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クローゼットの中は、息が詰まりそうなほど暗くて狭い。
僕は膝を抱えて、じっと息を殺している。
ドアの隙間から、ほんの少しだけ光が漏れていた。
その向こうから、誰かの足音と、うめき声が聞こえてくる。
「やめて……やめてよ……」
心の中で何度も叫んだ。
でも、声は喉の奥で引っかかったまま、外に出てこない。
手のひらが汗でびっしょり濡れている。
心臓がバクバク鳴って、耳の奥で自分の鼓動が響いていた。
(お兄ちゃんたち、どうしてるんだろう……)
怖くて、怖くて、涙が止まらなかった。
でも、泣いたらダメだって思っていた。
だって、僕はもう小学生なんだから。
*
ほんの少し前まで、僕は何も知らなかった。
家の中が時々ピリピリしているのは、大人ってそういうものだと思っていた。
涼架お兄ちゃんはいつも優しいし、滉斗お兄ちゃんは僕のことを守ってくれる。
「おかえり!」と玄関で声をかけると、涼架お兄ちゃんは必ず頭を撫でてくれた。
その手は、少し冷たくて、でもとても安心できる手だった。
滉斗お兄ちゃんは、僕の宿題を見てくれる。
「元貴、ここはこうやって計算するんだよ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
僕が間違えても、絶対に怒らない。
二人のお兄ちゃんがいるから、僕は毎日頑張れる。
でも、今日――
僕は初めて、家の中で起きている「本当のこと」を知ってしまった。
*
夕ご飯のあと、親父が酒を飲み始めた。
空気がピリピリして、みんなが静かになった。
僕は滉斗お兄ちゃんの袖を握って、じっとしていた。
涼架お兄ちゃんは、僕たちの前に立つようにして、親父の方を見ていた。
「何見てんだ、コラ!」
親父が怒鳴る。
「ごめんなさい」
涼架お兄ちゃんが小さな声で謝る。
でも、親父は許してくれない。
「お前ら、俺をバカにしてんのか!」
ドスッ
親父の拳が涼架お兄ちゃんの腹にめり込む。
「やめて!」
滉斗お兄ちゃんが叫ぶ。
バキッ
今度は滉斗お兄ちゃんが殴られる。
僕は怖くて、声が出なかった。
涼架お兄ちゃんが僕を見て、かすかに首を振った。
「元貴、クローゼットに隠れて」
その声が、震えていた。
僕は言われるまま、クローゼットの中に入った。
ドアをそっと閉めて、暗闇の中で膝を抱えた。
*
クローゼットの隙間から、部屋の中が少しだけ見える。
涼架お兄ちゃんが、床に倒れている。
滉斗お兄ちゃんも、壁にもたれて、苦しそうに息をしていた。
親父は息を荒げて、二人のそばに立っている。
「お前ら、俺に逆らう気か!」
バシッ
また、音がした。
涼架お兄ちゃんの顔が横に弾かれる。
「やめて……やめてよ……」
僕は小さく呟いた。
涙が頬を伝って、膝に落ちる。
(どうしよう……どうしたらいいの……)
頭の中が真っ白になる。
怖くて、体が動かない。
でも、このままじゃ、お兄ちゃんたちが死んじゃうかもしれない。
隙間から見える二人の姿は、今まで見たことのないものだった。
涼架お兄ちゃんの顔が血で濡れている。
滉斗お兄ちゃんは、腕をかばいながら、うずくまっている。
親父の怒鳴り声が、壁に反響して何度も跳ね返る。
僕は今まで、何も知らなかった。
お兄ちゃんたちが、こんなに苦しんでいたなんて。
僕の知らないところで、ずっと痛い思いをしていたなんて。
「ごめんね……ごめんね……」
声にならない声が、胸の奥からこぼれた。
*
そのとき、ふと滉斗お兄ちゃんの机の上にあった本を思い出した。
『なにか事件や事故が起きたら、110に電話しましょう』
赤いマーカーで囲ってあったページ。
