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天を引き裂くような鋭い咆哮が耳を聾する。空気がびりびりと震え、炒られた油のように砂が跳ねる。耳を塞いでも体を伝って脳の奥底まで響く。
疎らな木立を行くユカリたちの前に突如現れたのは蜂のような姿をした巨大な怪物だった。広々とした唐檜の林だが蜂の怪物は窮屈そうに身を捻り、木々を薙ぎ倒して迫る。
蜂の形だが、その全体像は隠されている。というのもその巨体に玉虫色の毛皮を纏っているからだ。毛皮はまるで今剥がされたばかりかのようで、虎の如き縞模様は艶めいて見るたびに色を変える。毛皮の裏から垂れ流す粘り気のある血は強い酸を帯びている。呪われた地にあって幾分豊かな土壌だが、血の滴るたびに音を立てて焼かれている。そして呻き声のような音を立てて、毒々しい蒸気が昇り、刺激臭が広がる。
姿だけではない。その振る舞いもまた蜂らしくはない。木々を葦の如く押し退ける大きな体を支えるのは外骨格ではなく、柱や梁の如き頑丈な骨に違いなく、怨念の籠った美麗な虎の毛皮の裏で躍動しているのは柔軟な筋肉に違いない。
毛皮の間から見える剣のような牙は血に濡れて鈍く光り、六本足の先の鋭い鉤爪は地面をしっかりと捉え、容易く抉る。太い腹部の先の禍々しく捻じれた針を揺らし、背中の薄羽根は覆衣の如く力なく揺れている。少なくとも羽根は羽ばたかず、巨体を宙に持ち上げることはできないようだ。そして死んだ獣の眼球を集めたような複眼は飢えていようとも野に活きる者の表情に欠けていた。
ユカリはレモニカがソラマリアの後ろにいることを確認し、グリュエーの周囲を風が渦巻いているのに驚き、自身が最も身の安全を守るのに頼りない存在だと気づく。
魔法少女に変身し、ジニやグリュエーと共に宙へと舞い上がる。複眼の視野は広いことだろうが、散開するに越したことはない。ベルニージュとソラマリア、レモニカも怪物を中心にして反対側へと回り込む。
「虎蜂ですわ!」とレモニカが叫んだ。
ジニとグリュエーがレモニカの博識に驚いていたが、その命名感覚についての説明は後だ。
玉虫色の虎蜂は獲物の数をかぞえるように全員を見渡すと体のどこかをかちかちと鳴らし、ユカリに目掛けて飛び掛かった。
少し楽天的になっていたかもしれない、とユカリは後悔する。
ユカリたちは元々、次はクヴラフワ東部のシュカー領へ向かう予定だったが、ライゼン大王国の調査隊が次に向かう場所だったと知り、鉢合わせを避けて北西の虎の塒領へ向うことにした。
ようやく合流したベルニージュによると大王国の調査隊には屍使いの末裔が所属しているらしい。それも一族の長が多くの朋輩を伴って。
またグリュエーによると、かつてクヴラフワ諸公国連合の一角を担い、クヴラフワ衝突前夜までは最も強い権勢を誇っていたシュカー領こそが屍使いたちの故国だった。
屍使いの勝手知ったる土地での遭遇は避けるべきだというのがベルニージュの意見だった。
でも、とユカリは疑義を挟んだ。シュカー領の東は封呪の長城で、実質的にシグニカ統一国の国境だ。つまりクヴラフワで最も救済機構に近い場所だ。ライゼン大王国の調査隊がそのような挑発的なことをするだろうか。
する、というのがレモニカとソラマリアの見解だった。
ユカリは折れるほかなかった。あくまで後回しにするだけだが。
そうして一行は代わりの目的地であるゴアメグ領にたどり着き、救済機構が設置したらしい呪い除けの偶像の力、防呪廊を通って残留呪帯を超え、内部へと侵入したのだが、まるで待ち受けていたかのように現れた巨大な怪物、レモニカが命名したところの虎蜂に遭遇したのだった。
