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注意
当作品では自殺未遂行為が描写されていますが自殺を示唆や助長する目的で書いておりません
また溺水、火事の描写もありますが同じく示唆や助長する目的ではありません
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口から気泡が出ていく。明るかった水面はだんだんと、だんだんと。暗くなっていく周りに頭がすっきりする。
あぁ、ようやっと
水面が揺れた。真っ黒な誰かが腕で水を掻いて大きくなってくる。冷たかったはずの背中が生暖かくなった。暗かったはずの周りはだんだんと、だんだんと。身体が浮く。水面が目の前にきた。
あぁ、またか。
ふらりと足が前へと踏み出す。電車の音がだんだんと、だんだんと。アナウンスの声が遠くなっていく。脳に入るのは電車の音。足がボコボコした床を越える。横から目が眩むほどの光を身体で受けた。浮遊感にハッとする。
いま自分は何をしようと。
腕が引かれる。意識が持ち上げられる。自分の身体を打ち付けるはずだった電車は通過していった。首を後ろに向ける。男の人だった。自分と同じ制服を着た男の人。妙に見覚えのある顔立ちに首を傾げた。
あれ、この人、誰だっけ。
誰もいない寂れた旧校舎。外で運動部の声が聞こえる。カッターを片手に虚空を見つめた。首に、頸動脈に刃を添える。ゆったりとした動きで首元に近づいていくカッターは突然吹き飛んだ。隣には肩で息をする男の人がいた。
なんで、
また安堵したような吐息を零した彼はカッターを拾った。
なんで、なんで私を助けるの。
小さく落ちた音は彼の耳に入ったらしい。少し長い髪が宙で遊ぶ。真っ暗闇を劈く茶色の視線は、自分へと降り注いだ。
「別に、自分の視界に人が死ぬのなんて後味悪いだけ」
綺麗事なんてないその音に余計に頭が混濁した。
何回首に紐を通そうとしても、心臓に刃を突き立てようとしても、水に入ったままになっても、彼は手を差し伸べる。喧しいほどに。でも綺麗事をペラペラと口達者に並べるあいつよりも心を包むようなあたたかさがあった。
「死ぬのは別にいいけど、俺がいないところでやれよ」
そう言われても彼の目に入りそうな場所でするのは、何故なのか。駅は知らなかった、でも校舎なんて彼がいるところでやるなんて一体自分はどうしたのだろう。だから海を選んだ。秋の肌寒い時期には来ないだろうと踏んで。でも彼はきた。わざわざ寒い海の中に飛び込んでまで。二酸化炭素が気泡になって水面へと上昇していくと反して、だんだんと堕ちていく自分を助けたのは正真正銘、彼だった。
つぎは、ぜったいに
心に落ちたその言葉は、すんなりと溶け滲んだ。
あつい、あつい
汗が首筋を通っていく。
あつい、あつい
酸素が欲しいと脳が叫ぶ。
あつい、あつい
足首から身体が崩れ落ちる。
あつい、あつ、い
足があつい。腕があつい。首があつい。頭があつい。身体中が、あつい。
外から聞こえる悲鳴を背景に、真っ赤なひかりに囲まれた自分はゆっくりと堕ちていく。意識はだんだんと、だんだんと。あの海のようにだんだんと。霞んでいく視界。求めたはずのそれから逃れようと必死に醜くもがいていた身体は、岩石のように動かなくなっていく。脳内に駆け巡る記憶はどれも見たくもないものばかり。その中に現れた彼に、無情にも腕を伸ばしたかった。
目の前が暗くなったのは、誰かに持ち上げられた直後だった。
最初は偶然だった。フラっとあまりにも美しいものに自然と足が動くような、そんな動きで黄色の線を越えていった。線路を走る電車の音が迫ってきたと同時に身体は前へ倒れた。何故なのか今も分からない。自然と身体は動いていた。明らかに通常よりも細い手首を掴み引っ張る。長い髪を揺らせて振り向いた彼女の瞳は酷く澱んでいた。
