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めんだこ
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宿の廊下は、夜になると途端に音が増える。
階下の酒場の笑い声。食器が重なる乾いた響き。誰かの足音が板を軋ませ、遠くで赤ん坊がぐずる。
生きている音だ。
その生きている音の中で、エドガーの部屋だけが、妙に静かだった。
ダリウスは木のトレーを片手に、扉の前へ立つ。ノックはしない。いまの彼には、ノックひとつが押しつけに思えてしまう。
だから、扉越しに声だけを置く。
「エドガー。飯の時間だぞ。……出てこれるか?」
返事が来るまでの間が長い。
廊下の灯りが揺れた。
やがて、扉の向こうから擦れた声。
「……ありがとうございます……今は……食欲がないんです……」
「……そうか」
それ以上、言えなかった。言えば言うほど、扉が厚くなる気がした。
ダリウスはトレーを床に置き、背中を壁に預ける。
自分の息が、やけに大きく聞こえた。
翌日。
同じ廊下、同じ扉。
ダリウスは昨日より少しだけ明るい声を作った。作れていないのは自分が一番わかる。
「エドガー。飯は食べられそうか?」
「……大丈夫です……」
食べられる、ではない。
大丈夫。
その言葉が、ダリウスの喉に小さな棘を残した。
しばし沈黙。
階下から、笑い声と、グラスがぶつかる音が上がってくる。
その隙間に、か細い声が滑り込んだ。
「……ダリウス……買ってきて欲しいものがあるんです……」
「え?」
扉の下、ほんの少しだけ隙間が空いて、紙切れがすっと差し出された。
ダリウスはしゃがみ込み、それを拾い上げる。
そこに並ぶ文字を見た瞬間、眉が寄った。
「……これを、何に?」
針。糸。布。詰め綿。
生活道具のはずなのに、いまのこの状況だと、妙に決意の匂いがする。
しばらく待って、向こうで小さく息が漏れる気配がした。
「……気晴らし、ですよ」
笑ったのかどうかはわからない。
でも、ほんの一瞬だけ、昔のエドガーの輪郭が声に混ざった気がした。
「……わかった。買ってくる」
ダリウスは答えた。迷いはあった。だが、迷いを見せたら、その糸が切れる気がした。
翌々日。
ダリウスはトレーを扉の前に置く。今日は、ノックもする。
「エドガー。飯を置いておくぞ」
「……ありがとうございます」
短い。ぼそりと落ちる声。
それでも、昨日より現実に近い。
ダリウスはその場を離れ、しばらくして戻ってきた。食器を回収するために。
トレーには、スープの表面がほんの少し乱れていた。パンも、角が欠けている。
一口だけ。
たった一口。
それが、今日のダリウスには、預かったものみたいに重かった。
彼はじっと扉を見つめる。
見つめたところで何も変わらないのに、それでも目を逸らせなかった。
四日目。
さすがに、胸の内側が削れていた。
「エドガー。具合はどうだ? また飯を置いとくからな」
返事がない。
ダリウスはトレーを床に置き、耳を澄ませた。
向こうから聞こえるのは、外の喧騒だけだ。
「……エドガー?」
無音。
心臓が、嫌な跳ね方をした。
ダリウスは扉を叩く。最初は控えめに、次は強く、最後は拳が痛むほどに。
「エドガー! 返事をしてくれ! 頼む!」
返ってこない。
喉が乾く。指先が冷える。
ダリウスは声を荒げた。荒げたくないのに。
「入るぞ!!」
ようやく、向こうで何かが動く気配がした。
そして、か細い声。
「……大丈夫ですよ……」
その大丈夫が、いちばん信用できない声色だった。
ダリウスは唇を噛み、目を細める。
覚悟を決めた目だった。
「……悪い。それでも入る」
ノブを回す。
動かない。
扉の内側に、荷物でも積んでいる。押さえつけている。入れないようにしている。
背筋に汗が走った。
ダリウスは扉を叩く。拳が赤くなる。焦燥が、声を太くする。
「エドガー! どうしたんだ! お前まさか……」
言いかけて、言葉が詰まる。
あの名前。あの死。あの夜の泣き声。記憶が戻った顔。
変なことなんて言葉で括れるか。
それでも、口にせずにはいられない。
「……変なこと考えてないよな?」
少し間があって。
扉の向こうで、笑い声がした。
か細く、乾いて、喉の奥が鳴るだけみたいな笑い。
「……っはは。そうですね……変なことかもしれませんね」
ダリウスは、扉に額を当てた。
