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恵
鬼霧宗作
59
#狂気
「だって、ジョートレーナーさん……」
玲奈は、ジョーの顔をじっと見ていた。
勇信は混乱のあまり、動けなかった。
ジョーはマスクで半分ほど顔を隠してはいるが、目元は出ている。
眉の形や視線の動きが、勇信そのものだった。
「ずっと、マスクをつけたままなので」
玲奈が明るい表情で言った。
その言葉に、ジョーと勇信はようやく呼吸を思い出した。
「……ああ。あれはトレーニング用の低酸素マスクだ」
「それくらいはわかりますよ」
玲奈はすぐに返した。
「私が聞きたいのは、どうしてトレーナーさんがそれをつけていらっしゃるのか、ということです」
「ああ、それはだな……」
「ああ、これはですね……」
勇信とジョーの声が、同時に重なった。
ふたりは一瞬だけ目を合わせ、そのまま黙り込んだ。
「どうしたんですか、トレーナーさん?」
玲奈の視線が、ゆっくりと細くなった。
「いや、来週試合があってな……。あっ、いや、試合がありましてですね。常務のトレーニングをサポートしながら、自分の身体も追い込んでいたところなのです」
無理に声を変え続けているせいで、声が不自然に甲高かった。
「そういうことだ」
勇信は間を埋めるように言葉を継いだ。
「ジョートレーナーは、来月のマーシャルFC30に出場することになっている。対戦相手はダリオン・ドラエフ。ランキング上位の強敵で、バックマウントからのチョークを得意としている。だから俺との練習中でも、自分の調整ができるよう特別に許可している」
玲奈は格闘技にまるで興味がない。
そのことをわかっているからこそ、専門用語を使って回避をはかった。
「そうでしたか。次の試合、ぜひ勝利してくださいね。試合後に、また正式にご挨拶させていただきます」
玲奈は納得したようにうなずいた。
「はい」
ジョーは甲高い声で返事をし、すぐに玲奈へ背を向けた。それからランニングマシンに乗り、慌ててスイッチを入れた。ベルトが動き出すと、ジョーは最高速で走りはじめた。
「それで?」
勇信は玲奈に向き直った。
「許可なく入ってくるほどの急用とは?」
「はい、常務。現在、ほぼすべてのご予定をキャンセルしておりますが、民進党の須藤マサト議員が、どうしても個人的にお話ししたいと、本社にお越しになりました」
「葬儀の際に挨拶は済ませたはずだ」
「須藤議員は、副会長のことをいつも気にかけてくださいました。だからこそ、記憶が薄れる前に、ぜひ常務と思い出を共有しておきたいとおっしゃっています」
須藤議員が兄の葬儀で涙を浮かべていた姿が浮かぶ。
しかし、今は誰にも会いたくなかった。
兄の死がまだ信じられない勇信にとって、兄の話などなおさら聞きたくなかった。
「あと1週間、待ってほしいと伝えてくれ。今はまだ誰とも会う気になれないんだ」
「承知しました」
「明日からは仕事に復帰する。出社もする。ただし当面は、誰も近づけないでくれ。哀悼の言葉も、励ましも、今は聞きたくない」
「……はい」
「強く当たってしまいそうでな」
「……そうでしたか。わかりました」
「ほかに用がないなら、下がってくれ。トレーニングを再開したいんでな。あちらのジョートレーナーは、もう臨戦モードに入っているらしい」
ランニングマシンの上では、ジョーが100メートル走のような速度で走っていた。
「トレーナーさん、かっこいいですね」
「なんだ?」
「かっこいい、と言いました」
「この俺よりいい身体をしていて、さらに俺よりかっこいいと言いたいのか?」
勇信は眉をひそめた。
「ああ、さっきはご挨拶がてら、そう申し上げただけです。一番かっこいいのは、いつでも常務ですよ。ご心配なく」
「ふん」
勇信は鼻を鳴らした。
「あんな奴がいいとはな。魚井秘書のタイプが、これではっきりした」
「話、聞いてましたか?」
玲奈が呆れたように言う。
「とにかく常務。須藤議員には、すぐにご連絡しておきます」
「そうしてくれ。……ああ、それともう1つ」
「はい」
「当面の間、誰も家に入れないよう手配してくれ。秘書も使用人も警備担当も、すべて立ち入り禁止だ」
「承知しました。スタッフ全員に通達しておきます」
「さっきも言ったように、しばらくひとりになりたいんだ。迅速に頼む」
「はい。では、私はこれで失礼いたします」
玲奈は深く頭を下げ、トレーニング室を出ていった。
扉が閉まると、その瞬間にジョーはランニングマシンを止め、低酸素マスクを外して床に投げつけた。
「おい、ニセモノ! ごたごたは後回しだ。一度この状況を整理するぞ」
「たしかに、そのほうがよさそうだな」
勇信はジョーをにらんだ。
「貴様が先に、自分の意見を述べてみろ」
