この作品はいかがでしたか?
0
この作品はいかがでしたか?
0
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
補佐の言う公園は大通りから少し入った所にあった。
この一角には飲食店がさほど多くないからか、あるいは店の中でちょうど盛り上がっている時間帯だからか、通りを歩く人の姿はなく静かだった。
「あそこに座ろうか」
補佐は公園の片隅に置かれたベンチを指し示した。
上司よりも先に座るなんてと躊躇したが、補佐に強く促され、私は大人しく従った。
「失礼します」
「うん。……ちょっと待ってて」
補佐はそう言うと、公園側の自動販売機まで行き、ペットボトルの水を二本手にして戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
私は差し出された一本を受け取った。
それを見届けて、補佐は私から少し離れてベンチの端に腰を下ろす。
「今さらだけど、水で大丈夫だったかな」
「はい、大丈夫です」
「なら、よかった」
水銀灯の灯りの下、補佐がにこりと笑うのが見えて、どきどきする。私はその鼓動と動揺を隠すように、ペットボトルのキャップに指をかけた。
「いただきます」
ボトルに口をつけて、冷えた水をこくりと飲み込んだ。おかげで気持ちが少し落ち着いた。ところが今度は、二人きりのこの状況にそわそわし始めた。
私たちの間の沈黙を破ったのは補佐だった。彼は夜空を仰ぎ見ると、感慨深げな口調で言った。
「今夜の月は綺麗だね」
「……本当ですね」
彼につられて見上げた月が煌々と輝いていて、私はうっとりとした。満月まではあとどれくらいなのだろう。
「いつも以上にきれいに見えますね」
そう言う私に彼の声が応える。
「満月は、いつなんだろうね」
補佐も私と同じようなことを思っていたんだ――。
そう思ったら嬉しくなった。これからも同じ光景を見て、共感できる時間を、もっとたくさん持てたらどんなにいいだろう――そんなことを想像した。けれど、そんなのは甘ったるい妄想にすぎないと、私はすぐに頭の中から追い払った。彼の心の中には他の人がいて、私が入り込める隙はないのだからと自分に言い聞かせた。一緒にいればいるほど、彼に惹かれることになるだろうと予想したのは私自身だ。こうなることが分かっていたけれど、それでもやっぱり胸が苦しくなるのは止められない。ため息が口をついて出てしまった。
それは補佐の耳にも届いた。
「どうかした?」
何を思っていたか悟られたくない。私は首を横に振った。
「なんでもありません」
私は再び夜空を見上げると、わざと明るい声で言った。
「それにしても、今夜は本当にお月見日和ですね」
そうだね――。
そんな言葉が返ってくるだろうと予想していた。けれど補佐は静かな声で私に訊ねた。
「何を考えていたの?」
私は無言でそのまま自分の手元に目を落とした。
私の言葉を待つように、補佐がじっとこちらを見つめているのが分かる。
本当の事は言えない。適当な理由もすぐには思い浮かばない。困った私はさらに口をつぐみ、うつむいた。
「ねぇ、岡野さん」
補佐の静かな声がした。
「何を気にしているの?」
私は顔を上げずに答える。
「何も……」
そう言ってから気づく。彼の尋ね方は、私が何かを気にしていることが前提となっている。
「本当にそうかな?」
黙ったままの私に、補佐はなおも言葉を重ねる。
「時々考え込むような顔をしたり、俺から目を逸らしたりするのはどうして?」
私の胸がどきりと鈍い音を鳴らす。
「そんなことは……」
否定しようとする私を制するように、彼は続けた。
「今だってそうだよね」
そこでいったん補佐は言葉を切る。
「君が俺に対して壁みたいなものを感じていることは、理解しているんだけど。……話してみない?」
「いえ、それは……」
言えない。
「俺には言いにくいこと?」
「……」
もちろん言いにくい。
補佐は距離を詰めるように、だんだんと核心に迫ってくるように問い続ける。
答えられない私はますますうつむいた。
「ごめん!」
口調を変えて彼は謝った。
「これじゃあ、まるで尋問だよね」
「いいえ!」
私は弾かれたように、ようやくここでぱっと顔を上げた。
「私の態度が補佐を不快な気分にさせてしまったのでしたら、私の方こそ謝らなければいけませんから」
そう言って彼に頭を下げながら少しほっとした。この流れであれば、ひとまず彼からの質問攻めは終わりそうだ。息苦しくなるような緊張状態から、もう解放されると思ってもいいだろうか。
そう思いながら、補佐の表情を伺うようにちらと目を上げた。不意打ちを受けたのはその時だ。
「それで、白川さんとはもう話をした?」
私は大きく動揺した。その話が何についてなのかを彼は言わなかったが、倉庫での件を指していることはすぐに分かった。
狼狽する私に、補佐は穏やかな表情のままさらりと言った。
「倉庫でのこと、白川さんと話をして誤解が解けているならいいんだけど、もしまだなら俺から話してしまった方がいいだろうと思ってさ」
「あの、それは……」
遼子さんからすでに聞いている話ではあったが、補佐がそれをどう話すのか気になった。それを聞けば、壁を隔てていた時には分からなかった補佐の本当の気持ちが分かるのだろうかとも思う。続けて心配が一つ浮かんだ。