木の冷たさが、熱くなった思考を少しだけ戻してくれる。
「……エドガー。おい。頼む」
扉の向こうは静かだった。
生きている音だらけの廊下で、そこだけが冷えている。
五日目。
ダリウスは、いつもの木のトレーを手に廊下を歩いていた。
湯気の立つスープが、ほんの少し揺れる。今日も返事は薄いだろう。そう覚悟して。
「エドガー、飯をもっ——」
言いかけたところで。
ガチャリ、と鍵の音がした。
扉が、内側から開いた。
そこに立っていたのは、別人みたいなエドガーだった。
髪は乱れ、無精髭が伸び、頬はこけ、目の下には影が落ちている。
それなのに、目だけが澄んでいた。
右手には、小さな木箱。
抱える仕草が妙に丁寧で、まるで壊れ物でも入っているみたいだった。
エドガーはダリウスを見上げ、ほんの少しだけ口角を上げる。
笑顔というより、ようやく息が入ったみたいな表情だった。
「……一緒に、ついてきてもらえますか?」
ダリウスは、トレーを持ったまま固まった。
心配の言葉が喉まで出ていたのに、出せない。
「……ああ」
それだけ言って、トレーを床に置いた。
夜の街は、まだ灯りが残っていた。
石畳に落ちるランタンの光が、二人の影を長く伸ばす。
エドガーは早足ではない。けれど迷いもない。まっすぐに、ただ目的地へ向かう歩き方だった。
しばらく歩いて、街外れの小さな墓標の前に辿り着く。
エリーの墓。
土はまだ新しく、掘り返した跡がはっきり残っている。
風が吹くたびに、墓標の脇の草がさらりと揺れた。
ダリウスは、言葉を失ったまま立ち尽くす。
「…………」
エドガーは膝をつき、木箱をそっと地面に置いた。
箱の蓋に指をかける動きが、異様に慎重だった。
カタン、と蓋が開く。
中から出てきたのは、茶色い何かの塊だった。
ダリウスが、思わず聞く。
「……それは?」
エドガーは、何かの塊を胸に抱えたまま、頷いた。
「……ふふ。魔法を使わずに、手で作ってみたんです」
声が静かだった。泣き声でも、怒りでもない。
ただ、折れない芯がそこにある声。
「……そうじゃないと、いけない気がして」
エドガーはそれを撫でる。撫で方が、驚くほど優しい。
「……クマのぬいぐるみです」
それはぬいぐるみ、というには歪で。
目の位置はずれていて、片耳は途中で折れ曲がり、腹は綿が足りないのかぶかぶかしている。
それでも、抱き上げた瞬間だけは、確かにクマに見えた。見えてしまった。
ダリウスの視線が、自然とエドガーの指へ落ちた。
針で刺した跡。瘡蓋。乾いた血。
手先がぼろぼろで、痛みを隠す気もない。
気晴らし。
あの言葉が、今になって別の意味を持って刺さる。
エドガーは、墓標を見上げた。
「エリーは……クマが好きで」
その名前を言うとき、エドガーの喉が小さく震えた。
言葉がほどけそうになるのを、必死に繋いでいるみたいだった。
「クマのハンカチとか、エプロンとか……いろいろ持ってたんです」
ダリウスは、困惑と理解の間で息を飲む。
「お前……それを……」
「はい」
エドガーは短く答えた。
説明じゃない。宣言だった。
そして、クマをそっと墓の前に置く。
丁寧に、土に沈まない位置を探して、角度を直して。
まるで、そこに座らせるみたいに。
その仕草が、あまりにも不器用で、あまりにも真っ直ぐで。
ダリウスは、胸の奥が熱くなって、逆に声が軽くなるのを感じた。
それは、仲間を壊さないための軽さだった。
ダリウスは、クマを覗き込み、少しだけ笑う。
「……可愛らしいエルフだったんだな」
エドガーは一瞬ぽかんとして、次の瞬間、吹き出した。
「ぷっ……そうですね……」
笑いながら、でも目の端が濡れている。
その濡れたままの声で、エドガーは続けた。
「……とても可愛らしくて。食い意地が張っていて。ちょっと意地悪で……」
言葉を重ねるほど、そこに誰かが輪郭を持って立ち上がってくる。
忘れたくないのに、忘れられてしまった人。
それでも、取り戻した人。
エドガーは遠くを見つめ、夜風に目を細めた。
「……そして、寂しがりやな……そんなエルフでしたよ」
墓標の前に置かれた不格好なクマが、月明かりを浴びていた。
不格好なのに、どこか誇らしげに見えた。
エドガーはダリウスを見て、にっこり微笑む。
やり切った笑顔じゃない。
これからも背負って歩くと決めた人の、静かな笑顔だった。
ダリウスも頷く。
「……そうか」
月が明るい夜だった。
夜風が、二人の間を通り抜けていった。