テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
土曜の朝、七時四十分。
棚を回る日ではない。それでも、同じ時間に目が覚めた。
紺のワンピースを着た。桐谷家に行った日と同じものだ。自分で買った、クローゼットでいちばんきちんとした服。左手の薬指に、指輪をはめた。九号。合っている。
黒い鞄を開けて、中を確かめた。緑の台帳。封筒。総務部、水瀬、と課長の字で書いてある封筒。手帳は、内ポケット。
玄関で、靴箱の二段目から黒いパンプスを出した。二か月前に、ここが君の段だと言われた段。
専務は、玄関の鏡の前でネクタイを結んでいた。紺のネクタイ。いつものものだ。
結びながら、私の鞄を見た。
「鞄が、重いな」
「はい」
それだけだった。前払いのことも、第七条のことも、どちらも口に出さなかった。昨夜、食卓の上に開いて置いてあった契約書は、朝にはなかった。専務が片づけたのだと思う。何も言わずに。
「出る」
「はい」
二段目に、靴がなくなった。一段目にも。
都心のホテルの宴会場は、天井が高くて、音がよく響いた。桐谷家の応接間と同じだった。
受付で、名簿に名前を書いた。水瀬ひより。専務の隣の欄。
中は、もう人で埋まっていた。親族。取引先。社員。見たことのある顔と、ない顔。名札は印刷のものだった。小森さんの手作りの紙とは、紙の厚さが違う。壁際に、課長と小森さんがいた。小森さんが、小さく手を振って、すぐに下ろした。高梨さんが、専務の斜め後ろに立った。
東雲家の席に、東雲さんがいた。白いドレス。私を見て、うなずいた。それだけで、目をそらさなかった。
入口の近くに、佐伯さんと氷室さんが、並んで立っていた。
佐伯さんは、私の鞄を見た。鞄の口から、緑の表紙が少し見えている。それを見て、佐伯さんは、笑わなかった。
氷室さんは、私を上から下まで、一度見た。二か月前と同じ目だった。
「隣から、動くな」
専務が、言った。前を見たまま。
「動きません」
専務は、私の左手を一度見た。指輪を。見て、何も言わなかった。
壇の上に、社長がいた。飴の器は、見えなかった。開会は、十一時。あと十五分。
社長は、私を見た。専務を見た。それから、私をもう一度見た。
社長が、壇を降りた。
栗色の髪が、人のあいだを抜けて、こちらに来た。
「水瀬さん」
氷室さんの、きれいな笑顔だった。
「社長がお呼びです。控室へ。お一人で」
専務が、半歩、前に出た。
「俺も」
「社長の名で、お一人で、と」
氷室さんは、専務を見なかった。私を見ていた。
社長の名で。この人がその言葉を使うとき、本当に社長が言ったかどうかを、誰も確かめられない。小森さんが、そう言った。
でも、今日は、本当だと思った。壇の上の社長が、こちらを見ていたからだ。
専務が、私を見た。隣から動くな、と言った人の顔で。
私は、鞄の持ち手を、握り直した。
「行きます」
専務の隣を、自分で離れた。
動くな、と言われた隣から。動くか動かないかは、私が決めることだ。二か月前の研修室で、手を出すか出さないかを自分で決めたときと、同じだ。
専務は、止めなかった。止めないで、私の背中を見ている。見られているのが、分かった。
鞄の中で、台帳の角が、腕に当たった。歩くたびに、同じところに。
控室は、宴会場の裏の、小さな部屋だった。
長机が一つ。椅子が二つ。窓はない。
社長は、長机の向こうに座っていた。立たなかった。飴の器が、机の端にある。
机の上に、紙が二枚、表を向けて置いてあった。
一枚目は、手帳の写真。十月六日。私の字。
二枚目は、印刷された文字の紙。頭に、こう書いてあった。
婚約のお知らせ。桐谷奏、東雲紗英。
「座りなさい」
座った。鞄を、膝の上に置いた。重かった。
社長は、飴を一つ、口に入れた。一つ目。
「十二日だ」
「はい」
「今から、親族の前で、奏に聞く。契約か、本物か」
「はい」
「奏が契約だと言えば、二枚目を読む。本物だと言えば、一枚目を破る」
社長は、二枚の紙を見ていた。私を見ていなかった。
「その前に、君に聞こう」
顔を上げた。
「奏に聞く前に、だ。君は、どちらだ」
契約か、本物か。
昨日、東雲さんに聞かれた。好きですか、と。分かりません、と答えた。
今日、聞かれているのは、違うことだった。好きかどうかとは、別のこと。契約か、本物か。私が、どちらとして、あの人の隣に立っているのか。
報酬は、もうない。昨日、消えた。契約の理由は、なくなった。それでも立つと言った。
鞄の中に、台帳がある。私のために持ってきた。
控室の時計の音が、大きかった。
私は、鞄の上の手を、台帳の角のところまで動かした。角が擦れている。六年ぶん。指で、それを確かめた。
社長は、飴を転がして、待っていた。三つ目を取る前に言え、と東雲さんなら言う。二つ目は、まだ取られていない。
口を開けた。
「私は――」
扉が、開いた。
ノックはなかった。
黒いスーツ。紺のネクタイ。専務が、扉の内側に立っていた。
社長が、顔を上げた。私も、振り向いた。
専務は、私を見なかった。社長を見た。
「親父」
声は、大きくなかった。
「俺が、先に答える」
#年の差
当麻月菜
1,226
星キラリ

1,535
#略奪
秘翠ミツキ
1,891
美並ナナ
1,572
コメント
1件
うわあ、ここで「俺が先に答える」か……。もう、心臓がばくばくしてます。 控室での社長との問答、あの静かな飴の転がる音が聞こえるようで。そして「鞄が重いな」からの流れ、一つ一つの動作が全部意味を持ってる感じがたまらない。台帳の角が擦れてる描写で、ひよりさんの6年の時間がぐっときました。続きが気になりすぎます……!