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Side佐久間
「せっかく空き時間なんだから、何か楽しいことしようよ。動画でも撮って配信とかどう?」
「……俺は別に、静かにしてたいかな」
昼休みの教室。
俺のとなりの席で、阿部ちゃんがペットボトルのお茶を一口飲みながら、いつものテンションでサラッと断ってきた。
「えー。面白そうじゃん? どうせならみんなで盛り上がりたいし」
「盛り上がるのは否定しないけどさ、わざわざ騒ぐ必要はなくない?」
うわ、きた。ザ・冷静理論派。
俺の中でちょっとした熱が、じわじわ膨らんでいくのがわかる。
「でもさ、もっとこう……青春って感じのことしたくない?」
「静かでも青春はできるよ。っていうか、騒がしくすることが青春って定義、誰が決めたの?」
「……屁理屈じゃん」
「理屈だよ」
バチバチ。
でも。
俺ら、こういうの、よくある。
だからってケンカになるわけじゃない。
言い合ったあとで、阿部ちゃんは絶対に俺を置いていかないし、俺も結局、となりの席に戻ってる。
案の定、数分後には二人して机をくっつけて、おにぎりを半分こしてた。
「この梅、しょっぱくない?」
「それ昨日の夜、母さんが漬けたやつ。効いてるでしょ?」
「……阿部ちゃんの母、すげえな」
「知ってる」
顔も見ずに、でもちゃんと噛み合ってるやりとり。
もしかして、これが俺たちの“ちょうどいい距離感”なのかも、って思う。
派手じゃない。わかり合えたような、そうでもないような。
でも──嫌じゃない。
だから、たぶん俺は今日も阿部ちゃんの隣にいる。
めんどくさくても、静かでも。
この人と話してる時間だけは、どうしても手放せないんだよな。
それはたぶん──俺たちが、もう付き合ってるからなんだけど。
もうすぐ二年目。
それでも、阿部ちゃんとこうやって机並べて、おにぎり分け合ってる時間は、たまらなく好きだ。
「なあ、あべちゃ〜ん」
「……何その甘えた声」
「たまにはさ、ぎゅってしてくんない?」
「教室で?」
「いいじゃん。誰も見てないし、いや見てても別にもうよくない?」
「だめ。……あとでな」
にやりと笑って、俺の肩を軽く小突いてくる。
も〜〜〜〜〜〜!!!
ほんとずるい。
そういうとこだよな、惚れ直すの。
そっと机に腕を置いて、指先が触れるくらいの距離を探す。
ちょっとだけ触れて、ちょっとだけ甘える。
「なんか……やっぱここが落ち着くんだよね」
「なに、俺のとなりが?」
「うん。てか阿部ちゃんが、かな」
そういうと、阿部ちゃんはわざとらしくお茶を飲んで、ごまかすみたいに視線を逸らした。
たぶんちょっとだけ、照れてる。
──それが、なんかもう、めちゃくちゃ嬉しくて。
派手なことはなくたっていい。
やっぱ俺はここにいるのがいちばん落ち着くし、
ここが、俺の“好き”の中心なんだって、毎日思う。
どれだけすれ違っても、喧嘩したとしても、
結局、俺はこの人の隣に戻ってきちゃうんだよな。
──そしてその度に、阿部ちゃんもちゃんと、いてくれる。
だから、今の俺はすげえ幸せだと思うんだ。
―――――――――
「じゃあ今日は……佐久間の好きなアニメ、見てみようかな」
阿部ちゃんは、教科書のページをめくりながらぼそっとそう言った。
「え、ほんと!? マジで!? じゃあ今週の昼休み、視聴覚室予約しとく!!」
「うん、いいよ。……でも、声は抑えてな?」
「任せて!俺、今日だけ音量5の男になるわ!」
冗談まじりにふざけたら、阿部ちゃんは鼻で笑って「その言い回しなに」って呆れ顔だった。
でも、ほんの少しだけ──嬉しそうだった。
いつも“静か”な阿部ちゃんが、俺の“うるさい”趣味に一歩踏み出してくれる。
