「やはり気になるか?」
手首に巻かれた青いリボンを見ていたら、マーカスに話しかけられた。
「今日は早かったんだね」
「あぁ、早目に交替してくれた、親切な団員がいてくれたからな」
苦笑いしながら、それは本当に“親切”な人だったのだろうか、と内心溜め息をついた。そしてテーブルの上に置いた、読みかけの本を閉じた。リボンが気になり、どのみち集中できなかった。
「これは小麦粉か?」
隣に座ったマーカスが、アンリエッタの手首を覗き込む。そう、マーカスに指摘されたように、青いリボンには小麦粉が少し付いた状態だった。
「パンの仕込みをしたら、付いちゃって……。払っても、こうして残ったままだから、どうしようかなって思っていたの」
「それなら、リボンを解けばいいだろう。気になるほどなら、無理して着けておく必要はない」
「でも、それだとマーカス誤解しない?」
リボンを解く条件は、取引に違反した場合だ。汚したくないからと言って、解いた状態の姿を、何も知らないで帰宅したマーカスが見たら、きっと誤解する。
折角、私の気持ちを汲んで、合わせるために用意したリボンなのに、誤解して傷つけたくはなかった。
「あ~、確かにするだろうな。それなら着ける場所を変えるか」
「どこに?」
「首とか?」
えっ、首はさすがに……。首輪を連想するからだ。そういう意味合いのリボンではないから、束縛をイメージするような場所はお断り願いたい。
過干渉と過保護で、束縛に対して極度に過敏になっているのに。
それなら手首は大丈夫なのかと言うと、リボン自体が私の意思表示を表す物なので、許容範囲が広かった。私の視界の範囲内、というのもある。
「それはちょっと、嫌かな」
「そうか。自分で結ぶことは出来るか?」
「多分、大丈夫だと思う。でも、不格好になりそうなのが、ちょっと……」
お店に出るから、できれば綺麗に着けたい。あまりお洒落をしないせいなのか、マーカスが着けてくれたリボンが綺麗だったからなのか、ちょっと気にするようになった。
「分かった。朝と風呂上がりは、俺が着ける。もし取引に違反したと感じたら、俺がいる時に取ってくれ。それで理解するから」
「帰ってきた時は? 直してくれないの?」
「……今日みたいに早く帰ってきたら、直すよ」
早目に指輪を用意するべきかと思ったが、これはこれで良いかもしれないな、と小さく呟くと、アンリエッタの手首からリボンを解いた。
「夕方の分は、もうやったのか?」
「うん。後は時間になったら焼くだけ」
「じゃ、それが終わったら着け直そうか。その間に綺麗にしておくから」
マーカスの手の中にあるリボンと、何もなくなった手首を見比べて、改めて思った。私の勘違いではなかったことに。
始めは、これも束縛や所有物扱いの物なのだろうか、という疑いは少なからずあった。マーカスにヤンデレ属性でもあったのかと。ちょっと怖かったけど。
けれど、こうして簡単に解いてくれるし、無理にしなくていいとも言ってくれている。それなら、あんまり心配する必要は、もしかしたらないのかもしれない。本当に……指輪の代わり……なんだね。
「これは、神聖力の本か?」
アンリエッタは頷くと、テーブルの上の、閉じたばかりの本を見た。そう、これは図書館で借りた、二冊目の神聖力の本だった。
先日の暴走紛いの練習から反省した私は、攻撃や防御よりも、もっと基本的な、力を制御することから練習し始めた。
いや、普通はそこからやるのが、当たり前なのだが……。基本書・指南書を見る前から、それなりに力を使えていた自負があり、今更やるのは面倒だと感じてしまっていた。前世でも、トリセツは分からなかった時に見る、という面倒臭がり屋な性格と横着さが仇となった。
「あれから、練習しているところを見ていなかったから、もう諦めたのかと思っていた」
「危険な練習はしなくなっただけ。今は、その……力のコントロールの性能を上げているの」
そんなこともしないで、危ないことをしようとしていたのか、と言われることを覚悟で、現状報告をした。自警団で訓練をしているマーカスからすれば、基本から学ばなかったなんて知ったら、馬鹿にするか怒るかのどちらかだ。
「それで、成果はあったのか?」
