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廃墟のホテル裏手
石壁に囲まれたサービスヤードは
外界から切り離された静謐の牢獄のように
沈黙に沈んでいた。
ひび割れた石畳の上に積もった埃が
靴裏でざりっと鳴り
遠くでは街のざわめきが微かに響くものの
この場にはまるで届かない。
空気は重く張り詰め
三人の男とひとりの少女
そして一羽の鳥が対峙するその光景は
外の陽光さえ踏み入れを躊躇うほどの緊迫を
孕んでいた。
男は縄で後ろ手に縛られ
荒い息を繰り返していた。
石壁の影に落ちるその眼差しには
逃げ場のない獣の焦燥がちらつき
滴る汗が埃まみれの頬を伝って落ちる。
ソーレンは壁際に立ち
琥珀色の瞳を鋭く光らせたまま
咥えた煙草の先から細い紫煙を吐き出す。
男が微かに身じろぎするたび
その琥珀の視線は刃の背のように冷たく走り
外界との境を守る盾のように
その場を封じ込めていた。
一方で、アラインは
白い指で銃の構えを正すふりをしながら
わざとなお、時也に身体を密着させる。
横顔には少年の悪戯めいた笑みが貼り付き
しかしアースブルーの双眸は氷よりも冷たい
彼にとっては男の恐怖など取るに足らず
むしろ隣で真剣に銃を構える時也を
揶揄うことの方が愉快なのだ。
時也は鳶色の瞳を研ぎ澄まし
微動だにせず標的を見据えていた。
二人に比べると
小柄な体躯に秘められた静謐な気迫は
男の焦燥を逆撫でするかのように
鋭く突き刺さる。
(先程の視線──アライン様は……
わたくしを試しておられるのですね!)
アビゲイルは胸の奥で叫ぶように祈った。
わかってはいる。
わかっていても、目の前の光景は尊すぎた。
男を圧する冷酷な眼光を放ちながら
片や揶揄し、片や導き、片や静かに構える。
推しと推しの距離が近すぎて、尊すぎて
胸の鼓動は暴れんばかりに
制御を失いかけている。
(落ち着くのです、アビゲイル⋯⋯っ
修行を思い出しなさい!
今日の聖地巡礼は、この時のために──!)
少女の手が
膝の上でわずかに握りしめられたその時
不意に異様な音が辺りに木霊した。
「──グッ!クッ⋯⋯グ、グクッ!」
それは人の呻き声ではなかった。
視線を向けた瞬間
全員がわずかに息を詰めた。
ルキウスである。
桃色の羽を震わせ
腹の中央に縦の線が歪むように浮かび上がり
居心地悪そうに小さく身を揺らしていた。
裂け目のように蠢くその腹は
不自然な嗚咽を吐き出しながら
石壁に反響するほどの異音を奏でている。
「ルキウス!?
一体どうなされたのですか!」
アビゲイルの声が、焦燥に張り詰める。
彼女は涙を拭ったばかりの瞳を大きく見開き
慌てて手を伸ばしながら近寄った。
白い指が差し伸べられ
今にもその腹を撫でようとした瞬間だった。
「──ケッ!」
キンッと、乾いた金属音を伴い
裂け目から何かが弾かれた。
鋭い閃きが石畳に散り
刃の反射とともに小さな金属片が転がる。
ナイフ。
そして、一枚の小さな円盤状の金属だった。
それが吐き出されると同時に
ルキウスは大きく羽を広げ震わすと
ようやくすっきりしたとでも言いたげに
腹を閉じた。
縦に走っていた筋は、すうっと消え
再び桃色の羽毛に覆われてゆく。
「お見苦しい所を⋯⋯お見せいたしました。
申し訳ございません。
小骨のようにナイフがつかえておりまして」
落ち着いた声色で謝罪するその様子に
アビゲイルは胸を撫で下ろすように微笑んだ
「あぁ……ルキウス。
ご無事でなによりですわ!
もしやと思って⋯⋯
動物病院に連れていかねばならないかと」
彼女の安堵に
ソーレンが肩を揺らして苦笑する。
「人喰式神のオウムを
診てくれる獣医なんざ──
聞いたこともねぇな?」
その皮肉混じりの声をよそに
アラインが足元へ視線を落とした。
時也から身体を離し
石畳に転がる金属を拾い上げる。
(トークン、か?何の──)
その動作は何気ないようでいて
彼の瞳に一瞬だけ鋭い光が走る。
冷えた金属の表面には
医療蛇杖を象った微細な意匠が刻まれていた
片面には蛇が絡みつく杖の紋、反対には
〝CIVIS FUND〟と読める
偽りの慈善名が浮き彫りにされている。
アラインの長い指先が
その紋様をなぞった瞬間──
拘束されていた男の顔色が
見る見るうちに変わった。
強張った顎がわななき、瞳孔は狭まり
呼吸は浅く震えて、額から冷や汗が滴る。
普段は虚勢と罵声で
自らを繕っていたはずのその顔が
初めて真実の恐怖に染め上げられたのだ。
彼の視線はトークンに釘付けにされ
呼吸は途切れ途切れに荒ぶり
喉の奥から搾り出されるような喘鳴が洩れる
石畳の上に転がる銀のトークンは
ただの金属片ではなかった。
男にとっては呪いの烙印──
背後に潜む巨大な闇を想起させる鍵だった。
アラインは冷ややかに口端を上げ
指先でそのトークンを弄ぶ。
アースブルーの瞳は
氷の湖面のように澄んでいるのに
その奥には
男の恐怖を玩ぶ愉悦が煌めいていた。
「⋯⋯なるほどね。これは、いい証拠だ」
低く囁くその声は
石壁の奥まで沈み込むように響いた。
(これも〝加護〟の力かねぇ?
随分と、絶好なタイミングだ)
アラインは、ちらりと──
ルキウスを撫でるアビゲイルを盗み見た。
拘束された男は生唾を飲み
唇を噛み切らんばかりに震わせながら──
ただ、絶望を滲ませた瞳で
その小さな金属を見つめ続けていた。