それだけで、すごく特別なことのように思えて。
*
そして迎えた昼休み。
誰より早く視聴覚室に入って、テレビとBlu-rayプレイヤーの接続確認して、アニメのOPの時間だけ計算して、
“阿部ちゃんが一番食いつきそうな回”をちゃんと選んで──準備は完璧だった。
でも。
チャイムが鳴って10分。
15分。
20分。
……来ない。
スマホを確認しても、LINEは既読にならないまま。
「……まあ、忙しいんだよな、阿部ちゃんって」
つぶやきながら、再生ボタンを押す指をそっと引っ込めた。
画面には、いつものキャラクターたち。
いつも通り、笑って、戦って、泣いて、また笑って。
でも。
今日の俺は、その画面をひとりで見てた。
ひとりで笑って、ひとりでツッコんで、ひとりで……ちょっとだけ、黙ってた。
どうしても、“あの人のとなり”にいることが当たり前になってて。
ほんの少し来ないだけで、こんなにぽっかり空いちゃうんだって、初めて知った。
阿部ちゃんが来ない理由なんて、きっと山ほどあるってわかってる。
宿題の確認かもしれないし、先生に呼ばれたかもしれないし、ただ忘れてるだけかもしれない。
そう、そうだよな。
阿部ちゃん、きっちりしてるようで抜けてるとこあるし。
前もプリント回収のこと、まるっと忘れてたし──
……でも、なんか胸騒ぎがして。
「ちょっと、探してみるか」
リモコンでテレビをオフにして、そっと視聴覚室を出る。
校舎の廊下を歩きながら、つい何度もスマホを確認してしまう。
既読は、つかない。
職員室前。いない。
図書室。いない。
教室。……いない。
ふと、中庭に目をやった。
昼下がりの光の中で、ベンチに座っている後ろ姿がふたつ。
──いた。
あの後ろ姿。あのシルエット。間違いない、阿部ちゃんだ。
隣に座っているのは……女の子。
制服のリボンが風でひるがえって、ちらりと顔が見えた。
見たことのない子だった。
楽しそうに笑ってる。
阿部ちゃんも、穏やかな顔でそれを見てた。
──え?
なんだろう、この感じ。
胸の奥がきゅっと、つかまれたみたいに苦しい。
何を話してるんだろう。
どうして笑ってるんだろう。
俺との約束、忘れてたわけじゃなかったの?
ほんの少し前まで隣にいて、俺のアニメを見るって言ってくれて、
それだけでうれしかったのに。
なんで、今そこにいるのが“俺じゃない”んだろう。
……って、思った瞬間。
自分で驚くくらい、嫉妬してた。
ほんとは信じてるはずなのに。
ただの偶然かもしれないのに。
それでも、俺は目をそらせなかった。
──そのとき、阿部ちゃんがふと顔を上げて、こっちを見た。
目が合った。
一瞬、表情が止まった気がした。
でも、何かを言いに来ることもなく──また、視線は戻ってしまった。
……ああ、やだな。
こんな気持ち、知らなかった。
──結局何もできない。
ただ見てただけ。
目が合ったのに、口を開くことすらできなかった。
“隣にいたのが俺じゃなかった”っていう事実だけが、胸に突き刺さって。
自分でも気づかないうちに、足が勝手に方向を変えていた。
視聴覚室に戻ると、さっきまでのワクワクなんて跡形もなく消えていて。
電源を入れ直す手が、なんだか重たかった。
再生ボタンを押すと、画面にはアニメの後半が映っていた。
たまたま、ランダムで再生された別の回だった。
ちょうどヒロインが泣いてた。
小さな背中で笑おうとして、でも、笑いきれなくて──
「……好きだったよ」って言って、主人公に背を向けていた。
そのあと、主人公は別の女の子を追いかけて行って、
エンドロールが静かに流れた。
「……タイミング、最悪」
画面を見つめながら、苦笑いすらできなかった。
ほんとは俺が隣にいるはずだったのに。
笑ってくれるはずだったのに。
