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「お茶でも飲んでいかない?」
菜月は玄関で湊を振り返り、軽い口調で誘った。夜の10時を少し回ったところ。御影のマンションの廊下はひんやりと静かで、遠くでエレベーターの機械音が小さく響く。
さっきまで一緒にいたのに、こうやって別れ際に話すのがなんだかんだ落ち着く瞬間だった。
「今日は帰るよ、また来るから」
湊はそう言って笑ったけど、菜月の目は玄関先に置かれた黒い革靴に釘付けになった。賢治の靴。雨に濡れて光るその革が、まるで不穏な予兆みたいに菜月の胸をざわつかせる。賢治、菜月の夫。結婚して1年、最近は帰りが遅いかと思えば、妙に早く帰ってきて不機嫌な態度を振りまく。菜月は気付いてしまった。いや、知りたくなかったけど、賢治が他の女と会っていることを。香水の匂い、スマホの通知、急に丁寧になるメールの文面・・・。全部、菜月の心に小さな棘を刺してきた。
「そう? じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
「送ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
湊は作り笑顔で踵を返し、エレベーターホールに向かった。菜月は閉まるドアの隙間から、湊の強く握られた拳に気づいた。
(賢治さんの顔、今見たら本当に殴ってしまいそうだな・・・)
湊のそんな声が頭に響く気がした。菜月の胸が締め付けられる。湊は菜月の変化に気づいてる。賢治の不倫を水(見ず)に流したい菜月の気持ちも、きっとわかってる。だからこそ、湊はいつもそばにいてくれる。義理の弟だけど、血の繋がりがない分、どこかで遠慮しながらも、菜月を守ろうとしてくれる。その優しさが、今の菜月には痛いほど沁みた。
リビングのドアを開ける前、菜月は深呼吸した。
「ただいま」
恐る恐る声をかけると、中から低く不機嫌な声が返ってきた。
「…遅えな」
ドアを開けると、ソファに腕を組んで座る賢治がいた。厳しい顔つき、眉間に刻まれた皺。菜月の心臓がドクンと跳ねる。賢治の目は、まるで菜月を値踏みするように冷たい。
「綾野の家に行ってたのか」
賢治の声は刺すように鋭い。綾野とは湊のこと。賢治は湊の名前を呼ぶとき、いつも苗字で突き放す。
「うん、ちょっと用事があって」
菜月は平静を装いながら、持っていた紙袋をダイニングテーブルに置いた。袋の中には、多摩さんが持たせてくれたタッパーウェアが入っている。
「南瓜と小豆の煮物、多摩さんが持たせてくれたの」
「煮物?」
賢治の声に嫌味が滲む。
「美味しいのよ」
菜月は笑顔で誤魔化そうとしたけど、賢治はソファから立ち上がると、タッパーウェアを奪うように手に取った。蓋を開け、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「なんだよこれ、婆ぁの臭いがするじゃねぇか」
「なに? なにその言い方…」
菜月の声が震えた。婆ぁだなんて、多摩さんはまだ50歳そこそこなのに。賢治の言葉はいつもこうだ。誰かを貶めて、自分の苛立ちをぶつける。
「こんなもん食えねぇよ」
バン!
