テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
銀座からの帰り道、春の空は気まぐれにその機嫌を損ねたようだった。
重く垂れ込めた鉛色の雲が帝都を覆い尽くしたかと思うと
人力車を降りて九条家の重厚な門をくぐった途端、天を割ったような大粒の雨が降り注いできた。
私たちは、本館までの距離を稼ぐ間もなく
庭園の隅にひっそりと佇む離れの図書室へと、逃げ込むように滑り込んだ。
重い木製の扉を閉めた瞬間
外の世界の喧騒は遮断され、古い紙の匂いと、微かな埃の混じった静寂が私たちを包み込む。
「ひどい雨だね。……桜子、寒くはないかい?」
志進様は、自分の肩がぐっしょりと雨を吸って重くなっているのも構わず
すぐに懐から清潔な手拭いを取り出した。
薄暗い図書室の中、高い天窓を叩く雨音だけが、まるで激しい鼓動のように響き渡る密室。
彼は、私の髪に真珠のように付着した雫を
壊れやすい薄氷に触れるような手つきで、一滴ずつ丁寧に拭っていく。
「私は大丈夫です。志進様こそ、その……お召し物が大変なことに」
彼の漆黒の背広は雨を含んで色を変え、中の白いシャツが、鍛えられた軍人らしい体躯の線に張り付いている。
ふと見上げると、彼の胸元のボタンが一つ、無理な力がかかったかのように歪んで留められていた。
先ほど銀座の人混みで、無我夢中に私を庇い、引き寄せた時にどこかに引っ掛けたのかもしれない。
「志進様、ボタンが……。今、お直しします」
私は、ごく自然に手を伸ばした。
幼い頃、泥だらけになって駆け回っていた彼に追いつき、乱れた襟元を整えてあげていた
あの無邪気な日々の記憶が、無意識に指先を動かしたのだ。
けれど、私の指先が、彼のシャツの合わせ目に触れようとした、その瞬間
「……っ!」
志進様が、弾かれたような速さで私の手首を掴んだ。
万力のような強い力。いつも春風のように柔和な彼の顔が
見たこともないほど険しく、苦悶に満ちた表情に歪む。
「あ…ごめんなさい。私、また、でしゃばった真似を……」
拒絶された。
反射的に身をすくめ、視線を落とした私に、志進様は喉の奥で獣が呻くような、押し殺した声を漏らした。
「ち、違うんだ、桜子。そうじゃない。……ただ、今の僕に、そんな風に触れられるのは……少し…控えて欲しい、かな」
掴まれた手首を通じて、彼の内側で暴れ狂うような、激しい鼓動がダイレクトに伝わってくる。
完璧に塗り固められた「優男」の仮面が剥がれ落ち
中から溢れ出したのは、火傷しそうなほど熱く、そしてひどく切実な男の体温だった。
志進様は、ハッとしたように私の手首を離すと、逃げるように窓の外へと視線を逸らした。
激しい雨に煙る庭園を見つめる彼の横顔には、いつもの余裕に満ちた微笑みは影を潜め
隠しようのない孤独と渇きが滲み出ている。
「僕はね…君に、『婚約者』としての義務を淡々と果たしているだけだと思われたくないんだ。……でも、今の僕は、君のその清らかな優しさに甘える資格なんて、持っていないんだ」
「……どういう、意味ですか?」
「……いや、ごめん。今のは忘れておくれ」
彼は深く息を吐き出すと、再び、いつもの穏やかで非の打ち所がない「志進様」を演じ直して笑った。
けれど、背に回されたその手は
制御しきれない震えを隠すように、白くなるほど固く握りしめられている。
「雨が小降りになったら、すぐに本邸まで送るよ。せっかくの晴れ着を台無しにしたうえに、君が風邪を引いたらいけないからね」
差し出された気遣いの言葉は、どこまでも優しくて、けれど、今の私にとってはどこまでも遠い。
結局、直せなかった胸元のボタンが
私たちの間にある「正解の分からない距離」を象徴しているようで。
私はただ、図書室に淀むインクの匂いと、彼が触れた手首に残る消えない熱に
引き裂かれるような想いで立ち尽くすことしかできなかった。
#溺愛
#ハッピーエンド