一緒に見ようって、そう言ってくれたのに。
「……バカみたい、俺」
再生中の画面には、誰もいない教室でひとり残されたヒロインが映っていた。
その姿が、今の自分と、妙に重なって。
──気づかないふりをしてたけど。
きっと俺は、ちょっと前からわかってたのかもしれない。
……何かが、変わろうとしてるってことを。
―――――――――
次の日の朝。
教室のドアを開けた瞬間、目が合った。
昨日と同じ、どこまでも落ち着いた阿部ちゃんの目。
「おはよ」
まるで、何もなかったみたいに、いつも通りの声。
「──おはよ」
俺も、反射で返す。
でも、胸の奥がズキンとした。
阿部ちゃんは相変わらずきっちりと制服を整えて、机の上には今日の授業のプリント。
ペン回しをしながら、ちらっとこっちを見て、「今日、昼どうする?」なんて聞いてくる。
……うそ、でしょ。
その口から、“昨日のこと”がひとつも出てこない。
わかってる。
こっちから言わなきゃ、話にならないって。
でも、それでも──
「ねえ、昨日……」
言いかけたところで、喉が詰まった。
阿部ちゃんが「ん?」と小さく首を傾げる。
「……いや、なんでもない。あー、ごめん、眠くて言葉出なかっただけ!」
自分でも笑っちゃうくらい、ヘタなごまかしだった。
ほんとは聞きたかった。
「なんで、来なかったの?」って。
「誰だったの?」って。
でも聞いちゃいけない気がして。
聞いたらたぶん──後悔するって、思った。
だから俺はいつも通りを装った。
くだらない話題を振って、無理にテンション上げて、
阿部ちゃんが笑ってくれたら、それでなんとか保てるようなフリして。
「そういやさ、今日の体育、バスケだっけ? 阿部ちゃん、ちゃんと動ける? 筋肉、化石なんじゃない?」
「それお前、言いすぎな。……でも、準備運動だけはちゃんとしとくわ」
いつも通りのやり取り。
たぶん、阿部ちゃんは本当に“何もなかった”と思ってるのかもしれない。
だけど、俺の中では──
昨日の午後のあの景色が、まだ、心に居座ったままだった。
見なきゃよかった。
気づかなきゃよかった。
でも、見たからこそ、怖くなったんだ。
この人の隣に、ずっといられる保証なんて、どこにもないって。
それを初めてちゃんと意識してしまったから。
俺は今日、やけに明るく笑ってる。
──まるで、何も知らないような顔をして。
昼休み。
俺はなんとなく教室を出て、屋上に行こうとしたそのときだった。
「佐久間」
呼び止められて振り向くと、阿部ちゃんがこっちに歩いてきた。
その手には、紙袋。
「……これ、昨日の。視聴覚室行けなかったお詫びっていうか……ただの差し入れ」
差し出されたのは、コンビニのプリンだった。
「え、……なにこれ」
「プリンだよ。佐久間、好きだったよね? 甘いやつ」
いつも通りの表情。
ちょっとだけ照れてるような、でも淡々とした言い方。
どうしてそんな顔ができるの?
「……昨日、どうして来なかったの?」
本当は言いたかった。
でも、のどの奥に引っかかって出てこなかった。
代わりに出たのは、
「う、うん。ありがとう! プリン、まじで神!!やっば、あべちゃん天才!!」
空元気。
自分でもわかってる。
阿部ちゃんは、俺がはしゃげばいつも通りに笑ってくれる。
それが嬉しいはずなのに、今日はなんか──苦しかった。
“本当に何もなかった”のかもしれない。
“ただの友達”だったのかもしれない。
でも。
“なにも知らない顔”をしてる自分のほうが、ずっと嘘つきみたいだった。
昼休み、ふたりで並んでプリンを食べながら、
話題はくだらない動画の話とか、今朝の先生のネクタイのセンスとか。
笑ってる。
ちゃんと笑ってる。でも、笑うたびに、心がズクズク痛んだ。
──昨日、あの子と、どんな話してたの?