魔法少女を咬み砕かんとした虎蜂の顎は宙を咬み、ベルニージュの炎の礫に脇腹を打ち据えられて体勢を崩した。蠢く炎をまともに浴びるもまるで怯まない。ベルニージュは途切れることなく新たな火を次々に浴びせかける。
虎蜂も決して無傷なわけではない。毛皮は焼け焦げ、新たな悪臭が加わる。しかし怪物は一瞬たりとも怯むことなく、毛皮を黒く焦がされながらも執拗に酸に塗れた牙をベルニージュに差し向ける。
虎蜂の背後からはソラマリアが飛び込んで剣を振るうが、虎蜂の腹部の先の捻じれた針は鋼の刃を容易く防いだ。完全に死角からの一撃にも関わらず、ソラマリアの剣を軽くいなしてみせた。さらにはベルニージュへの猛攻を緩めることなく、レモニカを狙った針の刺突も織り交ぜながらソラマリアに防戦を強いる。
「これも祟り神かね。蟷螂の奴とは段違いじゃないか」と呟いたジニの言葉はそれでも控えめな表現だとユカリは思えた。
この地で何とか生き延びている痩せ細った木々が痛々しい軋みと共に薙ぎ倒され、酸の血が黒い土を焼く異臭と蒸気が鼻を刺す。雄々しくも心臓を絞めつけるような禍々しい咆哮は神経に障り、不快な吸着音が冷静さを奪う。存在するだけで忌まわしさを感じさせ、そのうえ獣の体で歴戦の武芸者の如く立ち回っている。
これまでの長い旅路において、単独でベルニージュに伍した魔法使いもソラマリアに匹敵する剣士もいなかった。たとえ巨体の怪物とはいえ二人同時に圧倒する存在などユカリの想像の埒外にあった。
とはいえユカリたちはまだ切り札を残している。
ジニがベルニージュの退く先に回り込み、虎蜂の顔に目掛けて閃光を放つ。光線に目を射抜かれた虎蜂は哮り立って仰け反った。ベルニージュは機を逃さず、かつて女神の六番目の指に隠されていた炎を浴びせかけ、空を二つに切り裂く彗星の如きソラマリアの刃は虎蜂の後肢の、獣ならば腱のあるべき場所を切り裂いた。
火に包まれた虎蜂はとうとう戦意を失ったらしく、木々を押し倒しながら縺れる脚で逃げていく。
「私と義母さんで追うからグリュエーは皆と後から来て」とユカリは指示する。
「なんで? グリュエーも十分な速さで飛べるんだけど」
「だって魂を剥き出しにするぶん呪われやすいのかもって話になったでしょ? 長時間使うべきじゃないよ」
風のグリュエーが呪いの嵐になった原因の仮説だ。
「でも昔ハーミュラーと旅してた時も偵察に使ってたんだけど」
「運が良かったのかもしれない。原因が分からない以上慎重を期すべきだよ。聞き分けて」
既にジニは虎蜂を追って飛んで行った。ユカリもジニを追って飛び去る。
焦りのせいか言い方を誤ってしまったかもしれない、とユカリは少し後悔する。
ユカリはジニに追いつき、眼下には光の加減で万彩に色を変える玉虫色の虎蜂の姿を見止める。やはり走る姿は肉食獣のそれだ。全身を発条のように使って飛ぶように猛進している。木々を押し退け、貯木池を飛び越えて突き進む。どれだけ時間が経っても体を動かしても、虎蜂の纏う虎の生皮は血を滴らせ続け、乾いた大地を血で汚し、酸で溶かし、蒸気を上げている。少なくともベルニージュたちが道に迷うことはないだろう。
「確か虎は聖獣だという話でしたね」ユカリはグリュエーやヘルヌスに聞いた話を思い出す。「古のゴアメグに持ち込まれて以来信仰されている神に等しい存在だ、と」
「ああ、あたしたちが向かってる聖なる林野市には神殿もあるそうだ」
「虎蜂が向かっている方向はまさにレウモラク市ですよね?」
ユカリは呪われた大地を駆ける呪われた怪物を注視しながら尋ねた。