滉斗お兄ちゃんが、真剣な顔で何度も読んでいた。
(僕が……電話しなきゃ……)
でも、怖い。
親父に見つかったら、僕も殴られるかもしれない。
でも――
(お兄ちゃんたちが、僕を守ってくれたみたいに、今度は僕が……)
ポケットの中に、小さな携帯が入っている。
滉斗お兄ちゃんが
「困ったときはこれを持ってて」
と渡してくれたものだ。
「何かあったら、これで誰かに電話して」
その言葉が、頭の中で何度も響く。
僕は震える手で携帯を取り出した。
指が汗で滑って、なかなかボタンが押せない。
でも、必死で数字を押す。
1……1……0……
「もしもし……」
声が震えて、うまく出ない。
「お兄ちゃんたちが……倒れてて……血が……」
涙が止まらない。
「助けて……お兄ちゃんたちが……」
電話の向こうで、優しいお姉さんの声が聞こえる。
「大丈夫だよ。今、場所を教えてくれるかな?すぐに助けに行くからね」
僕は震える声で住所を伝えた。
クローゼットの外で、親父が何か叫んでいる。
「どこにいやがる!」
足音が近づいてくる。
僕は携帯を胸に抱きしめて、必死で息を殺す。
(お願い、早く来て……)
*
時間が止まったみたいだった。
クローゼットの中で、僕はずっと祈っていた。
「お兄ちゃんたちが、助かりますように」
「みんなで、また一緒にご飯を食べられますように」
涙が止まらなかった。
でも、泣いてばかりじゃ、何も変わらない。
僕は、もう小学生なんだから。
外から、サイレンの音が聞こえてきた。
遠くで、誰かが叫ぶ声。
「警察です! 中に誰かいますか?」
ドアが開く音。
大人の足音が、部屋の中に入ってくる。
クローゼットの扉が、そっと開いた。
「大丈夫? 君が電話してくれたの?」
おまわりさんが、優しい顔で僕を見ていた。
僕は泣きながら、うなずいた。
「お兄ちゃんたちを……助けて……」
その瞬間、ずっとこらえていた涙があふれて止まらなかった。
*
救急車の赤い光が、夜の闇を照らしていた。
涼架お兄ちゃんと滉斗お兄ちゃんは、担架に乗せられて運ばれていく。
僕はおまわりさんに手を引かれて、外に出た。
空気が冷たくて、涙がすぐに乾いた。
「よく頑張ったね」
おまわりさんが、僕の頭を優しく撫でてくれた。
「お兄ちゃんたちは、きっと大丈夫だよ」
僕は、うん、と小さくうなずいた。
心の中で、何度も何度も祈った。
(お兄ちゃんたちが、無事でありますように)
救急車のドアが閉まる直前、涼架お兄ちゃんがかすかに目を開けた。
「元貴……」
その声が、かすかに聞こえた。
僕は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、手を振った。
「お兄ちゃん、がんばって!」
*
その夜、僕は知らない場所のベッドで眠った。
おまわりさんが「ここで待っててね」と言って、毛布をかけてくれた。
天井の明かりが、ぼんやりと滲んで見える。
隣の部屋から、大人たちの話し声が聞こえる。
「お兄ちゃんたち、助かったかな……」
不安でいっぱいだったけど、
「僕が電話したから、きっと大丈夫」
そう信じて、目を閉じた。
夢の中で、お兄ちゃんたちと手をつないで歩いていた。
みんなで笑って、どこまでも歩いていける気がした。
「また、三人で暮らせますように」
それが、僕の一番の願いだった。
*
朝になっても、涙の跡は消えなかった。
お兄ちゃんたちのことを思い出すたび、胸が苦しくなる。
「僕、今まで何も知らなかった……」
そう呟いたとき、急に涙が溢れて止まらなくなった。
「ごめんなさい……僕、何もできなかった……」
でも、あのとき勇気を出して電話したことだけは、
きっと間違いじゃなかったと信じたい。