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慣れない柔らかすぎるベッドの感触に、私は何度も寝返りを打った。
沈み込むような羽毛の感触も、肌を撫でる最高級のシーツの滑らかさも、今までの私の人生には存在しなかったものばかり。
窓から差し込む光は、下界のような温かな黄金色ではない。
魔界の夜明けは、どこか幻想的で、冷たくも美しい淡い紫を帯びていた。
昨夜の出来事は、すべて悪い夢だったのではないか。
本当は今もあの冷たく湿った地下室にいて、これから始まる「生贄の儀式」を待っているだけではないのか。
そんな期待と不安を抱きながら、重い体を起こす。
けれど、視界に飛び込んできたのは、磨き抜かれた大理石の床と細かな彫刻が施された豪奢な調度品。
それは嫌でも、ここが現実であることを私に突きつけていた。
「本当に……魔界に来てしまったのね」
鏡の前に立つと、泣き腫らしたせいで少しだけ目が赤くなっていた
だが、不思議と心は軽かった。
私を蔑み続けた父の視線も、凍えるような屋根裏部屋も、もうここにはないのだ。
コンコン、と控えめなノックの音が静かな部屋に響き、扉が開いた。
「おはようございます、オーロラ様。お目覚めでしょうか?」
入ってきたのは、ふんわりとした丸い耳と、くるくるとした髪を持つ羊人の侍女だった。
彼女は恭しく一礼すると、眩しいほど真っ白なドレスをトレイに載せて歩み寄ってくる。
「ディアヴィル様より、これに着替えて食堂へ向かうようにと仰せつかっております」
「あ……はい。ありがとうございます。こんなに綺麗な服を……」
差し出されたドレスは、これまでのボロ布のような服とは比べものにならないほど美しかった。
袖を通すと、滑らかなシルクの質感が肌に吸い付くように心地よい。
丁寧な手つきで髪を整えてもらいながら、私は「生贄」ではなく「客人」のように扱われている自分に、まだ戸惑いを隠せなかった。
案内されるままに、迷宮のような長い回廊を歩く。
すれ違う魔物たちは一様に足を止め、驚いたように私を見つめた。
大きな牙を持つ戦士や、影のような姿をした者。
けれど、そこには人間たちが話していたような、憎悪や空腹の目色はなかった。
どちらかと言えば「新しい珍しい客人が来た」という、純粋な好奇心のほうが強いように見えた。
やがて辿り着いた巨大な食堂。
天井まで届くほど高い窓からは紫の光が降り注ぎ、その長テーブルの端に、彼はいた。
「……起きたか。顔色は悪くないようだな」
ディアヴィル様は、うず高く積まれた分厚い書類に目を通しながら、横に置かれたコーヒーを口に運んでいた。
角の鋭さや瞳の赤さは昨夜と同じはずなのに、朝の光の中で見る彼は
どこか気品漂う若き王の姿そのもので、昨夜のような暴力的な威圧感は少し和らいでいるように感じられた。
「お、おはようございます、ディアヴィル様。昨夜は、その……ありがとうございました」
「ああ。まずは座れ。魔界の食事もお前の口に合うよう、料理長に工夫させた」
並べられた料理は、下界では見たこともない宝石のような果実や
スパイスの香ばしい匂いを立てる肉料理、そして焼きたての白いパン。
驚くほど豪華な朝食。
恐る恐るパンをちぎり、口に運ぶ。
「ん!……美味しい、です……っ!」
思わず顔が綻ぶ。これほど滋味豊かな食事をしたのは、生まれて初めてだった。
「でも…どうしてこんなに豪華物を?」
「これぐらい普通だ。それに、腹を空かせて倒れられては、寝覚めが悪いからな」
彼は短く答えると、私を真っ直ぐに見据えた。
その視線の強さに、私は思わず背筋を伸ばす。
「昨日の話だが、準備が整い次第、俺の術者に命じて下界の連中からお前の記憶を完全に消去させる。あの村の連中も、二度とお前に干渉することはできん。お前はこの世から一度死に、ここで新しく生まれたのだと思え」
その言葉は、冷たいようでいて、私をこれまでの地獄から完全に切り離してくれる「救い」だった。
「……はい。ありがとうございます。心から……感謝します」
「礼などいい。……それと、早速だが例の件を頼みたい」
ディアヴィル様の赤い瞳が、少しだけ真剣な色を帯びた。