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端から隼士と対立して朝陽を取り合うつもりなどないといった様子の光太が、今度はこちらに決断を迫ってくる。と、不意に朝陽を抱き締める隼士の身体が強張った。
まるで裁判の判決が出る直前のような、そんな緊張が伝わって来る。
「俺は……その……」
当然、即答できるはずがなかった。
隼士の覚悟を聞いた今でも、先程光太に述べた不安は消えていないからだ。
俯き迷っていると、不意に抱擁が解かれた。
向き合い、一直線の目を向けられる。
「恋人の話は光太さんに促されて言ったように聞こえるかもしれないが、本当は少し前からずっと考えていたことだ」
「え……?」
「もし恋人が見つかったら、朝陽との関係が変わるかもしれない。そう思ったら途轍もなく嫌で、もういっそのこと恋人なんて見つからなくてもいいと考えるようになった」
まさか恋人探しの裏でそんなことを考えていたなど、知る由もなかった朝陽は、ただただ目を丸くすることしかできない。
「なぁ……俺とじゃ駄目か? 絶対に苦労もさせないし、悲しませたりもしないから、俺と一緒に生きてくれないか?」
大きく、温かな手で優しく頬を撫でられる。
「好きだ」
正直、告白を受けた直後にあったのは、言葉では言い表せないほどの感喜だった。隼士ほどの男にこれほどまでの想いを告げられ、嬉しく思わない人間はいないだろう。
「隼……士……」
それなのに――――どうしてももう一歩が踏み出せない。
「だ、めだよ……だって隼士は、裁判官になるんだろ? そんな人間が男とだなんて、周りが認めてくれるはずがない。それに隼士、同窓会の時……男に興味ないって言ってたじゃん」
「ああ、あれか。あれは朝陽が大川達の話を必死に否定していたから、俺と恋人だと見られるのが嫌なんだろうなと思って話を合わせただけだ」
しかし、男に興味がないというのは、その前に『朝陽以外の』という言葉がつくのだとあっさり覆され、脱力しそうになる。
「あと、周りがどうこうという話だが、そんなのは関係ない。文句があるなら、勝手に言わせておけばいいだけのことだ」
「け、けど仕事場で嫌味を言われ続けたら嫌になるだろ? せっかく裁判官になれても、謂われのない差別に遭うかもしれないし……」
「その差別が法に触れるものなら、真っ向から戦えばいい。それとも裁判官になったら、人としての幸せを求めちゃいけなくなるのか?」
考えるまでもないことを問われ、肯定できない朝陽は気まずい顔で目を逸らす。
「そ……んなことはない……けど……」
確かに昨今の時代、他人から受けた精神的苦痛も訴えることができる。隼士の言うように、男同士だからという理由で何かされたら相応の措置を取ればいいだろう。しかし侮辱や罵倒を受ける度に訴訟を起こしていたら、いつしか二人の周囲には誰もいなくなってしまう。そんな結末は、他人の信用を必要とする隼士のような仕事に多大な悪影響を及ぼすだろう。朝陽はそれが怖くて堪らないのに、どうして隼士は理解してくれないのか。そう思い、胸中に靄を抱く。
と、突然両手で頬を包まれた。
「朝陽は、本当に優しいな」
隼士の男らしくも温かな指が、頬を何度も滑る。
「俺の将来を一番に心配して、考えてくれて……本当にありがたいと思ってるし、こんなにも嬉しいことはない。けどな……」
こちらに不安を与えないようにするためか、隼士が柔らかな笑みを浮かべる。
「俺の幸せは、他人の評価で決まるものじゃない。俺自身が決め、守るものだ。だから――――俺の幸せのためにも、朝陽を光太さんや他の人間には渡せない」
もう一度隼士がはっきりと言い切ると、二人の横で状況を静観していた光太が朝陽の顔を見て、フッと笑った。
「これで分かったか? お前が間違ってたところ」
「え……」
今のやりとりの中に、光太の言っていた朝陽の間違いがある。そう言われ、隼士から向けられた言葉を頭の中で辿った。
