コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「なに溜息ついてんだ」
秘書室に戻って帰り支度をしていると、祐人にそう訊かれた。
「いや、専務が廃墟ツアーに行こうとするので。
それが嫌なら、吊り橋だそうです」
とのぞみが言うと、祐人は笑う。
「可愛いな、専務は。
何処も吊り橋効果を狙って選んだんじゃないのか?」
「いや……前半の廃墟ツアーは、とっても趣味の匂いがします」
廃墟ツアーか、と興味を抱いたように祐人は呟く。
「何処行くんだ?」
「猿島とか、うさぎ島とか」
「猿島か。
いいな。
木々に覆い隠された要塞の島だな」
問題はそこですよ、と思う。
何故、二人での初めてのお出かけが、要塞の島?
あの人、ちょっとずれている、と思っていると、
「でも、あの島、確か、愛のトンネルとかいうのがあるらしいぞ。
薄暗くて怖いから、中に入ると自然に手をつないでしまうらしい」
と祐人が言い出した。
「よくご存知ですね」
とのぞみが言うと、
「昔、どっかの誰かに一緒に行かないかって言われた」
と言う。
へえー、とのぞみが頷いたとき、後ろで、どっかの誰かが、
「私よ」
と言った。
振り向くと、万美子が立っている。
「お疲れ様」
と冷ややかに祐人を見て行ってしまった。
「そうか、お前か」
と祐人は笑って、万美子の背に向かい言っていたが。
……振り向き様に、斜めに叩き斬ってきそうな感じなんですが。
御堂さん、意外と気配を感じない人ですね、とのぞみの方が怯える。
しかし、どっかの誰かはないでしょう、と思ったのだが。
誰が言ったのかわからないよう、万美子に気を使ってそう言……
……いそうにはない人だな、と一緒に帰り支度を始める祐人を眺める。
本当に忘れていたのだろう。
男の人って、無神経だよなあ、とのぞみは思う。
まあ、向こうから見たら、こっちも無神経なところがあるのだろうが。
「ところで、お前、今日、図書館行くか?」
「いや……行きません」
どういう流れで言ってんですか、それは、と思う。
私にキスして、専務を怒らせたばかりなのに、図書館に誘うとは。
まあ、この人の中では、私は物の数に入ってないんだろうな、と思いながら、のぞみは
「では、失礼します」
と挨拶した。
「もう帰るのか」
と祐人が訊いてくる。
はい、と頷くと、ファイルを重ねて置きながら、ひとつ溜息をついた祐人は、
「疲れてるんで、なにか小話でもしてけ」
と言い出した。
「いや、なんでですか。
私、御堂さんに小話などしたことないと思うんですが」
「昼間してたじゃないか。
猫にひかれた女の話を」
「あれ、小話じゃないですからね……」
「疲れてるときに、お前のしょうもない話を聞くと、ちょっとホッとするんだよ」
と祐人は言う。
しょうもない話とか言われると、話す気が失せるではないですか、と思いながらも、のぞみは言った。
「そうですねー。
うち、まだファンヒーター、朝とかつけてるんですけど。
子どもの頃、ファンヒーターって、ときどき、お礼を言うなあって思ってたんですよ。
サンキューって。
でも、大人になって、よく見たら、『E9』でした」
ファンヒーターにぶつかったりして、止まると、エラーコードが表示されるのだ。
だが、子どもののぞみは、何故か、それを『39』だと信じて疑わなかった。
そもそも、39であって、サンキューではなかったのだが。
子どもの頃、一度、そうだと思い込んだら、大人になっても、なかなか疑ってみないものだ。
結構、大きくなっても、サンキューだと信じていた。
そこで、のぞみが祐人の顔を見、
「御堂さんって、感情表現が豊かですよね」
と言うと、祐人は、
「初めて言われたが……」
と言う。
「目にこのボケがと書いてあります」
「わかってるなら、もう帰れ」
と言う祐人に、
いや……貴方が言えと言ったんですよね……、と思いながらも、のぞみは、
「失礼します」
と言って、さっさと秘書室を出た。
これ以上、難癖つけられてはかなわないと思ったからだ。
のぞみが廊下に出ると、万美子が待っていた。
壁に背を預けて立つ、眼光鋭いその姿に、
ひ~っ。
まるで、ヤンキーの人に待ち伏せされてるみたいだーっ、と思うと、
「あんた、今、まるで、ヤンキーに待ち伏せされてるみたいだって思ったでしょ?」
と万美子が言ってくる。
「……万美子さんは人の心を読めるのですか?」
「その一言で、すべて白状してるようなもんだけど。
あんた、今、祐人となにか約束した?」
「してません。
私はちょっと一人で本屋さんに行くので」
と言うと、あら、そうなの、と言う。
いや、あの調子だと、確実に専務に旅行に連れてかれるな、と思ったので、せめて旅行先を調べておこうと思ったのだ。
ネットで調べるのもいいが、本の匂いを嗅ぎながら、旅先の風景を眺めるのもいい。
「でも、どっか誘われてたでしょ」
と突っ込んで訊いてくる万美子に、
「図書館ですよ」
と言うと、図書館っ、と万美子は声を上げる。
「なによそれ~っ。
学生の恋愛みたいじゃない。
いいなあ。
私も祐人に図書館に誘われたい~っ」
「じゃあ、今からご自分で誘ってみられてはいかがですか?」
と言うと、
「でも、もう帰る感じで出て来ちゃったしな~」
と秘書室を振り返りながら、迷う万美子を可愛いなと思って眺めていたのだが。
「お疲れさまです」
と営業のイケメンのお兄さんが側を通りかかった途端、万美子は急にいい女の顔になり、
「お疲れさまです」
と彼に微笑みかける。
営業さんが通り過ぎたあとで、
「……その二重人格がまずいんじゃないですかね?」
と呟くと、
「なんなのよ。
いいじゃないのよ。
祐人が駄目だったときの保険もいるでしょう~っ」
と万美子は言う。
そういえば、二人の仲が上手くいかなかったときの保険とか、なんにも考えてなさそうだな、あの人。
仕事では慎重なのにな、とのぞみは京平を思い浮かべた。
書店で雑誌を二冊買ったあと、駐車場に行こうとしたのぞみは、ん? と思って、振り返る。
人の気配を感じたのだ。
誰か私の後をつけているような……。
だが、それらしき人影はない。
みな脇目も振らずに歩いている人ばかりだ。
気のせいかなあ、と小首を傾げて、のぞみは車に乗った。
『今日は、夜は会えなかったが、なにか変わったことはなかったか』
夜、電話してきた京平に、
「ありません」
とのぞみは答える。
毒ガスの島と吊り橋に詳しくなったくらいですよ、と手許の旅行雑誌を見ながら思った。
うさぎ島は、別名毒ガスの島と呼ばれている。
昔、日本軍が毒ガスを製造していたせいで、地図から消されていた島だったからだ。
でも、今は、うさぎでいっぱいの島だ。
もふもふのうさぎが気がついたら、足許にすすすっと寄って来ていたりするらしい。
ちょっといいかも、と思い始めていた。
だが、それらの雑誌の下にある書店の袋を眺めていて、思い出した。
「そういえば、今日……」
そう言いかけ、
「ああ、いえ、なんでもありません」
とのぞみは言う。
誰かが自分をつけていた気がしたが、まあ、気のせいだろう。
そう思ったからだ。