どうして怒らないんだろう。そういえば、先日の暴走紛いの件についても、怒られなかった。もうこんな危ないことはしちゃダメだ、とも言われなかった。本も、取り上げられなかった。やめて欲しいとも、言わない。
圧をかけない優しさに、少しむず痒くなった。
「うん。当たり前だけど、前より使い易くなったのと、自分の力量が少し分かった感じかな。あと、力を直視出来る様になったことかな」
「直視?」
「実は気がつかなかったんだけど、私の体の周りに神聖力が、薄っすらと出ていたの。それが見えるようになったんだけど……、やっぱりマーカスには見えないよね」
この辺りにあるんだけど、と指を指して見せるが、マーカスは眉を顰めて、首を傾げただけだった。
「これは同じ神聖力を使える者だったら見える、ということだろうな」
「多分ね。それでちょっと困っているんだ」
「それなりの使い手でなくとも、アンリエッタが神聖力を使えることがバレるだろうな。それも、どれくらい神聖力を持っているのかも、下手したら知られる可能性もある」
まだ私を探しているのか、どうか分からないが、孤児院からの、いや教会からの追手は、それを手がかりに探すことだろう。
「その対処法としては、さらにコントロール出来る様になれば、抑えることが出来るんじゃないかって思っているんだけど……、まだ確証はなくて。だから明日、図書館に行ってみようと思うの」
分からないところがあれば、紙でも質問していいと、神聖力の本を貸してくれた、マスティーユという教授が言っていた。
「そうか。なら、午後にしてくれ。そしたら、一緒に帰れるから」
「また、“親切”な人が代わってくれるの?」
「あぁ。何せ“親切”なのが、取柄だからな」
あぁ、そうですか。もう何も言いません。その見知らぬ“親切”な人に、同情した。
***
マーカスは言葉通り、夕方の開店前にリボンを結び直してくれた。そして今も、私の風呂上がりを待っていたかのように、スタンバイしている。あの時は、そこまで想像していなかったため、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。
マーカスに手を引かれ、椅子に座らされる。そして手を差し出したが、取られることはなかった。その代わり、頭にタオルを乗せられた。
「マ、マーカス、いいよ。髪はもう拭いたから」
正面に座ったマーカスが、アンリエッタの髪を拭いた。始めは荒っぽく、次は丁寧に。そして、ブラシでとかしてくれた。
「何か、慣れてない?」
「幼い頃パトリシアに、何度かやっていたことがあったからな」
「マーカスは貴族なのに、意外と世話好きだよね」
アンリエッタの言葉に、マーカスが目を見開いた。そして次の瞬間、突然笑い出した。
「貴族は関係ない。好きな女にあれこれしたいだけだ。例えば、こんなのとか」
そう言うと、再びアンリエッタの頭にタオルを乗せ、そのタオルごと自身の方へと引っ張った。
「!」
体が傾いた瞬間、ちゅっ、と短く唇同士が触れ合った。
「こんなのも、したい」
「っ!」
驚いている暇も与えてくれないのか、今度は首を噛んできた。痛みを少し感じていると、さらにその上を舐められた。
「ひゃっ!」
思わず声が出た口を、手で覆った。驚きか、恥ずかしさなのか分からないが、心臓がやけに煩い。目線を前に向けると、満足そうに笑みを浮かべるマーカスが目に入り、恨めしかった。
「どうする? リボンを結ぶか?」
その質問に、顔が赤くなるのを感じた。結んでと言ったら、承諾と捉えられて恥ずかしい思いをするが、逆に嫌だと言えば、マーカスを傷つけてしまう。
アンリエッタは俯き、小さな声で返事をした。
「意地悪言わないで……」
これが精一杯だった。けれどマーカスは許してくれず、両手でアンリエッタの顔を上げた。
「確認だ。本当に嫌なら、結ばない」
アンリエッタの目に見えたのは、先ほどとは違い、真剣な表情をしたマーカスの顔だった。
そんな顔をされたら、余計に嫌とは言えないじゃない。だから今度は、恨めしい表情で答えた。
「意地悪……」
言葉とは裏腹に、アンリエッタは手を差し出した。
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