テラーノベル
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たまには原点に変える。キスマドッキリ。
冬の気配が混じり始めた横浜の夜は、ひどく静かだった。
武装探偵社の事務所内、定時を過ぎても残っているのは数名。カタカタと響くタイプライターの音と、時折聞こえるページをめくる音だけが、停滞した空気を揺らしている。太宰治は、いつものソファに身を横たえ、手に持った資料を眺めるふりをしながら、心ここにあらずといった体で溜息をついた。
「はぁ……」
その溜息は、今日だけでもう何度目だろうか。
隣のデスクで駄菓子を頬張っていた江戸川乱歩が、眼鏡の奥の瞳をわずかに細めて太宰を一瞥した。
「太宰、うるさいよ。悩み事があるならさっさと解決すればいいじゃないか。君らしくもない」
「乱歩さん……。実は、重大な問題に直面しておりまして」
太宰はソファから起き上がり、珍しく「しょもしょも」とした様子で肩を落とした。普段の飄々とした態度は影を潜め、どこか捨てられた仔犬のような、あるいは雨に濡れた猫のような、湿り気を帯びた空気を纏っている。
「中也が、最近そっけないのです」
「……あ、そう。惚気なら他所でやってくれない?」
「惚気じゃありませんよ! 死活問題です。別に、夜の生活が途絶えたわけじゃない。昨夜だって、ちゃんと重ねました。でもね、なんだか事務的なのですよ。前はもっと、こう……食らいつくような熱量があったのに、最近は『ああ、今日もやるか』みたいな、義務感すら感じるというか。私に関心がなくなってしまったのでしょうか」
太宰の声は真剣だった。
ポートマフィアの最高幹部・中原中也。彼と太宰は、数年前から秘かに想いを通わせ、今では都内のマンションで同棲までしている。周囲には隠しているつもりだが、超推理を持つ乱歩にはとうにバレていた。
「中原くんも忙しいんじゃないの? 幹部様なんだから」
「それは分かっています。でも、寂しいものは寂しいのです。彼の方から、もっと強引に求めてほしい。独占欲を剥き出しにしてほしい。……乱歩さん、こういう時、どうすれば相手を煽れると思います?」
乱歩はラムネを口の中で転がし、退屈そうに天井を仰いだ。
「そんなの簡単だよ。君の得意な『嘘』を混ぜればいい。……そうだね、キスマドッキリとか。浮気を疑わせるような跡でもつけてみたら? 単純な彼なら、すぐに食いつくんじゃないかな」
「……キスマドッキリ。なるほど」
太宰の瞳に、わずかな光が宿った。
それは名案かもしれない。普段ならそんな子供染みた策は弄さないが、今の太宰はそれほどまでに中也の「熱」に飢えていたのだ。
「ありがとうございます、乱歩さん。さっそく準備に取り掛かります」
「はいはい、頑張ってね。あ、ボロを出さないように気をつけるんだよ」
太宰は軽く会釈をすると、いつも通り定時に事務所を飛び出した。
帰宅した太宰は、まず入念に風呂に入った。中也が帰宅するまでにはまだ時間がある。
鏡の前に立ち、濡れた髪を拭きながら、バッグから取り出したのは数本の口紅だった。なぜそんなものを持っているのか、と問われれば「任務用だよ」とでも嘯くだろうが、今の太宰にとってこれは最高級の武器だった。
「赤、紫、そして少しの茶色……」
美術の才能をこんなところで発揮するとは思わなかったが、鏡の中の自分を凝視しながら、首筋に慎重に色を乗せていく。指先でぼかし、内出血特有の、生々しいグラデーションを作り上げた。
仕上がりは完璧だった。照明の下で見れば、誰がどう見ても「激しく吸われた跡」にしか見えない。
太宰はその上から、いつものように包帯を丁寧に巻き直した。さらにその上から襟の詰まったルームウェアを着込み、鏡を見て頷く。
「よし。あとは、中也を待つだけだ」
キッチンに立ち、昨日の残り物を手際よく温め直す。中也の好きな、少し濃いめの味付けの煮込み料理。エプロン姿で食卓を整えていると、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま……クソ、疲れた……」
低い、聞き慣れた声。
中也が、重い足取りでリビングに入ってきた。肩には外套を引っ掛け、ネクタイは緩んでいる。一目で激務だったことが分かる。
「おかえり、中也! ちょうど準備ができたところだよ」
太宰は努めて明るく駆け寄り、中也の肩から外套を脱がせた。
「おう。悪いな、太宰。飯、先食っててよかったのに」
「中也と一緒に食べたいから待ってたんだよ。さあ、冷めないうちに配膳するね」
食卓についた中也は、黙々と箸を進めた。
太宰はいつも以上に甲斐甲斐しく立ち回り、話題を振るが、中也の反応はどこか薄い。「ああ」「そうか」といった短い返球ばかりだ。
中也の視線が、時折太宰の首元に向く。
(……気づいた?)
