朝霧が森の木々に絡みつき
枝の先に露が煌めいていた。
逃走劇の余韻を残すように
草葉が踏みしだかれ
空気にまだ熱が残っている。
だがその中心で
アビゲイルは胸を張っていた。
メイド服のスカートに手を添え
堂々たる宣言の後──
アラインの表情には
珍しく〝迷い〟が浮かんでいた。
「⋯⋯えっと⋯⋯他じゃ、ダメかな?」
普段なら即座に機転を利かせるその口が
やけに歯切れ悪い。
彼は、アビゲイルの瞳に宿る信仰の色──
まっすぐすぎる輝きを、警戒していた。
それはときに
信仰者をも焼く業火になることを
彼は気付いている。
「ほら、ボク的にも
キミには近くにいて欲しいんだけどな?」
猫なで声で、片手を差し出す。
だが──
「アライン様?」
凛と響く声に、指先が止まる。
「先ほど〝何でも〟と仰いましたよね?
約束を違えるおつもりですの?」
「う⋯⋯」
眉根を寄せて呻くアラインの姿は
珍しく押され気味だった。
森のざわめきが沈黙し
鳥たちさえも息を潜める中で
アビゲイルの声は
まるで鐘の音のように響いた。
「ご安心くださいませ。
アライン様は、ライエル様と一心同体⋯⋯
わたくしが、お力になれるのであれば
異能のことはまだ
よくわかっておりませんが⋯⋯
必ずお役に立ってみせますわ!!」
燃えるような瞳が
彼を真っ直ぐに射抜く。
その気迫に
アラインはつい、片手を頭に添え
苦笑を浮かべる。
「参った⋯⋯わかったよ。
これ以上、キミの機嫌を損ねたくないしね?
時也に話しておいてあげる」
「ありがとうございます、アライン様!」
ぱあっと笑顔を咲かせ
アビゲイルはくるりと背を向けた。
そのまま、歩き出しながら小さく呟く。
「⋯⋯これで時也様とアリア様の
神話カップルを毎日拝めますし
時也様と、あの長身の方との
カップリングの想像も捗りますわ⋯⋯
うふふふふふ」
「え?
なんて言ったのか
聞こえなかったんだけど⋯⋯?」
背後から首を傾げるアラインに
アビゲイルはぴしっと背筋を伸ばし
振り向かずに声を張る。
「決意表明をしていただけです!!!
さぁ、今すぐ櫻塚様のところへ
参りましょう?」
その声に、森の空気が一変した。
もう逃げていた少女ではない。
今や彼女の背には
〝推し〟を支える烈火のような
信念が燃えていた。
アラインはその背中を見送りながら
口元を歪める。
薄く片眉を上げ、肩を竦めて吐き出す声は
呆れとも賞賛ともつかぬ曖昧な響きだった。
「⋯⋯推し活、恐るべし、だね」
森の奥で、露がぱちりと弾けた。
風が通り過ぎるたびに
少女の決意が
朝の空へと立ち昇っていった。
⸻
孤児院の大食堂には
陽だまりのような匂いが漂っていた。
焼きたてのカップケーキが
ずらりとテーブルに並び
小さな手で頬張る子どもたちの笑顔が
まるで春風のように広がっていく。
その中心
長い木製テーブルの一端に座る男──
櫻塚時也は、優しく目を細めながら
自身の前に置かれたケーキに
そっと手を伸ばした。
淡い桜色のアイシングに
小さな砂糖菓子の花が添えられている。
誰かが彼のために飾ったのだろう。
そのひと手間に
時也の唇がやわらかに綻ぶ。
「⋯⋯ふふ、上手ですね。
これを作ってくれたのは、どなたかな?」
問いかける声に
周囲の子どもたちが一斉に
「はーい!」と手を挙げる。
まるで春の花が一斉に咲き誇ったかのような
無邪気なエネルギーが弾けた。
時也の隣には
静かに座るアリアの姿がある。
銀のスプーンを指先でつまみ
彼女は何の表情も浮かべずに
ケーキを口に運んでいた。
だが、その動作は驚くほど丁寧で
指先ひとつ乱れない。
誰よりも静かに、誰よりも美しく
ただ一口ずつ
淡く甘い幸福を噛み締めている。
アリアの隣の席には
空になった紙カップが無造作に並び──
その向こうでは
ソーレンがすでに
子どもたちに「ジャングルジム」として
扱われていた。
「おい、痛ぇっ!肩に立つなバカ!」
「ソーレンおじちゃん、すっごーい!
まるでクマみたーい!」
「はぁ!?
誰がおじちゃんだ、誰が!?
クマでもねぇ!!!」
苦々しい声を上げながらも
どこか楽しげなソーレンの顔に
カップケーキのクリームが
ちょこんと乗せられていた。
そんな賑やかな空気を
ゆるやかに扉が切り裂く。
カタン、と音を立てて
開いた入口から現れたのは──
深い葡萄色のウェーブが揺れる影と
艶やかな黒髪を緩く結った
神父服姿の男だった。
アビゲイルと、アライン。
アビゲイルは静かに会釈しながら
すでに働いている
もう一人のメイドの横へと向かう。
その動作一つにも
どこか気品が滲んでいて──
時也と視線が重なった、その瞬間。
彼は、にこりと柔らかく微笑んだ。
空に差し込む光のようなその微笑みに
アビゲイルの目元が一瞬揺れたが──
心の叫びは、沈黙していた。
まるで水面に落ちる影のように
静かで、整った。
(……ああ、もう
感情は乱さないと決めたのです!
時也様にご迷惑をお掛けしては
いけませんっ!)
自らに言い聞かせるように
胸元で指を組み、彼女は姿勢を正す。
一方、アラインは悠然と時也に歩み寄り
彼の耳元に、息を吹きかけるように囁いた。
「ねぇ、時也?
この催しが終わったら、彼女を連れて
喫茶桜に行っても良いかな?」
囁かれた言葉に、時也は目を伏せ
緩やかに頷く。
「ええ。構いませんよ。
僕としても、その方が有り難いですし。
説得していただけたんですね⋯⋯
ありがとうございます」
その目は静かに
だがどこか安堵の色を帯びていた。
アラインは肩をすくめ
いたずらっぽく笑う。
「んー⋯⋯
めっちゃビンタ喰らったけどね?
ま、今のボクは
涙の宝石という経営資金も手に入ったから
何でも許せちゃう」
その声音は冗談めいていたが
どこか本気にも聞こえた。
時也は苦笑を浮かべただけで
返す言葉はなかった。
けれどその視線は
遠くに立つアビゲイルへと向けられていた。
──彼女が自らの意思で立ち
ここへ戻って来たことを
誰よりも彼が知っていたから。
そして、喧騒の中にも
一筋の静謐が差すように──
孤児院の大食堂には
カップケーキの甘い香りと
未来へ繋がる歩みの予感が
優しく満ちていた。
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