「何よりもまず、俺たちの言動が重なるのをどうにかしたい。非常に面倒だが、意見があるときは手を挙げてから発言する。そうしないと、また同時にしゃべることになるからな」
勇信はすぐに手を挙げた。
「効果があるとは思えないな。どうせふたり同時に手を挙げるだけだ。そのあと、誰が先に話すかをじゃんけんか何かで決めようとする。そして永遠に勝敗がつかないのがオチ」
「なら、同時に手を挙げた場合は、俺が先に話す」
「却下だ。同時に手を挙げた場合は、俺が先だ」
「そうくると終わりがない」
「終わらせたいから、俺を先にしろ」
「……」
ふたりはそのまま黙ってしまった。
ジョーはケージに掛けてあったタオルで汗を拭いた。
それからゆっくりと拳を上げて、勇信へと近づいてくる。
その姿に、勇信はすぐに身がまえた。
「こっちに来るな」
「ひとつ、確認したいことがあってな」
「殴り合いなら、さっき終わったはずだ」
「終わっていない。もしかすると、この忌々しい状況に対する答えが見えるかもしれない」
勇信は危険を察し、バックステップで一歩下がった。
「もう一戦やるつもりか」
「おまえが魚井秘書と話している間、俺は全力で走っていた。当然、かなり疲れている。それでも俺が勝てば、おのずと答えは見えるだろう」
「何がだ」
「それを確かめる」
言葉を終えると同時に、ジョーが踏み込んだ。
左フック。
勇信は反応が遅れた。
頬に衝撃が走り、視界が一瞬ぼやける。
すぐに追撃の手が伸びていた。
勇信はガードを上げ、オープンフィンガーグローブの指を開いてジョーを押し返した。
ジョーがケージの中央まで下がったの見て、勇信は腰を落としタックルを狙った。しかしジョーは素早くサイドへ回り、勇信の手は空を切った。
距離が開き、ふたりは互いにフェイントをかけ合った。
先にジョーのジャブが伸び、勇信の鼻先をかすめた。
勇信が左を返すと、ジョーの鼻先をとらえた。
同じ間合いの同じ軌道で、ジャブの応酬が続く。
隙を見て放ったローキックは、ほぼ同時に互いの太ももへ当たった。
片方が打てば、もう片方も打つ。
片方が避ければ、もう片方も避ける。
まるで、鏡と戦っているようだった。
それでも次第に、ジョーの体力が落ちていくのがわかった。
先ほどまで全力で走っていた影響が、少しずつ動きに出はじめていた。
勇信はその変化を見逃さなかった。
一歩、さらに一歩と、ケージの端へ追い詰める。
ふと、ジョーのガードが下がった。
その時を逃さず、勇信は渾身の右フックを放った。
ドゴッ!
拳の音が響き、衝撃が走った。
倒れたのは、勇信のほうだった。
ジョーのカウンターが、わずかに早かった。
劣勢に見えたその一瞬で、ジョーは勇信の癖を読んでいた。
マットに倒れた勇信は、意識を失った。
「……動きの癖まで、まったく同じ。こいつ、本当にもう1人の俺なのかもしれない」
ジョーは肩で息をしながらペットボトルを拾い、勇信の顔に水を浴びせた。
「げほっ、げほっ……!」
勇信がむせながら目を開けた。
ぼんやりと天井を見つめ、それからジョーに視線を向けた。
「俺は、頭がおかしくなったわけじゃない」
ジョーは言った。
「そしておまえは、整形手術を受けてここに侵入したきたわけでもない」
「……」
「俺とおまえは同一人物だ。吾妻グループの後継者、吾妻勇信。それ以外に考えようがない」
勇信は天井を見つめたまま、黙っていた。
自分が2人いる。
そんな状況を、簡単に認められるはずはない。
しかし否定する材料もなかった。
「兄さんの死と、今のこの状況。色々と重なりすぎて、本当におかしくなりそうだ」
ジョーは息を吐いた。
「だから、今から俺の言うことを聞け」
「手を挙げて発言しろよ」
勇信がぼそりと言った。
「黙って聞け。まず、おまえが先にシャワーを浴びろ。俺はもう少しトレーニングを続ける」
「トレーニング? まだ続けるのか」
「続ける。それと、シャワーが終わったら、今夜の酒を用意しておけ」
「命令するな」
「命令じゃない。分担だ。お互いがやるべきことを決めておけば、行動が重なっていちいち腹を立てることもない」
「なぜ、まだトレーニングを続ける」
勇信はゆっくりと身体を起こした。
「理由はあとで説明する」
ジョーは自分の拳を見た。
「俺がおまえにKO勝ちした理由も含めてな」
勇信は何も言わずに立ち上がった。
足元はまだふらついていた。それでもケージを出て、トレーニングルームの出口へ向かった。
扉が閉まると、ジョーはひとり、ケージの中央に立った。
「さあ、ここからが追い込みだ」
さっとファイティングポーズをとった。
ジョーが繰り出すパンチの音が、静まり返ったトレーニング場に響いた。
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