太宰は内心で期待したが、中也はすぐに視線を逸らし、コップの水を飲み干した。
「ごちそうさん。……風呂入ってくるわ」
「あ、うん。ゆっくり浸かっておいで」
中也が浴室へ消えたあと、太宰は一人、食卓の片付けをしながら唇を噛んだ。
やっぱり、そっけない。気づいているはずだ。中也の勘は鋭い。それなのに、追求してこない。自分への関心が薄れているという仮説が、太宰の胸を締め付けた。
やがて中也が風呂から上がり、寝室にやってきた。
寝室にはダブルのベッドが置かれている。二人の「定位置」だ。
中也はTシャツ一枚のラフな格好で、すでに布団に腰を下ろしていた。
「太宰、こっち来いよ」
呼ばれて、太宰は吸い寄せられるように隣に座った。
いつもなら、このまま流れるように互いの肌を求め合う。中也の手が太宰のルームウェアの裾に掛かった。
だが、その瞬間、太宰の身体が強張った。
(……もし、これを見せても何も言われなかったら?)
(『へえ、いい男でも見つけたのか』なんて、冷たく流されたら?)
想像するだけで、息が止まりそうになる。
拒絶される恐怖が、ドッキリのいたずら心を塗り潰してしまった。
「……どうした?」
中也が怪訝そうに眉を寄せた。
「あ、うん……。ごめん、中也。やっぱ、今日はなしにしよう。中也も疲れてるだろうし、私もなんだか、その……」
「あ?」
中也の瞳に、静かな火が灯る。
「……誘ったのは、手前の方だろ。さっきから変にベタベタしてやがって」
「それは……そうだけど」
「逃げんじゃねえよ」
中也の腕が太宰の肩を掴み、そのまま押し倒した。背中が柔らかい布団に沈む。
その拍子に、太宰の首元を覆っていた包帯が、少しだけずれた。
隠していた「偽装」が、室内の薄明かりの下で露わになる。
中也の動きが、ぴたりと止まった。
「……は?」
中也の声が、地を這うような低音に変わった。
視線は、太宰の白い首筋に刻まれた、どす黒い赤色に釘付けになっている。
「あ、あははは……バレちゃったかな」
太宰は引きつった笑みを浮かべた。だが、目の前の中也の顔から一切の感情が消えていくのを見て、背筋が凍った。
「それ……誰のだ」
「えっと、それは……」
「誰につけられた、って聞いてんだよ!!」
怒号。
中也の手が、太宰の首を容赦なく掴んだ。苦しくない程度の力加減ではあるが、逃げ場を完全に塞ぐ威圧感。
中也の指先が、その「跡」を乱暴に引っ掻いた。
「い”ッ……!? 痛い、中也、痛いよ……!」
太宰の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
本当の痛みと、中也から向けられる凍るような視線への恐怖。
中也は指先についた色を見て、わずかに目を見開いた。
「……落ちるな、これ。……絵の具か? いや、口紅か」
中也の声は、怒りから冷徹な観察へと変わった。だが、その瞳の奥にある焔は消えていない。
「説明しろ。……今すぐにだ」
太宰は、中也の胸を掴むようにして、震える声で話し始めた。
「……だって、中也が最近、全然私を見てくれないから……。帰ってきても仕事の話ばっかりで、抱いてくれる時も、なんだか淡白で……。私に飽きちゃったのかと思って……寂しくて……」