「それに奴がやって来た方角でもある。レウモラクはもう全滅しているかもね」
義母の残酷な推測はもっともだが、ユカリはたとえ根拠がなくとも生き残りがいる可能性を考えて行動しようと心に決めている。ネークの塔のような有様はこの呪われた亡国では珍しくもないのだろう。ユカリもまたその目でいくつも滅びた集落を見てきた。しかし辛く苦しくとも生き延びている人々や街もまた沢山あったからだ。
暫くして二人の眼前に現れたのは長い年月との戦いに耐えかねて地に臥せってもなお両腕を広げ続ける巨躯の番兵の如き城砦都市だ。ユカリがソラマリアと共に目指し、ジニと再会し、戦いの果てに再生されたカードロア市ほどではないが、視界を覆わんばかりの巨大な街だ。戦争の傷跡の残る城壁は所々崩れてはいるが延々と伸びて、形を保った町並みを守るべく聳えている。
上空からその痕跡を見れば軍略に精通していないユカリでも当時どのように敵が侵攻してきたのかよく分かった。破壊は街の西部が最も手酷い。投石機の被害は明らかで、城壁はこじ開けられた。なだれ込む軍勢は大通りを真っ直ぐに突き進み、手当たりしだいに聖獣の銅像を引き倒したようだ。街の中心にある神殿の広大な敷地もまた壁で囲まれている。侵攻者たちも初めは第二の壁の破壊を試みたようだが断念し、侵略の徒は左右――つまり南北――に別れて進撃した。南北に広がった街の損壊は徐々に収まっており、レウモラクは降伏したのだろう。
また当時は無かったはずの救済機構の呪い除けの偶像、結界、防呪廊に気づく。それも一つや二つではない。街の中にも外にも数えきれないほど据えられている。
そして今、虎蜂は南東から城壁を超え、街の大通りを疾走する。上空から人の姿は見えない。その辺りは比較的家屋の損傷が少なく、もしかしたら虎蜂に怯えて隠れているのかもしれない。
鉤爪を突き立てて街を走り抜け、いつかの侵略者同様神殿を囲む壁へとたどり着く。しかしよくよく見ればそれが壁ではないことが分かる。それは無数の柱だ。隙間は人一人が通ることもできない感覚で立ち並び、神殿の敷地を囲んでいる。いわんや人ですら通り抜けられない柱の隙間に虎蜂は為す術もない。その巨体でもっても押し倒すのは難しい巨大な柱だ。しかし虎蜂の目当ては神殿の敷地の外にいた。
ユカリの鋭い目でも捉えられた。それは救済機構の調査隊だ。黒の僧衣の僧兵たちは慌てて虎蜂を迎撃している。しかし太刀風唸るソラマリアの剣を受け止め、熱風吼えるベルニージュの炎をものともしない怪物だ。僧兵たちは手も足も出ず、放った魔術ごと怪物に蹴散らされている。
「さっきと同じ作戦で!」
ユカリは空気の噴射を全開にして急行し、ジニも遅れずついてくる。
「良いけど。あんたに決め手はあるのかい!?」
「一応! 私が地面に降りるのを待ってください!」
ユカリが着地すると、さっきよりもずっと手際よくジニは虎蜂の眼前へと回り込み、強烈な光を複眼に浴びせる。ユカリは杖の先端をまっすぐに虎蜂の横っ腹に向けると噛み締めていた歯を【開く】。ぱっという唇音ともに杖から強烈な風の一押しで一口大の石が射出され、虎蜂の胴を射抜く。
虎蜂は悲痛な雄叫びを上げてじろりとユカリを睨みつけ、そののち街の北の方へと逃げていった。追おうとするジニをユカリは引き留める。
「どうしたんだい? 追ったり止めたり」とジニが見通しているかのような瞳で問う。
「理由は二つです」
ユカリは無数の柱の前の僧兵たちに目を向ける。可能なら傷ついた僧兵たちを癒して欲しいからだ。
「機構は敵だって言ってなかったかい?」とジニは微笑みを浮かべながらも刺々しい声音で指摘する。
