなことになるなんて信じられなかった! どうして……」
霞は涙に声を濡らし、瞳を拭った。しかし亜鐘は石の如く緘黙したまま。
「……だんまりかい。ま、それもいいさ」
「晴明さまは……、どう……」
俯き亜鐘は声をもらした。普段の可愛らしさはなく、錆び付いた声だった。
「もちろん知っておいでさ。夜火の局にお渡りになった朝にお報せしたよ。晴明さまのお渡りは偶然だったけど、いい機会だと思ってあんたを監視してたのさ。あんた、あのとき、庭で指を切って血を垂らしていたね」
「…………」
「どういう理屈かわからないけど、あとでそこを覗いたら穢悪がいた。あたしが誰にも報せずに祓っておいたけど。それが決定的だったねぇ」
「――わたしをどうするお積もりでしょう」
「晴明さまがあのあと、あんたを頼みに加茂の御家に行って、いましがた文が届いてね。扱いが決まった」
告げると、亜鐘の眉がぴくりと反応した。
「……加茂の御家には、あんたを坤鬼舎には置かない方がいいと言われたようだね。晴明さまと会うのも禁じられた。ま、叡山でじゃ拷問はお許し願っているから、甘えて洗いざらい白状しな。心に溜まった毒を抜いて御沙汰を待つんだね」
「ウソです」
「ウソ?」
あたしは脇息にもたれる体を、少し起こした。
「そう。陸燈姉さまはウソを仰っています。晴明さまが、まさかわたしを遠ざけるはずがありません」
「危ういねえ、亜鐘。そんな気はしていたけど」
「……だけど姉さま方が、わたしを排する理由には想像がつきます。晴明さまの優しさにつけこんで、わたしをここへは置かないということでしょう。この舎で悋気はご法度だったのに。でもいくら科をこしらえても、しょせんは徒惚れですよ。わたしと晴明さまの絆に敵いません」
「ちょっと亜鐘!」
霞が気色ばむと、
「お世話になりました」
亜鐘は怒声をかわすように、深々と頭を下げた。
それから一息。
とても長い一息を置いて上げた顔は、まるで憑ものが落ちたような、実に晴れ晴れと強烈な光を放っていた。目は異様なほど爛々と輝いている。
「亜鐘、あんた……」
「またお目にかかりましょう」
「……もしもあんたに咎ない場合は、そうなるだろうね。いつになるか分からないけど、そんときは、あたしらを罰しな」
「いいえ」
亜鐘は表情を変えない。覚悟に裏打ちされた、強い面差しだった。
「近い内に、必ず」
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