その話を聞く過程で、私は補佐に自分の想いを隠し通せるだろうか――。
「遼子さんとは、昨夜のうちに色々お話しできました」
遼子さんに言ったと同じように、補佐に対しても直接伝えておきたい。
「その時遼子さんにも言いましたが、あの時私があの場所にいたのは本当に偶然なんです。お二人の会話も本当にたまたま聞こえてしまっただけで、立ち聞きするつもりなんて全然ありませんでした。ただ、立ち去るきっかけを失ってしまって……」
私が本当のことを言っていると信じてくれるだろうか――。
「分かっているよ」
驚くほど彼はあっさりと頷いた。
「俺たちの会話のどの辺りが聞こえたのかも、見当がついてるよ。それで?白川さんと話はしたけれど、まだ何かが岡野さんの心に引っ掛かってるってこと?今日の様子からそう思えたんだけど」
私は言葉に詰まった。遼子さんの話の通りなのだろうと一応は納得した。けれど、補佐の本心はどうなのかとまだ気になっていることも確かだ。遼子さんは互いになんとも思っていないと断言していたけれど。
「ほら、まただ。何か色々と考えてるね」
補佐は苦笑しながら、手元のペットボトルに目線を落とした。
「岡野さん」
「はい」
彼は自分の手元を見たまま、私に訊ねた。
「俺が彼女にとっては恋愛対象外だったっていう話は?」
「えっ……」
補佐が自分からそこに触れてくるとは思っていなかった。困惑する私の反応を見て、彼はくすっと笑う。
「俺が白川さんから振られたっていう話は?」
「はぁ……」
私は曖昧に言葉を濁す。
「本人を前にして言いにくいよね。でもまぁ、その反応なら、もう知ってるんだろうけど」
あはは、と彼は笑う。
その笑いに自虐的な感じも投げやりな感じもなかったことに、私は安心する。
「昔そういうことがあって、俺は見事に振られてしまった。そして彼女は、その頃からの恋人と今度結婚する。俺が白川さんを好きだったことは会社では誰も知らないし、今さら知られたくもないから、あの時偶然会った倉庫でお祝いの言葉を伝えたんだよ。前に振られた時はバッサリ斬られたから、その仕返しに嫌味のひとつも冗談で言ってやろうかな、なんて思いながらね。あ、別に根に持ってるわけじゃないからね」
最後のひと言は、私を安心させるようににっこりと笑いながら口にする。
「彼女に恋愛感情を抱いていたのは過去のことで、今では頼れる大切な同僚だ。彼女には幸せになってほしいと思っているよ」
彼は私の顔を覗き込む。
「これでもまだ、岡野さんの気持ちの引っ掛かりは取れない?」
「……」
無言の私に、補佐は穏やかな口調で続ける。
「できればもうこれで、俺と白川さんのことを気にするのは終わりにしてほしいと思う。そうでないと、俺も次に踏み出せないから」
私はその言葉に敏感に反応した。
「次?」
「そう」
頷く補佐を見て、胸が苦しくなる。
次ってどういう意味?補佐にはもう好きな人がいるということ?
そう思ったら、棘のように心に刺さりっぱなしだったあのことを聞かずにはいられなくなった。
「あの時寝言で言っていた『りょうこさん』って何だったんですか?」
敬語を使うことも忘れて、私は補佐に訊ねる。
「え?寝言」
補佐は面食らったような顔で私を見返した。
「そうです。補佐が私の部屋に来た夜、寝言でそう言ってたんです。だから私はずっと、補佐はまだ遼子さんのことを好きでいるのだと思っていました」
「ちょっと待って」
私の言葉を遮ろうとする補佐の声が、耳の側を通り過ぎた。
どうして私はこんなにムキになっているんだろう。遼子さんをまだ好きでいると思っていた人に、実は好きな人ができていたことに対してショックを受けているの?補佐がいつどのタイミングで誰を好きになろうと、干渉する権利は私にはないのに。
「岡野さん、本当にちょっと待って。寝言で俺が白川さんの名前を呼んでいたって?いや、確かにあの頃まではまだ多少引きずっていた所があったから、完全に否定はしないけれど。というよりも、俺が気になったのは」
補佐は私の顔を下からすくい上げるように見上げた。
「君はあの時からずっとそのことを気にしていたっていうこと?どうして、って聞いてもいい?」
「あの、それは……」
口が滑ってしまった――。
私は口ごもり、補佐の目から逃げるように視線を逸らした。
その時、私と補佐の会話を中断させるように、携帯電話がくぐもった音を鳴らした。
今の会話の流れが途切れたのは良かったのか、悪かったのか。気持ちを伝えるのにいいタイミングだったかもしれない、と思わないでもなかった。が、いずれにせよ、マナーモードにしておかなかったのは失敗だった。
スマホを取り出そうと、私はバッグの中に手を入れた。しかし、着信音は止まってしまった。
「電話、かけ直さなくて大丈夫?」
「大丈夫だと思いますが……」
そう答えながらも、念のため誰からの電話だったのか確かめようと、私は改めてスマホに手を伸ばした。
「急ぎの用件ならまたかかってくるだろうと思いますし、遅い時間ですから、かけ直すにしても明日にしようかと」
スマホを手に取り画面に目を落とした私は、思わず小声をもらす。
「あ……」