賢治はタッパーウェアごとゴミ箱に叩き込んだ。菜月は息をのんだ。驚きと怒りで言葉が詰まる。
「綾野の家の『みんなで仲良くしてます』ってのが気持ち悪いんだよ」
「気持ち悪いって…酷くない?」
菜月の声はか細く、でも必死に反論した。賢治の目はさらに険しくなる。
「菜月、タクシーで帰ってきたのか?」
突然の話題の転換に、菜月は一瞬戸惑った。
「湊に送ってもらったの」
「はっ、お前ら仲良すぎんだよ! その歳で気味が悪いんだよ!」
「そんな、だって弟なのよ?」
「義理の弟だろ! 血が繋がってねぇんだろ! 裏で何やってんのかわかったもんじゃねぇ!」
賢治の言葉は、まるでナイフのように菜月の心を切りつけた。湊との関係をそんなふうに言われるなんて。賢治の言葉は汚い想像で塗り潰されている。
「賢治さん、あなた何言ってるか分かってるの!?」
菜月の声は怒りで震えた。賢治が不倫してるのはわかってる。夜中にコソコソスマホをいじる姿、知らない女からのメッセージ、匂い…。その負い目を誤魔化すように、菜月と湊の関係に自分の罪を投影してる。なんて卑怯なんだろう。
「菜月! もう綾野の家には行くな!」
「どうして!?」
「湊とも会うな! この部屋にも入れるな!」
賢治の声は吠えるようだった。湊への嫉妬が、菜月への支配欲が、言葉になって溢れ出す。賢治は不倫の発覚を恐れてる。湊が菜月の味方であることが、賢治には脅威なのだ。 菜月が反論しようとした瞬間、賢治は手元にあったダスターを掴むと、振りかぶって菜月に叩きつけた。
バシッ!
軽い音だったけど、菜月の心には重く響いた。
「もう寝る! 約束は守れ! わかったな!」
賢治はそう吐き捨て、寝室に消えた。 菜月は呆然と立ち尽くした。頬に当たったダスターの感触が、じんじんと残る。涙がこみ上げそうだったけど、グッと堪えた。代わりに、震える手でスマホを握りしめた。
湊に送るメッセージを打ち始める。 湊、会いたい すぐに既読がついた。 どうしたの 会った時話す 分かった。明日の昼休みに行くよ おやすみなさい おやすみ菜月 既読のマークが、菜月の心に小さな灯りをともした。湊はいつもこうだ。どんなときも、菜月の言葉をちゃんと聞いてくれる。
義理の弟だけど、まるで本当の家族のように。
翌朝、菜月は鏡の前で髪を整えながら、昨夜のことを思い返していた。賢治の不倫、湊への嫉妬、ダスターを投げつけたあの瞬間。全部が頭の中でぐるぐる回る。
(なんで私がこんな目に…)
結婚したときは、賢治の優しさに惹かれた。仕事熱心で、将来を真剣に考えてくれる人だった。でも、今の賢治は別人だ。菜月は、不倫の兆候に気付かなかった自分を呪った。
(このままじゃ、私…壊れちゃうよ)
湊との昼休みの約束が、唯一の心の支えだった。
昼下がり、湊はマンションの近くのカフェで菜月を待っていた。
「菜月、大丈夫?」
湊の声は心配そうだった。いつも柔和な彼が、こんな顔をするのは珍しい。
「…ちょっとね、昨日、賢治さんと」
菜月は言葉を濁した。湊の目が鋭くなる。
「賢治さん、菜月に何かした?」
菜月は小さく頷いた。湊の拳がテーブルでギュッと握られる。
「菜月…もう、1日でも早く賢治さんと別れよう。賢治さんは菜月のことを傷つけることしかしない」
「そんな簡単な話じゃないよ…」
菜月は目を伏せた。結婚、世間体、経済的な問題。頭ではわかってる。でも、心が追い付かない。
「簡単だよ。菜月が幸せじゃないなら、意味がない」
湊の言葉はストレートだった。菜月の胸が熱くなる。
「湊..ありがとう。ちょっと、考えさせて」
湊は黙って頷いた。その目は、菜月を守りたいという強い意志で満ちていた。
その夜、賢治はまた遅く帰ってきた。
「菜月、飯は?」
「…作ってあるよ」
菜月は静かに答えた。賢治の不機嫌な顔を見ながら、湊の言葉が頭をよぎる。
(幸せじゃないなら、意味なんてないよ)
食事を終えた賢治はソファに寝転がり、スマホをいじり始めた。菜月はそっと寝室に移動し、スマホを取り出した。湊にメッセージを打つ。
湊、明日また話したい 既読
いつでもいいよ。
僕は菜月の味方だから 既読
菜月の目から、涙がこぼれた。
(私、変わりたい)
それは、壊れた日常からの第一歩だった。