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「だってジョートレーナーさん……。ずっとマスクをつけたままなので」
魚井玲奈が不審そうな目でジョーを見つめた。
「ああ、あれは低酸素マスクといって、肺機能を強化するためにつけてるんだ」
「それくらいわかってますよ。私が言いたかったのは、低酸素マスクをつけるべきは常務であって、トレーナーさんがどうしてつけてらっしゃるんですか」
「ああ、それはだな……」
「ああ、これはだな……」
勇信とジョーが同時に声を発し、すぐに目を合わせたあと沈黙した。
「どうしたんですか、トレーナーさん?」
「いや、来週試合があってな……。あっ、ええと、試合がありましてですね。常務のトレーニングをサポートしながら、自分も鍛えていたところなのです」
ジョーが甲高い声を維持しながら言った。
「そういうことだ。ジョートレーナーは来月のマーシャルFC30に出場することになっている。対戦相手はダリオン・ムサエフというランキング上位の強敵でな。レッスン中もトレーニングができるよう、特別に許可してあるんだ」
格闘技にまるで興味を持たない魚井玲奈を知っての回避方法だった。
「そうでしたか。次の試合、勝利してくださいね! 試合後にまた正式にご挨拶させていただきます」
「はい~」
ジョーは甲高い声で挨拶を終えると、すぐ魚井玲奈に背を向けた。
ランニングマシンを起動させ、ロールの上をはやい速度で走りはじめた。
「それで? 許可なく入ってくるほどの急用とは?」
「はい、常務。現在ほぼすべての業務をキャンセルしているのですが、民進党の須藤マサト議員が、どうしても個人的に会って話したいと、本社に訪ねてこられました」
「葬儀の際にご挨拶したはずだが」
「須藤議員はずっと副会長を息子のように可愛がり、だからこそ記憶が薄れる前に、ぜひ常務と思い出を共有しておきたいとおっしゃられています」
「あと一週間待ってほしいと伝えてくれないか。今はまだ誰とも会う気になれないんだ」
「はい、承知しました」
「さっきも言ったように、明日からは仕事に復帰する。ただし出社はするが、当面は誰も近づかないよう格別に注意してほしい。哀悼の言葉など聞きたくないんだ。強く当たってしまいそうでな……」
「……はい」
「ほかに用がないなら、トレーニングを再開するから下がってもらえるか。あちらのジョートレーナーは臨戦モードに入っているから、また次に紹介しよう」
ランニングマシンでは、ジョーが100メートル競争ほどの速度で走っている。
「トレーナーさん、かっこいいですね」
「なんだ?」
「かっこいい、と言いました」
「この俺よりいい体をしていて、さらには俺よりかっこいいと言いたいのか?」
「ああ、さっきは、ご挨拶がてらそう言っただけです。一番かっこいいのはいつでも常務ですよ。ご心配なく」
勇信は「ふん」と鼻を鳴らした。
「あんな奴がいいとはな。魚井秘書のタイプがこれではっきりした」
「話、聞いてましたか?」
魚井玲奈がそういうと、勇信は再び「ふん」と鼻を鳴らした。
「常務。とにかく須藤議員にはすぐに連絡しておきますね。では私はこれで失礼いたします」
「ああ、そうだ魚井秘書。あともうひとつ」
「はい」
「当面の間、誰も家に入れないよう手配してくれ。秘書も使用人たちも、誰ひとりとして立ち入れないよう調整しておいてほしい」
「はい。承知しました。スタッフ全員に通達しておきます」
「さっきも言ったように、当分のあいだひとりになりたいんだ。迅速に対応してくれ」
「承知しました。では私はこれで」
魚井玲奈はトレーニング室を出ていった。
須藤丈一郎はすぐにマシンをとめて、低酸素マスクを床に叩きつけた。
「おい、ニセモノ。ゴタゴタは後回しだ。とにかくこのうっとうしい状況を一度整理するぞ」