「組織と人は別だと思いますから」と感じるままにユカリは説明する。「助けてくれますよね?」
「やぶさかではないけど。どちらにしてもあちらさんが受け入れてくれればの話だよ」
見れば僧侶たちの視線はユカリに集まっている。憎悪か恐怖のどちらかだ。身に覚えのない悪感情に晒されて良い気分ではなかったがユカリは堪える。一行を率いているのがモディーハンナだと分かったことも助けになった。少なくとも彼女は実を取るに違いない、とユカリはある意味で信頼していた。
モディーハンナの目の下の隈はさらに酷くなっていたが、相変わらず笑みを絶やさない。
「奇遇ですね。こんなところで出会うなんて。ユカリさんは運命って信じます?」
「信じますよ。得てして運命は裏切者を裁いてくれますから。私は怪我人を助けたいだけですけど」
「良いんですか? いずれ貴女を討つ英雄的僧兵がこの中にいるかもしれませんよ?」
ユカリは微笑みを浮かべて返す。「あるいは、いずれ私を助けてくれる人が」
ジニが手助けせずとも医療を身に着けた魔術師は何人かいるようだ。もちろん手は多いに越したことはないはずだが。
「まるで測ったよう、ですね」モディーハンナは意味深な笑みを浮かべて頭を下げる。「ここは素直に助けられることにしましょう」
「助けるのはあたしだけどね」とジニがからかう。
「薬草が欲しかったら言ってください」とユカリはむきになる。
ジニに教わった医療など他には気休め程度のおまじないくらいだ。
「ユカリさんは医療魔術を見せてくれないんですか?」とモディーハンナもからかいに加わる。
「見せましょうか」とユカリは言い返す。「モディーハンナが魔法少女に変身してくれたらね」
言い合いをしたいわけではない。モディーハンナが気分を悪くしすぎる前にユカリはやめにする。
「あんたは大丈夫なのかい? 怪我は、無いようだけど」ジニがモディーハンナの顔を覗き込んで問診する。「顔色が悪いよ。酸の蒸気でも吸ったんじゃないかい?」
「いえ、大丈夫です。ご心配ありがとうございます。これはただの寝不足です。まあまあ忙しいんですよ。誰かさんのおかげで」
モディーハンナの視線には応えず、ユカリは本題に入る。
「そんなことより、いったいこの街に何しに来たんですか?」
とはいえ聞くまでもない。巨人に関する何かがあるのだ。しかし空から見る限り、それらしいものは無かった。もしかしたら神殿の敷地にあるのかもしれないが、囲む柱と内部の木立ちのせいで中の様子はよく分からなかった。
モディーハンナの反応を見ればそれが分かるかもしれない。
「もちろん。敬虔なる救済機構の信徒の使命として、その分け隔てのない慈悲心を示すべくクヴラフワ救済をお手伝いするんです」とモディーハンナは疑義を挟まぬ口調で説く。「ユカリさんはクヴラフワを解呪してまわっているようですね。一体全体どこでそんな力を得たのやら……」
ユカリは愛想笑いを浮かべ、モディーハンナの背後に目を向ける。視線の先、柱の向こうに沢山の人々がいた。巨人ではないが、柱の隙間から出てくることはできない。老若男女がこちらを覗き見ている。
ジニにだけ聞こえるように囁く。「あれがもう一つの理由です」
「なるほど」ジニは感心したようにユカリの腕をつつく。「怪物退治で信仰を得るとは。冴えてるじゃないか」
「え? いえ、閉じ込められているように見えたので。……しまった!」
柱の向こうから光が溢れる。糸状に伸びる光がユカリの方へと集まってくる。光の糸はユカリの髪を梳り、束ね、金剛石の輝く髪飾りへと物質化する。
「へえ。ふうん。ほお」
わざとらしく関心を示してモディーハンナはにやりと笑みを浮かべた。