──俺との約束のこと、本当に忘れてた?
──“好きだよ”って、俺はずっと思ってるけど、阿部ちゃんは今も、そう?
そのどれも聞けなくて。
聞いたらきっと、この時間はもう戻らない気がして。
「……ねえ阿部ちゃん、今日さ、放課後どっか寄ってく?」
「……いいよ。佐久間の好きなとこで」
笑ったその声が、すごく優しくて、
でも、だからこそ──信じるのが怖かった。
“優しさ”って、残酷だ。
本当のことが見えなくなるから。
見えないまま、信じたふりして、傷ついていくから。
プリンの甘さが、やけにのどを刺して、
俺は何度も水を飲み込んで、
それでも、心の中の葛藤はどんどん広がっていった。
もう、あの光景を“見なかったこと”にはできない。
でも、今を壊す勇気もない。
俺は今、どこに立ってるんだろう──
そんなふうに思いながら、
阿部ちゃんの隣で、笑っているふりを続けていた。
――――――――
放課後のチャイムが鳴って、教室がざわざわと帰り支度の空気になる。
俺は早めに荷物をまとめて、いつもより少し浮かれた足取りで廊下に出た。
下駄箱の前。
阿部ちゃんとの“帰ろう”って約束が、胸の中であったかく膨らんでいた。
10分待った。
15分待った。
でも、来ない。
俺のスマホには通知はなし。
教室に戻ればいいか。でも、昨日みたいに教室にはもういなかったらどうしよう──
ちょっとだけ不安が顔を出して、俺は足を向ける。
階段をのぼりながら、教室じゃない、図書室かも、とか、職員室かも、とかいろんな可能性を頭に浮かべた。
──そして。
廊下の突き当たり、掲示板前の死角になってるスペースに、ふたりの姿を見つけた。
阿部ちゃん。
そして、あの女の子。
昨日と同じ──笑ってた。
まるで、ここだけ時間が止まってるみたいだった。
阿部ちゃんは、少し困ったように笑いながら、でも拒否する素振りはなくて。
女の子は、阿部ちゃんの腕に触れるくらいの距離で、なにかを話してた。
また、俺じゃなかった。
走った。
もう、見てられなかった。
このままだと、阿部ちゃんに「どういうこと?」って言ってしまいそうで。
本当は聞きたくてたまらないのに、聞いたら崩れてしまう気がして。
階段を駆けおりて、下駄箱まで戻って、壁にもたれて息を吐いた。
はあ……はあ……。
胸が痛いのは、走ったせいじゃない。
“約束”って、なんだったんだろう。
“付き合ってる”って、どこからどこまでを指すんだろう。
こんなに好きなのに。
俺だけが、何かを知らないまま笑ってるみたいで、すごく、すごく苦しい。
息が整わないまま、俺は顔を上げた。
──その時だった。
「佐久間!」
阿部ちゃんの声が聞こえた。
思わず、反射で振り返った。
笑ってる。
さっき見たばかりの、あの笑顔で。
「遅れてごめん、先生に捕まってて──」
──うそだ。
さっき見た。
あの子と、笑ってた。
先生の姿なんて、どこにもなかった。
うそだ……
うそだ、うそだ、うそだ!!!
どうして!?
なんでそんな顔で、そんな声で、嘘をつくの!?
