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「名簿の名前、間違ったら、大恥だからな。
絶対、間違うなよ。
漢字、特に注意な」
仕事のときは、というか、仕事以外でも常に容赦のない祐人に言われ、……はい、とのぞみは緊張して、A4のコピー用紙を握った。
祐人は年代物の台帳のようなものを広げている。
「では、行きます」
とのぞみは、まず、祐人に言われた通りに、名前を読み上げ、次に電報を打つときの要領で漢字を説明しながら、読み上げる。
「みずお あき。
水たまりの水に、尾っぽの尾。
悪いの下、心がない亜に、動悸、息切れ、めまいの悸です」
「……他の説明の仕方はなかったのか。
水尾亜悸さんに殴られるぞ」
わかりやすいかと思ったんだが……。
仕方がないので、できるだけ、ご無礼のない言葉に振り替えながら、漢字を説明する。
うん、うん、と台帳を見たまま、祐人はチェックしているが、本当に自分の言い方で正しい漢字が伝わっているのだろうかと不安になる。
なにかこう、入社試験のときより、学力を試されているような……と思っていると、
「待て」
と祐人が言ってきた。
「そこ、紅白の紅じゃなくて、赤白の赤だろ」
「あっ、そうです、すみません。
なにかイメージで語ってました」
と言って、
「……いや、イメージで語るなよ」
と言われてしまう。
そのあとも緊張した時間が続き、ようやく読み終えて、一息つくと、祐人が、
「お疲れだったな。
ご苦労さま」
と言ってくれたので、ほっとする。
二人で、小会議室を片付けていると、祐人が、
「疲れたら、甘いものが欲しいだろう」
と言ってきた。
なにかご褒美に甘いものがいただけるとかっ、とちょっと喜んでしまったのだが、祐人は、
「ほら」
と紙袋からあの金のチョコ棒を出してくる。
「……御堂さん、まだそれ、もてあましてたんですか」
「なにを言う。
三位の景品だそ、ありがたくいただけ。
それ食ったら、ボウリングが上手くなるかもしれないぞ」
そんな莫迦な……。
「だったら、万美子さんの景品食べたら、もっと上手くなれるとか?」
とうっかり言って、
「商品券食えんだろうが、ヤギか」
とすげなく言われてしまう。
いや、ちょっと言ってみただけじゃないですか。
ねえ……と思ったとき、祐人が訊いてきた。
「で?」
「は?」
「その後、専務とはどうなってるんだ?」
「どうもこうもありませんよ。
特に進展はありません」
「何故だ」
いや、何故だって……。
「好きなんだろうが、何故、迷う」
と祐人は言うが。
「いやー、おうちが違い過ぎますしねー。
それに、元が先生と生徒だったので。
その力関係が一生変わりそうになくて、やだなあ、というか」
と言って、
「いや……お前、元生徒のわりには逆らってるぞ」
とあっさり言われてしまったが。
「――と坂下が言ってましたよ」
専務室に来た祐人は、確認済みの名簿を京平に渡しながら、のぞみが何故、自分との関係を進展させないのかを語ってくれた。
それを聞きながら、京平は、お前は一体、どうしたいんだ、御堂……、と思っていた。
この間ものぞみに忠告してくれたようだし。
何故、俺は毎度、のぞみにキスした男に礼を言わねばならんのだっ、と思いながらも、
「ありがとう」
と一応、言っておいた。
「では、失礼します」
と出て行く祐人を見送りながら、京平は思う。
御堂、いい男で、いい奴だ。
やはり、危険だ。
早急に俺とのぞみとの仲を進展させなければ――!
此処は、やはり、二人で旅行に行くしかないっ、と京平は思っていた。
同じ釜の飯を食べると、人は一気に親しくなると言うしな、とのぞみに言ったら、
「いや……社食でも、レストランでも、たぶん、同じ釜から食べてますからね」
と言われそうなことを思う。
もう旅行先の目星はつけてあった。
「旅行に行こう」
仕事終わりに京平が、のぞみにそう言うと、
「何故ですか」
という言葉が返ってきた。
いやお前、何故ですかとか、おかしいだろう、と思いながら、
「同じ釜の飯を食べると、人は一気に親しくなると言うだろうが」
と言うと、案の定、
「いや……社食でも、レストランでも、うちでも、たぶん、同じ釜から食べてますからね」
とのぞみは言ってくる。
俺の想定より、ひとつ多いな、と思いながら、
「社食の一升炊きの電気釜は三つもあるぞ。
俺とお前のA定食が、同じ釜からよそわれたかどうかなんてわからないだろうが」
と言うと、
「そういう意味じゃないんじゃないですかね……? 同じ釜の飯って」
とのぞみは言ってきた。
「お前に教えさとされるとか。
俺も落ちぶれたものだな……」
「っていうか、旅先も同じ釜かどうかはわかりませんよ」
そこで、のぞみは何故か沈痛な表情になる。
「専務」
と切り出してくる口調が重い。
「実は、私、専務に告白しなければならないことが――」
どうやら、いい告白ではなさそうだと京平は身構えた。
「さっき、御堂さんと話していて気がついたんです」
御堂と?