しゃくり上げながら、太宰は言葉を紡ぐ。
「乱歩さんに相談したら、キスマドッキリがいいって……。中也が、少しでも私に執着してくれたら、嫉妬してくれたらって……思って……。ごめんなさい、中也。ごめんなさい……」
太宰の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
それを見た中也は、大きな溜息をつくと、太宰の首筋から手を離した。
「……阿呆か、手前は」
中也の声には、呆れと、それ以上の深い情愛が混じっていた。
「飽きたわけねえだろ。……最近、大きなヤマがあって、帰ってきても頭が仕事モードから切り替わらねえだけだったんだよ。手前に余計な心配させてたのは……まあ、悪かった」
中也は太宰の涙を親指で乱暴に拭った。
「だがな、太宰。……こんな偽物で俺を試すなんて、万死に値するぜ」
「……中也?」
「本物のつけ方を、骨の髄まで教えてやる。……覚悟しろよ」
中也の唇が、太宰の唇を荒々しく塞いだ。
それは「そっけない」なんて言葉が微塵も入り込めないほど、強欲で、熱く、狂おしいほどの独占欲に満ちた口付けだった。
夜の帳がさらに深まる中、寝室には二人の荒い吐息と、肌がぶつかり合う音だけが響き渡る。
中也の攻めは苛烈だった。太宰の身体の隅々まで、自分の所有印を刻み込むかのような、激しい愛撫。
太宰は、求められていた以上の熱量に翻弄され、ただひたすらに中也の名前を呼び続けた。
「あ、ぁ……ちゅう、や……もっと、もっと……!」
「……逃がさねえ。手前の全部、俺が塗り潰してやる」
何度も、何度も、果てしない快楽の波が押し寄せる。
太宰の意識は、次第に真っ白な霧の中に溶けていった。
……どれほどの時間が経っただろうか。
嵐のような情事が終わり、太宰は力なくシーツの上に横たわっていた。
全身の力が抜け、指先一つ動かすのも億劫だ。
意識は「ぽやぽや」と朦朧としており、視界は涙と熱で潤んでいる。
「ふ、あ……ぁ……」
中也が動くたびに、シーツが太宰の敏感になった肌を擦る。
それだけの刺激で、太宰の唇からは可愛らしい喘ぎ声が漏れた。
「……まだ感じてんのか。身体中、真っ赤だぞ」
中也がくすりと笑いながら、太宰の身体を引き寄せた。
太宰は抵抗する力もなく、されるがままに中也の胸に顔を埋める。
「……もう、無理……中也、ひどい……」
「自業自得だ。……おい、太宰。こっち向け」
中也は太宰の顎を持ち上げると、先ほどまで「偽物」があった場所を見つめた。
口紅はすっかり落ち、代わりにそこには、中也が刻んだ本物の、鮮やかな紫紅色の痕跡が幾つも並んでいる。
中也は満足そうに目を細めると、最後に一番目立つ場所へ、ゆっくりと唇を寄せた。
「……これは俺のモンだ。忘れるなよ」
ちゅ、と。
深い愛を込めた音が、静かな寝室に響いた。
太宰は、その熱い痛みを全身で受け止めながら、幸福な夢の中へと落ちていった。
明日が休みで、本当によかったと。
そんなことを薄れゆく意識の中で思いながら。
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