物心ついた時から僕は終わることの無い夜の中にいた。どうして僕だけ、なんて考える暇もなく、只只檻の向こうで楽しそうにはしゃぐ同じ年頃の子供たちを見ていた。羨ましい、だなんて考えはしない。生まれた時から僕にとってはこれが「普通」で「日常」でしかない。でも、殴られようが蹴られようが釘で刺されようが僕は耐えてきた。それも全部、生き残るために。別にあの子たちのように贔屓されたいだなんて思ってはいない。僕はただ、粗末でも僅かでもいいからご飯にありつけて、寝床があればよかった。それだけで、よかったのに。
理解が追いつかなかった。大人達は食料が足りないから、などと言っていたような気がする。あの頃の僕には追い出されたことが衝撃で、あんまり記憶に残っていない。見上げればいつも見ていた天井ではなく、無限に広がる暗闇があって。嗚呼、外の世界ってこんなに広いものなのか、だなんて場違いな事を考えていた。真夜中に叩き起されて追い出されたものだから、とりあえず夜が明けるまで何もすることはない。
どうしようかと悩んでいた時、ふとお仕置中に聞こえてきた子供たちの会話を思い出した。なんて言ってたっけ…、と記憶を漁る。
ああそう、「そら」だ。夜、というのは知っていた。四六時中僕を取り巻いていたものだから。朝、というのも知っている。また終わらない地獄が始まる合図だから。その子たちによると、「そら」というものは何処までも無限に広がっているものらしい。確か上にあるものだったかな。なんといっても、「そら」の凄さはその色にあるそうだ。言葉では言い表せないほどの透き通った蒼色だと聞いた。孤児院の子供たちは夜になると外には出してもらえないから、「そら」というものは朝が来た後に見られるのだろう。
どうせすることもないのだ、と。僕は適当に歩いてたどり着いた近くの河川敷に座りながらその「そら」とやらを見てみたいと思った。もうすぐ夜が明ける。今まで灰色の世界しか見たことがなかったから余計に「そら」の蒼さに興味が湧いた。僕の視界に少しずつ暖かな光が差す。言い表せないほど美しいものを見れば、僕も少しは生きることに希望を見いだせるのだろうか。眩い光に、視界が白く、白く染まる。堪らず僕はぎゅっと目を瞑った。その間も光は強まっていく。目を閉じていても眩しかった。段々と目が光に慣れていく。嗚呼、ようやく「そら」が見えるのだ。僕は期待に胸を踊らせ、そっと目を開いて、天を仰いだ。忌々しい色を帯びた僕の瞳に映ったのは。
何処までも無限に広がる
僕はただ呆然とした。だって、話と違うじゃないか。「そら」はとても綺麗な蒼色なんでしょう?だけど僕の眼前に広がるのは果てしない灰色だ。何度見ても、目を擦ってみても、頬をつねってみても、変わらない灰色。どうして、どうして僕にはその美しい蒼色とやらを見せてはくれないのだろうか。僕には生きる希望さえ与えてはいけないというのか。ぐるぐると回らない頭で考え続ける。突然横から鈴を転がしたような笑い声が聞こえた。
「パパ、見てすごく綺麗だよ!」
「嗚呼、本当だね。とても綺麗な夜明けだ。ほら、父さんの言った通り早起きしてよかっただろう?」
「うん、ありがとうパパ!」
「それにしても、今日は晴れてよかったなぁ。見てご覧。とても綺麗な
僕の口から、は、と声にならない音が漏れた。何を言っているんだ、この親子は。どこをどう見たって灰色じゃないか。僕はさらに混乱した。父親の方を見ても、その口ぶりや仕草から嘘をついている様子はない。女の子の方も父親の言葉に特に疑問は持たなかったようだ。きっとそらが蒼いのは本当なのだろう。なら何故僕には灰色に見えるのか。僕はそらを睨みあげた。何か手がかりはないか、血眼になって探す。そらに何も原因がなければ、多分僕の方がおかしいのだろう。病気にでもかかってしまったのかな…、と不安が胸をよぎる。どのくらい見ていたのだろう。親子がいなくなっても僕はそらを見続けた。そして、気づいた。
そらが蒼いのだ。
確かにそらは蒼かった。
だけど何故灰色に見えたのか。
遅れて頭が理解する。
そらが灰色なわけではない。
鮮やかに見えなかっただけなのだ。
僕には鮮やかに見えなくって、色を失って見えたのだ。
そらが灰色なわけではない。
胸につっかえていたものが、すとんと落ちた気がした。嗚呼、そうか、と。全てを理解する。
「孤児院が灰色だったのは、僕が灰色だったからか。」
ぼそりと呟いた言葉は、僕の足元へ射し込んだ朝日と共に清らかな流れへとこぼれ落ちた。その朝日すらも、僕には色を失って見える。僕は堪らず、そっと目を閉じた。僕の中には、もう何も残ってはいなかった。そうして僕は、孤児院から解放されたとしても僕を取り巻く夜が明けることはないことを身をもって思い知った。
それから虎に追われて、命からがらまた河川敷に戻ってきたとき。
僕は
太宰さんと出会った。
「ねえ、太宰さん。」
「どうしたんだい?」
「………どこにも、行かないでくださいね。」
「……君が何を恐れているのかは知らないけれど、私はどこにも行かないよ。そんなに不安なら、指切りをしようか。」
君の世界が色付いたとき、いつか必ず光が満ちるこの街を、君と一緒に歩こう。
あなたはそう約束してくれたっけ。
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