御堂と話していて、なにに気づいたんだっ?
実は、御堂を愛していたとかっ?
と京平は焦る。
常々思っていたんだ。
二人とも俺専属の秘書だということは、二人で居る時間が長いということだ!
そう。
俺がのぞみと居るよりもっ、と思っていると、
「専務、すみません。
私、間違っていました。
御堂さんに言われて、気づいたんです」
思わず、耳を塞ごうとしたとき、のぞみが言った。
「私、『猫にひかれた女』じゃなくて、『猫にはねられた女』だったんです、中学のときのあだ名。
そうですよ。
私、猫に弾き飛ばされたんで、ひかれたわけじゃないですもんね」
早く伝えなければというように、早口で語ってくるのぞみに、
「どうでもいいだろっ、その話ーっ」
思わず、そう叫んでいた。
専務に突っ込まれる前に、早く言わなければっ、と専務室に入る前から、のぞみは身構えていた。
今にも、その間違いに気づいた京平が、お前、猫にひかれたんじゃなくて、はねられたんだろ、と高笑いしながら、言ってきそうだったからだ。
だが、私、猫にはねられた女だったんですっ、と告白したのぞみに、京平は、
「どうでもいいだろっ、その話ーっ」
と叫んできた。
そうか。
どうでもいいのか……。
よかった、とほっと息をついたのぞみに、京平は言う。
「今、お前が、御堂への愛を告白し始めたら、お前を遠くの支社に飛ばそうと思ってたところだ。
何処がいい?
札幌か?」
札幌か。
ラーメンが食べたいな。
「九州か?」
九州か。
ラーメンが食べたいな。
「専務、ラーメン食べに行きませんか」
「今の話の流れで、なんでだ……」
「いや、話題に出たら、食べたくなるじゃないですか、ラーメンって」
「何処にも話題に出てないよな……?」
それこそ、教えさとすように、京平は言ってくる。
そうでしたっけね? と思いながら、のぞみは言った。
「ところで、私が御堂さんへの愛を告白したら、なんで私の方が飛ばされるんですか」
普通、そこは、御堂さんを飛ばさないだろうか、と思ったのだが。
「そりゃ、御堂の方が使えるからだろ」
とあっさり京平は言ってくる。
仕事の上では、鬼ですな、と思っていた。
あんなに好きだと言ってくれているのに。
……いや、そんなに言ってくれてはないか。
いつもなにやら、挙動不審なだけで。
などと考えていると、京平が、いきなり、
「そんなことより、旅に出よう」
と言い出した。
突然、JRのキャッチコピーでも言い出したのかと思ったが、
「日帰りならいいだろう?
何処がいい?」
と京平は訊いてくる。
「えっ、そうですねえ」
日帰りなら、旅に出るのもちょっといいかな、とのぞみは思った。
春の日差しにきらめく海を横目に見ながら、湾岸沿いをドライブするイメージだったのだが。
「俺は、猿島とか言ってみたいな」
と京平は言う。
猿島!?
なんだか猿がたくさん居そうなイメージだが、東京湾に浮かぶこの無人島には猿など居ない。
というか、無人島と言いながら、観光客であふれかえっているのだが……。
「あと、うさぎ島とか」
瀬戸内海に浮かぶ、うさぎ島こと、大久野島には、本当にうさぎがいっぱいだ。
そこはちょっといいかも、と思ったが、少し気になることがあった。
「あとは――」
待った、とのぞみは手を挙げる。
「あとは、軍艦島か、友ヶ島でしょう」
と言うと、
「何故わかった……」
と言われる。
どれも有名な廃墟スポットだからだ。
好きなんだな、そういうの……。
「じゃあ、静岡に行こう。
吊り橋を渡りに」
と京平は突然言い出す。
「いや、貴方も私も高いとこ苦手なのに、どうしたいんですか……」
っていうか、何処も遠いんだが。
日帰りとか、どんな弾丸ツアーだ。
ムードもへったくれもなさそうだが、と思いながら、失礼します、と勝手に話を打ち切り、部屋を出た。