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月曜の朝。かなり体調はよくなった。……美冬のおかげだと思うと胸に苦いものがこみ上げるが。――医食同源。あの女の作った美味しいものを食べたから、こうして健康を取り戻せたのだ。正直、あの女の作るなにもかもが美味しかった。それに、掃除も完璧だった。
慌ただしく円を起こし、朝の準備に取り掛かろうとしていると、スーツ姿の夫が告げた。「あのさぁ。週二回、美冬にハウスキーパーの仕事頼んだから」
咄嗟には夫の言うことが飲み込めなかった。「――なんで?」
「だってそのほうがいいだろう?」と面倒臭そうに夫が上着を羽織る。「おまえ、美冬の飯、美味そうに食っていたし、うちのなかが綺麗になるなら万々歳じゃん。――金はおれが出すから。じゃあな」
――じゃあな、って……。夫のやり口がつくづく腹立たしい。月曜の朝。ただでさえ慌ただしいのに、このタイミングで――反論も有無も言わせぬタイミングで言いやがって。彼のなかではこれは確定事項なのだ。夫はさっさと出て行った。残されたわたしはただ、いつも通り朝の準備を行った。
* * *
ご丁寧にも美冬は昨日作り置きをしておいてくれた。――鳥のつくね。コールスローサラダ。きゅうりの浅漬け。……紘一とわたしは食の好みが一致しており、おそらく彼から――聞き出したのだろう。それはタッパーに詰められ、行儀よく冷蔵庫のなかに鎮座していた。
お陰で、わたしがすることは食材をあたためること――尤も、面倒な風呂洗いや洗濯物を洗う処理を自分で行うのは変わらないが……にしても随分と楽に感じる。あたためてあとは食べるだけ。――屈辱。嬉しみ。両極にある感情が一挙に寄せ、どうしたらいいか分からない。
「ママーおなかすいたー」と娘。ソファーに座り、早速タブレットで動画を見ている。その娘のためにわたしは真っ先に冷凍ご飯を電子レンジであたためる。「はーい」とわたしはタッパーの蓋を開きながら、「いまあたためてるからねー」と答える。
それから間もなく娘とふたりの夕食開始。娘は動画に夢中で暇なのでテレビを見る。この時間はいつもお店の料理を特集しており、視覚的に満たされる。天気予報も必ず放送するので、翌日の服装をどうしようか思案する。――寒いらしい。今日はスカートだったら明日はパンツにしよう。白地にチェックの柄の入ったワイドパンツ。ならトップスはネイビーのVネックセーターにしよう。
娘はいつも通り長々と食事をするので――美冬のお陰でいつもより早くパソコンに向き合える。週二回頼むと夫は言っていた。何曜日だろう。聞けば教えてくれるだろうが、それをすると夫の行動をすべて認めてしまうようで嫌気がさす。こんな自分。こんな――浮気相手のおこぼれに預かる自分を――知りたくはなかった。
仕事帰りの疲労は感じるが、本と向き合うプロセスは至福のひとときだ。読めばすべて――忘れられる。嫌なことのなにもかもを。
今回読む本は現代女性の悲哀と恋愛のリアルを描いたものだ。不思議と――悲しみに触れると人間は癒される。こんなにも悲しく苦しく感じているのは自分だけでないと確信出来るから。この作家の作品は外れがないから安心して読める。――そんな作家に憧憬を抱きながら。
さて。自分が第三者だったらどうするだろう――なんて考える。浮気相手。憎い敵の作ったご飯なんか食べれるかー、とごみ箱にぶちまける方法もあろうが。悔しいことに美冬の作る飯はなにもかもが美味いのでそれが出来ない。――はっきりいって彼女、わたしよりも料理上手。料理が美味い女は大概あっちもうまいんだよな――なぁんて下世話なことも考えてしまう。あーあ。
いつもの手順を終え、娘の寝かしつけをしていると夫が帰ってきた。玄関の物音で分かる。幸いにして娘は半分眠りに入っていて、気がついた様子はない。目が、とろんとしている。
夫はリビングに入ると、上着を起き、すぐ風呂に入る人だ。冷凍ご飯を温めておき、風呂に入り、風呂上がりに夕食を食べる。その気配――物音がするだけで苛々する。こんな男――いなければいいのに。
娘が完全に眠ったのを確認するとわたしは日記を書き――歯磨きをして寝る。洗面所に行くと、夫が浴槽に浸かっているところだったろうが、彼は片時も携帯を手放さない。あーあ。恋人時代はこんなじゃなかったのにな。こんな冷え切った未来が待っているのなら結婚なんかしなかったのに。
結婚式の映像はDVDで残っている。あのときの彼はそう――
『笑顔のある家庭を築きたい』と語っていた。笑顔のある家庭――そう。笑顔のある家庭をと。それが――これか。は、と鼻で笑った。――つまり。
浮気相手に家事を任せるから浮気を容認せよという無言の欲求――いや、結論なのだろう。彼にとって。どうする? わたし。いま、携帯でゲームやってる夫に怒りをぶちまける? 携帯を水浸しにする? 鏡に投げつけて携帯もろともぶっ壊す? 世界を――壊す? 守り抜いてきた大切な世界を。いや――わたしにとってもこの世界は大切なのだ。守り抜きたい大切な世界。わたしにとって一番大切なのは円――円なのだ。離婚でもしたら彼女の欲しいものは手に入らない。それだけは――避けたい。
わたしの給与では、例え養育費を貰ったとて、円を大学に行かせることは出来ないだろう。色々我慢させることになるに決まっている。だったら――。
歯を食いしばった。わたしはなるべく気配を感じさせぬよう、歯磨きをキッチンで済ませ、口を漱いでから寝室へと向かう。――美冬。誇るわけでも自己主張するでもないあの女。わたしよりも十歳近く若い女――肌なんかぷるっぷるで。あの豊満な胸に顔を埋め夫は欲情しているのだ。それはわたしの知らない紘一の顔なのだろう。夫という、呪いの仮面を取り外した、乙女紘一という、厳然たる雄が現れることだろう。いずれにせよ――知ったことではないが。
眠る前に考えるのが夫の浮気相手のことか。――悲しい。虚しい、な。
眠りに落ちる最後の瞬間まで美冬のあの美しい顔が思い出されていた。
*