朝陽のためなら過去を捨てられる。
朝陽のいない未来は想像できない。
幸せは俺自身が決め、守るもの。
「自分で守る……っ!」
隼士の言葉を復唱した瞬間に、フッと答えが降りてきた。
途端にガツンと頭を殴られた気分になる。
そうだ、朝陽が怖いと言って逃げていたのは、自分が壊すかもしれない隼士の未来からではない。周囲からの嘲笑や嫌忌によって隼士の心が変わり、一緒になったことを後悔されることから、だ。
「俺、ずっと酷い思い違いをしてた……?」
これまで隼士のためと言い張っていたが、全て自分のためだった。今さら気づいて恥ずかしくなる。
「やっと気づいたか。ったく二人揃って世話が焼ける奴だな」
鼻で笑いながら、光太が壁にかかっていた自分のコートと鞄を手に取る。
「光太さん?」
「俺、帰るわ。後は二人でじっくり話し合え……――――あ、そうだ」
コートの袖に手を通し終え、玄関へと続く廊下に向かった光太が、途中で何かを思い出す素振りを見せながら止まった。
「間違いに気づいた朝陽に、ご褒美やるよ」
「ご褒美ですか?」
「ああ。……オイ隼士、お前が静香に貰った手作りの菓子だけど、アレ何だった?」
隼士の方を見た光太が、唐突に話を振る。
「あれは、確かマドレーヌでしたが?」
あの日、朝陽が気づいた時には既に隼士の口の中に入ってしまっていたため気づかなかったが、あれはマドレーヌだったのかと朝陽は今更ながらに知る。
「じゃあ次は朝陽。俺がこの前、お前に教えて欲しいって頼んだレシピは?」
今度はこちらに質問が及ぶ。問われたのは同窓会の帰りに、メールで依頼されたレシピのこと。
あれは、と思い出した途端に朝陽は双眸を丸くした。
「マドレー…………へ?」
ちょっと待て。これは一体どういうことだ。
隼士が静香から貰ったものと、朝陽が光太に教えたレシピが奇しくも同じマドレーヌであり、それが朝陽への褒美となるとは。
頭の中で三つを並べて、考える。
まず初めに繋がったのは、マドレーヌだった。今の話を聞くに、恐らく隼士が食べた物は、朝陽のレシピで作られたものだろう。
でも、そのマドレーヌを作って渡したのは、静香で――――。
「あれ……?」
そこまで考えが行き着いたところで、朝陽はおかしなことに気づく。
すぐに隼士に詰め寄った。
「な、隼士、あの時食べたマドレーヌって、静香さんが作った物だって?」
「いや、直接聞いてはいないが、静香から渡されたから、彼女が作ったものだと……」
思い込んでいた、という隼士の言葉で動きを止めていた歯車が一気に動き出す。
「も……しかして、静香さんが隼士に渡したマドレーヌって光太さんが……?」
「そういうこと。隼士が勘違いするぐらい上手く作れたのは、朝陽のレシピのおかげだよ」
光太がしてやったりという顔で、ニカっと笑う。
それはもう、腹が立つ気すら起こらないぐらいのいい笑顔だった。
「じゃあ、愛しの恋人も待ってくれてるだろうし、今度こそ行くわ。……もう大丈夫だろうと思うけど、二度と逃げんなよ? ま、多分隼士からは、逃げらんねぇだろうけど」
何ということだろう。手をヒラヒラ振りながら出ていく光太を見つめていた朝陽は、覚えず天を仰ぎそうになった。
まさか光太が、あんな以前から隼士を試す画策をしていたなんて。
無論、光太は初めからこんな結末を迎えることを意図して組んでいた訳ではないとは思うが、それにしても事が上手く運びすぎている。ということは、ある程度の成功を見越して動いた結果なのだろう。
やはり、頭のいい人間達は侮れない。
「朝陽、どういうことだ? あの菓子は朝陽のレシピで作ったものだったのか?」
まだ完全に読み取れていない隼士が、首を傾げながら尋ねてくる。
もうここまでお膳立てされてしまったら誤魔化すことなどできないし、気づいてしまった間違いもちゃんと訂正しなければならない。
「ん……もう全部話すよ」
覚悟を決めた朝陽は、隼士の袖を掴むと静かな足取りで寝室へと進んだ。