俺、待ってたんだよ。ずっと。
「……ねえ、阿部ちゃん」
喉の奥が焼けるみたいに痛くて、声が勝手に震えてた。
「なんで、そんなウソつくの?」
自分でも、そんなに怒るつもりじゃなかった。
なのに、口が勝手に走ってく。
「俺、あの時見たんだよ。昨日も、今日も、あの子と話してるとこ……!」
声がだんだん大きくなる。
頭の中、ぐちゃぐちゃで何を言ってるか自分でもよくわからない。
「プリンくれた時とか、隣で笑ってくれた時とか……あれって、何だったの!? 俺だけがバカみたいに信じてた!? ずっと……ずっと阿部ちゃんのことばっか考えて、今日だって、また一緒に帰れるって、思ってたのに──!」
阿部ちゃんが何かを言いかけた。
でも、それを聞く余裕なんて、もう残ってなかった。
「もう……いい!!」
声が裏返る。
「阿部ちゃんなんて──大っ嫌い!!!」
走り出した。
わけもわからず、ただ、逃げるように。
靴箱の扉が開いた音も、阿部ちゃんが追ってくる気配も、なにも聞こえなかった。
頭の中で、さっきの笑顔が繰り返される。
嘘ついて笑うなんて、そんなの阿部ちゃんじゃない。
信じたかった。信じたかったのに。
──なんで。
なんで、こんなに苦しいの。
止まった足が、どこかの階段でつまずきそうになる。
息ができない。胸が、痛くてしょうがない。
本当は──
「大っ嫌い」なんかじゃなくて。
「ずっと、ずっと好きだった」だけなのに。
どうして、俺ばっか……。
涙が止まらなかった。
―――――――――
朝のHRが始まる直前、教室の空気がいつもと違っていた。
ガヤガヤしてるのに、どこかざわついてる。
その理由が何かもわからないまま、俺は席に座って、ただぼんやりと窓の外を見ていた。
──昨日のことが、頭の中をぐるぐる回ってた。
言ってしまった。
「大っ嫌い」って。
阿部ちゃんの顔、ちゃんと見ないまま、背中にぶつけるようにして。
本当はちがう。
本当は──あんなこと言いたくなかった。
でも、もう遅い。
そんなふうに後悔で押し潰されそうになっていたときだった。
担任が教室に入ってきて、出席簿を手に一言、口を開いた。
「……あー、みんな。ちょっと静かに。ひとつ伝えておくことがある」
その声で教室が一瞬静まりかえる。
「阿〇〇平くん、今朝、登校中に事故に遭って、入院してます」
──は?
鼓膜が詰まったみたいに、音が遠のいた。
何かの冗談だろ。
笑えないやつ。悪ノリすぎるやつ。
阿部ちゃんが──事故?
「幸い、命に別状はない。でも、頭を打って……一時的に記憶が混乱してるらしい。しばらく学校は休むことになると思う」
……え?
なに、今なんて言った?
記憶?
「記憶が……混乱?」
唇が震えた。
背中が冷たい。手のひらが汗でじっとり濡れてる。
「おい、佐久間くん……」
すぐ隣から、目黒の声がした。
俺の顔を心配そうにのぞき込んでくる。
「……大丈夫か? 顔、真っ青……」
目黒の手が、俺の肩に触れた。
でも、反応できなかった。
何を言えばいいのかも、何を考えたらいいのかも、わからなかった。
昨日のことが、頭の中にこだまする。
「もう……いい!! 阿部ちゃんなんて──大っ嫌い!!!」
──俺の最後の言葉が、それだった。
そのあと、何が起きたのかも知らずに、俺はふてくされて走って逃げて、
阿部ちゃんは、たったひとりで──
息が苦しい。
教室が、遠くなる。
みんなの声も、ノイズみたいに聞こえる。
「佐久間くん……?」
目黒が、もう一度声をかけてくれた。
でも、俺はただ、じっと座ってた。
震える指先を、机の下で握りしめながら。
なにも言えない。
なにも、できない。
この現実が、悪い夢だったらいいのに。
──でもきっと、これは夢なんかじゃなかった。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、俺はカバンを掴んで教室を飛び出した。
周りの声も、目黒の「佐久間くん!どこ行くんだよ!」って叫びも、全部後ろに置いて。
