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#王子
#シリアス
銀座からの帰り道、春の空は気まぐれにその機嫌を損ねたようだった。
重く垂れ込めた鉛色の雲が帝都を覆い尽くしたかと思うと
人力車を降りて九条家の重厚な門をくぐった途端、天を割ったような大粒の雨が降り注いできた。
私たちは、本館までの距離を稼ぐ間もなく
庭園の隅にひっそりと佇む離れの図書室へと、逃げ込むように滑り込んだ。
重い木製の扉を閉めた瞬間
外の世界の喧騒は遮断され、古い紙の匂いと、微かな埃の混じった静寂が私たちを包み込む。
「ひどい雨だね。……桜子、寒くはないかい?」
志進様は、自分の肩がぐっしょりと雨を吸って重くなっているのも構わず
すぐに懐から清潔な手拭いを取り出した。
薄暗い図書室の中、高い天窓を叩く雨音だけが、まるで激しい鼓動のように響き渡る密室。
彼は、私の髪に真珠のように付着した雫を
壊れやすい薄氷に触れるような手つきで、一滴ずつ丁寧に拭っていく。
「私は大丈夫です。志進様こそ、その……お召し物が大変なことに」
彼の漆黒の背広は雨を含んで色を変え、中の白いシャツが、鍛えられた軍人らしい体躯の線に張り付いている。
ふと見上げると、彼の胸元のボタンが一つ、無理な力がかかったかのように歪んで留められていた。
先ほど銀座の人混みで、無我夢中に私を庇い、引き寄せた時にどこかに引っ掛けたのかもしれない。
「志進様、ボタンが……。今、お直しします」
私は、ごく自然に手を伸ばした。
幼い頃、泥だらけになって駆け回っていた彼に追いつき、乱れた襟元を整えてあげていた
あの無邪気な日々の記憶が、無意識に指先を動かしたのだ。
けれど、私の指先が、彼のシャツの合わせ目に触れようとした、その瞬間
「……っ!」
志進様が、弾かれたような速さで私の手首を掴んだ。
万力のような強い力。いつも春風のように柔和な彼の顔が
見たこともないほど険しく、苦悶に満ちた表情に歪む。
「あ…ごめんなさい。私、また、でしゃばった真似を……」
拒絶された。
反射的に身をすくめ、視線を落とした私に、志進様は喉の奥で獣が呻くような、押し殺した声を漏らした。
「ち、違うんだ、桜子。そうじゃない。……ただ、今の僕に、そんな風に触れられるのは……少し…控えて欲しい、かな」
掴まれた手首を通じて、彼の内側で暴れ狂うような、激しい鼓動がダイレクトに伝わってくる。
完璧に塗り固められた「優男」の仮面が剥がれ落ち
中から溢れ出したのは、火傷しそうなほど熱く、そしてひどく切実な男の体温だった。
志進様は、ハッとしたように私の手首を離すと、逃げるように窓の外へと視線を逸らした。
激しい雨に煙る庭園を見つめる彼の横顔には、いつもの余裕に満ちた微笑みは影を潜め
隠しようのない孤独と渇きが滲み出ている。
「僕はね…君に、『婚約者』としての義務を淡々と果たしているだけだと思われたくないんだ。……でも、今の僕は、君のその清らかな優しさに甘える資格なんて、持っていないんだ」
「……どういう、意味ですか?」
「……いや、ごめん。今のは忘れておくれ」
彼は深く息を吐き出すと、再び、いつもの穏やかで非の打ち所がない「志進様」を演じ直して笑った。
けれど、背に回されたその手は
制御しきれない震えを隠すように、白くなるほど固く握りしめられている。
「雨が小降りになったら、すぐに本邸まで送るよ。せっかくの晴れ着を台無しにしたうえに、君が風邪を引いたらいけないからね」
差し出された気遣いの言葉は、どこまでも優しくて、けれど、今の私にとってはどこまでも遠い。
結局、直せなかった胸元のボタンが
私たちの間にある「正解の分からない距離」を象徴しているようで。
私はただ、図書室に淀むインクの匂いと、彼が触れた手首に残る消えない熱に
引き裂かれるような想いで立ち尽くすことしかできなかった。