その次も偶然だった。馬鹿しかいないグループで肝試しに行こうと旧校舎に下見で駆り出されただけだった。誰もいないはずの旧校舎。自分以外の音が聞こえたのは、すぐ近くにある教室からだった。他は閉まっていた扉が開かれ、覗き込むとあの日腕を引っ張った彼女が首にカッターを刺そうとしている。自分の身体は他人をあの世にいかせないように作られているのかもしれない。
「なんで、なんで私を助けるの」
空気に溶ける前に、その音は鼓膜へと届いた。
彼女は繰り返した。首に紐を通そうとしたり、左胸に刃を立てたり、水に浸かったままになったり。いつの間にか自分は、彼女の行動を止めるために周囲を注意深く見るようになった。自分はこんな奴じゃなかったはずなのに。なんて思考の海に飛び込みながら、マフラーに手をかける。白い吐息が空気に攫われていった。ふと、第六感がカンカンと鐘を鳴らした。電車の踏切のような音で、焦燥感を掻き立てる。遠くから聞こえてきたサイレンに、足が速まった。
緑の黒髪が脳裏に浮かんだ。まるでこの世の憎しみを全て詰め込んだような瞳は酷く澱んでいて、それを美しいと思うのは狂人なのだろうか。サイレンの音が近づいていくとともにマフラーなんか要らないほど熱に包まれる。マフラーを外し熱へと近づいて行った。人の号哭が頭に響く。足はだんだんと、だんだんと。動いていたはずの足は止まった、真っ赤に染まっている建物を前にして。彼女がここに住んでるとか、ここから出てきたとか、そんなの知らない、見たことない。だが本能が叫んでいた。彼女はここにいると。マフラーを、コートを脱ぎ捨てた。
「っそこの君!!今すぐ戻りなさい!!!近づくんじゃない!!」
消防士の声を無視して足を動かす。ハンカチを口に当て燃え盛る炎の中へと向かった。
「死にたいのか!!!!」
足が止まった。死にたい?そんなこと思ってない、それを心に詰め込んでいるのはあいつなんだ。無慈悲な理性が身体を阻止した。あいつは、死にたいのか。毎度のように自殺行為をして、俺に止められて。その都度あいつは歯を食いしばっていた。もう何回も助けたのだ、じゃあ
見殺しにしても、いいのでは?
足が、動いた。
真っ黒。前も、下も、横も真っ黒。身体は水中で浮かんでいた。水の中なはずなのに、不思議と苦しくない。髪が、服が水中で遊ぶ。ぷかぷかと冷たいはずの水は温かくて、心地良い。
このまんまでいられたら、なんて。
水面が遠い。刺さっているはずの日差しはもうここには届いていない。身体は底へだんだんと、だんだんと。
ふわり。
人の声が縦横無尽に飛び交う。ビルがそびえ立つ真ん中で、信号を渡る。スーツケースを転がして周りに興味も関心も向けずに。一人の女性がすれ違う。その人はまるで、数年前によく会ったあの人のようで、周りの目も気にせずに振り返った。同じように振り返ったその人の瞳はあの人のように澱んでいない。だが瞠目した瞳はあのときのような美しさがあった。
「おかあさん」
まだ小さい子供がその人の手を引っ張る。
「はいはい」
「きょうのごはんなに?」
「今日はね〜」
足を動かし始めたその人はだんだんと遠くへ行く。身体と同じ向きに向いた顔は、いつもの無表情とは違うような気がした。
周りの音が遠くなった。振り返ると一人の男性も振り返っていた。腕を引っ張られトートバッグを掛け直す。一瞬見えた男性の顔は、あの日病床から見上げた、初めて見る微笑みを浮かべたあの人と全く一緒だった。もうあの頃のような気持ちなんて持っていない。あの人から離れようとした努力は水泡に帰した。
「みておかあさん!あのこね、しゃぼんだましてる!」
「ほんとだ、綺麗だね」
呆気なく散ったその気持ちはゆらゆらと揺らいでいった結果空気に晒され弾け飛んだ。それはまるで、あの海中で見た気泡のような、バブルのようなものだった。