タクシーの中でも、信号待ちでも、胸が苦しくて、何度も息がつまった。
“事故に遭った”
“記憶が混乱してる”
そんなの、ドラマの中の話だと思ってた。
昨日の俺の言葉が、まさか本当に“最後”になるかもしれないなんて──考えもしなかった。
車の窓から夕焼けがにじんで見えた。
涙なんかじゃない、と思いたかった。
「もう……もう“大っ嫌い”なんて言いません。絶対に言わないから……」
神様なんて、信じてなかったのに。
今はただ、祈ることしかできなかった。
「だから……阿部ちゃんを、危ない目にあわせるのだけは、やめてください……お願いします……」
病院に着いて、受付で名前を告げた。
「ご家族の方ですか?」と聞かれて、一瞬言葉が詰まった。
「……ゆ、友人です。だから、会わせてください」
震える声だった。
通されたのは個室。
扉の前で、なぜか足が動かなくなった。
怖い。
でも、会いたかった。
阿部ちゃんの顔を見て、声を聞いて、
あの時「大っ嫌い」なんて言った本当の気持ちを、伝えたかった。
ドアノブに手をかけ、静かに開ける。
──いた。
病室のベッドに、阿部ちゃんが座っていた。
左腕に包帯。頭にも軽くガーゼ。
でも、顔はいつもと変わらなくて──いや、どこか少しだけ、不安そうな瞳をしていた。
「……あべ、ちゃ……」
声にならなかった。
阿部ちゃんが、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「……あの、すみません。どなたですか?」
心臓が、止まりそうになった。
ほんの数秒、時間が止まった。
いや──止まってたのは、俺だけだったのかもしれない。
完全に──“他人を見る目”。
何も言い返せなかった。
頭が真っ白で、口も動かなくて、ただ立ち尽くしていた。
そんな俺のすぐ横を、すっと誰かが通り過ぎていった。
コツ、コツ、と小さな足音。
制服のリボンが、あの日の風の中と同じように揺れていた。
「……あっ」
一歩、二歩。
その女の子は病室のベッドに近づいて、
阿部ちゃんの顔を見て、にっこりと優しく微笑んだ。
「阿部君、私よ。あなたの恋人、安藤咲」
その声は、よく知っていた。
あの日の中庭。
阿部ちゃんの隣で笑っていた、“あの子”だった。
──現実だったんだ。
俺が信じたくなくて目を逸らした、あの時間は。
「心配したよ……! やっと会えた。ねえ、私のこと、思い出せる?」
阿部ちゃんは、目を瞬かせて、少しだけ困ったように笑った。
「……うーん……ごめん、少しだけ……混乱してて」
「大丈夫。無理に思い出さなくていいよ。そばにいるから。ずっと、いるからね」
優しい声音で語りかける彼女の声は、
まるで本物の恋人のように、馴染んでいた。
──違う。
俺の中で、何かが崩れ落ちた。
でも、違うって言えなかった。
言葉が喉の奥でつっかえて、どうしても出てこなかった。
ただ──目の前で、“俺の居場所”が奪われていく音だけが、耳の奥に鳴り響いてた。
阿部ちゃんは、俺を見ない。
あの子は、当然のように“彼女”の顔をして、そこにいる。
──こんなはずじゃ、なかったのに。
昨日まで、笑って隣にいたのは、俺だったのに。
「……佐久間、くん? そろそろ帰ってあげたほうがいいかも。阿部君、ちょっと疲れてるみたいだし」
そう言って、彼女がこちらを見た。
まっすぐな目で、何の曇りもなく。
俺は、何も言えなかった。
言葉一つ発せずに、ただ病室のドアに手をかけた。
──その瞬間、背中が叫んでいた。
ちがう。
俺が“恋人”だった。俺が──俺が、阿部ちゃんの隣だったのに……
でも、振り返れなかった。
足が、勝手に病室の外へと動いていった。
何も守れなかった。
何も、言えなかった。
そして──ほんとうに、すべてが“なかったこと”になっていくような気がした。
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