「たしかにそうしたほうがいいな。貴様が先に、自分の意見を述べてみろ」
「何よりもまず、俺たちの言動が重なるのをどうにかしたい。面倒だが、意見があれば手を挙げて発言するように」
赤の勇信がすぐに手を挙げた。
「そんなものに効果があるのか? 結局ふたり同時に手を挙げるだけで、そのあと誰が発言するかをじゃんけんか何かで決めようとするだろう。そうして永遠に勝敗はつかない。だからもし同時に手を挙がれば、おまえではなく俺が先に話す。これでいいな?」
「ダメだ。同時に手を挙げたら、おまえじゃなく俺が発言権をもたせてもらう」
「それはできない」
「堅物め……。この件だけだぞ、譲ってやるのは」
ジョーがケージに掛けたタオルで汗を拭いた。
それからファイティングポーズをとって、赤の勇信に近づいていく。
「こっちにくるな」
「ひとつ確認したいことがあってな。もしかすると、この忌々しい状況に対する答えが見えるかもしれん」
赤の勇信は危険を察し、バックステップで一歩下がった。
「もう一戦交えようってのか」
「おまえが玲奈と話している間、俺は狂ったように走った。すでに疲れ果てているが、それでもまた俺が勝てば、おのずと答えは出るだろう」
言葉を終えると同時に、ジョーは一気に距離を詰めて左フックを放った。
赤の勇信は奇襲攻撃に反応できず、顔面に被弾した。
視界がぼやけたまま正面を向くと、追撃の手が伸びていた。
ガードを上げて顔を守り、オープンフィンガーグローブの指を開いてジョーを押し返した。
ケージの中央まで押し戻ったジョーに向けてタックルを試みた。
しかしジョーはすばやいステップでサイドに回避した。
一定の距離を保ったまま、互いがフェイントをかけ合った。
先に放ったジョーのジャブが、赤い勇信の鼻先をとらえた。
赤い勇信の左ジャブも、ジョーの鼻先をとらえた。
ジャブの応酬が続く。
隙をついて放ったローキックが、互いの太ももに当たった。
まるで順に打撃練習でもしているように、ひとつが入ればひとつをもらうといった攻防が続いた。
しかし体力に劣るジョーが、次第に劣勢になっていく。
ケージの端まで追い詰めると、赤い勇信は決着をつけようと、渾身のフックを放った。
ドゴッ!
ふたりの勇信に強い衝撃が走り、赤いトレーニングウェアの勇信が気を失って倒れた。
劣勢に立たされていたジョーが、かろうじて立っている。
ケージ内にはジョーの荒い息遣いだけが響いた。
「動きの癖までまったく同じじゃないか。こいつ、本当にもうひとりの俺かも……」
勝利したジョーはペットボトルを拾い、気を失った勇信の顔に水を浴びせかけた。
「げほっげほっ……」
むせながら意識を取り戻した赤い勇信は、ぼんやりと天井を見つめた。
「俺は頭がおかしくなったわけじゃない。しかもおまえは、整形手術を受けた侵入者でもない。
俺とおまえは同一人物。吾妻財閥の後継者……吾妻勇信に間違いない」
「……」
赤の勇信は何も言わず天井を見つめた。
「兄さんの死と、今のこの状況。色々とややこしすぎて、本当におかしくなりそうだ。だから今から俺のいうことをちゃんと聞け」
「手を挙げて発言しろよ」
「黙って聞け。まずおまえが先にシャワーを浴びろ。俺はもう少しトレーニングをしてから戻るから。それとシャワーが終わったら、今夜の酒を準備しておくんだ。
お互いがやるべきことを決めておけば、行動が一致して激怒することもないだろうからな」
「まだトレーニングを続けるつもりか? なぜだ?」
「理由はあとで説明する。俺がおまえにKO勝ちした明白な理由を含めて」
「……」
赤い勇信が立ち上がり、トレーニングルームから出ていった。
「さあ、ここからが追い込みだ」
空気を切り裂くシャドーボクシングの音が、トレーニング場に響き渡った。