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篝火

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最初に思ったのは
『陸はこんなにも騒がしいのか』
ということだった。
人の声、 足音、 風の音。
全部がはっきりしすぎていて
息が詰まりそうになる。
海とは違う。
何もかもが近くて、逃げ場がない。
「ほら、ここだ」
彼の声が、すぐ隣で響く。
振り返ると、扉が開かれていた。
中は、暖かい空気に満ちている。
「とりあえず、しばらくここにいろ」
短く言って、彼は先に入っていく。
迷う暇なんてなかった。
置いていかれるのが怖くて
すぐに、その背中を追う。
それからの日々は
不思議なくらい、穏やかだった。
彼は多くを聞かなかった。
名前も、出身も、理由も。
ただ「喋れない奴」として、そこに置いた。
それだけだった。
優しいのか、冷たいのか わからない。
でも
そばにいられることが、何よりも大切だった。
「……」
朝。
窓から差し込む光に目を細める。
海とは違う、まっすぐな光。
隣には――いない。
彼は、いつも先に起きている。
それが少しだけ、寂しいと思ってしまう。
足を下ろす。
「――っ」
痛い。
慣れることなんてなかった。
一歩ごとに、骨が軋む。
それでも、歩く。
彼のいる方へ。
それだけで、進める気がした。
「起きたか」
居間に入ると、彼がいた。
椅子に座って、何かを読んでいる。
その横顔に、胸が締め付けられる。
「……」
声は出ない。
わかっているのに、呼びたくなる。
名前を。 呼べない名前を。
「飯、食うか」
顔を上げて、そう言う。
頷くと、彼は少しだけ口元を緩めた。
その小さな変化だけで 嬉しいと 思ってしまう。
こんなにも。
けれど
それは、長くは続かなかった。
「――殿下」
聞き慣れない声が、部屋に響く。
扉の向こう。
誰かが来ている。
「入れ」
彼が答える。
開いた扉の向こうにいたのは――
ひとりの男だった。
整った服。
落ち着いた佇まい。
そして
彼を見る目。
「無事で何よりです」
安堵したように、微笑む。
その表情に
胸の奥が、ざわついた。
「大げさだな」
彼は軽く笑う。
「少し船が壊れただけだ」
「“少し”ではありません」
男はため息をつく。
でも、その声にはどこか優しさがあった。
「……で、その方は?」
視線が、こちらに向く。
少しだけ、身がすくむ。
「浜で拾った」
彼は、簡単に言った。
「喋れないらしい」
「……そうですか」
男は、しばらくこちらを見ていた。
値踏みするような、静かな視線。
居場所が、少しだけ揺らぐ。
「身元も不明の者を置いておくのは、あまり感心しませんが」
「別にいいだろ」
彼は、あっさりと返す。
「困ってるみたいだしな」
その言葉に
胸が、少しだけ温かくなる。
でも
「……あなたは、相変わらずですね」
男が、微笑む。
その距離感、 その言葉。
明らかに――
“近い”。
自分よりも、ずっと。
「婚約の件もあります。あまり軽率な行 動は ――」
その言葉で
世界が、止まった。
こん、やく。
理解するまでに、少し時間がかかった。
「……わかってる」
彼は、少しだけ顔をしかめた。
「だからこそ、面倒なんだよ」
軽く言う。
けれど、その言葉の中に
確かな“現実”があった。
胸が、ゆっくりと沈んでいく。
その日から。
世界は、少しずつ変わっていった。
彼は、忙しくなった。 来客が増えた。
あの男も、頻繁に訪れるようになった。
話す時間が、減っていく。
隣に座ることも、少なくなる。
それでも、 同じ屋根の下にいるだけで
満足しなければいけないと、思った。
「……」
夜。
ひとりで、部屋にいる。
静かだ。
なのに、 海の静けさとは、まるで違う。
胸の中が、うるさい。
苦しい、 どうして…
こんなに、痛いんだろう。
声があれば、何か言えただろうか。
引き止められただろうか。
名前を呼べただろうか。
きっと――
変わらなかった。
「……」
わかっている。 最初から。
選ばれるはずがないことくらい。
それでも――
期待してしまった。
少しでも
特別になれるかもしれないと。
廊下から、声が聞こえた。
彼と――あの男の声。
無意識に、足が動く。
痛みも忘れて、近づいてしまう。
「……婚約者が来る」
彼の声。
「正式に、日取りも決まるだろう」
心臓が、強く打つ。
「断る気は?」
男の問い。
短い沈黙。
その後で
「……ないな」
あっさりとした答え。
世界が、音を失った。
「立場がある」
淡々とした声。
「それに、悪い話でもない」
その通りだと思う。
全部、正しい。
正しいからこそ―― 何も言えない。
「……」
口を開く。
やっぱり、何も出ない。
声がない、 伝えられない。
止められない。
ただ――
そこに立ち尽くすことしかできなかった。
その夜。
初めて――
海に帰りたいと、思った。
でも、 帰れない。
もう―― 戻れない。
声を失ってまで来た場所で。
何も得られないまま。
それでも、 離れられない。
「……」
名前を呼びたい。
ただそれだけなのに――
それすら、叶わない。
――恋は、こんなにも 残酷なものだった。