あれからどのくらいの年月が経過したのか?
特別今の生活には不満もないが、学生の時みたいに「選択」の連続で、可能性が無限にあったあの時と違って、毎日が週替わりのルーティーンで変化のない毎日であった。
看護師: 「先生、昨日から胸痛が持続している73歳の男性ですが、・・・」
現在の俺: 「先に心電図をとって。」
あの時の夢は叶い、今は医師になって、病院に勤務している。
今の診療科に特別興味があるわけでもないが、ただ急変に困らないようにと今の診療科を選んだ。
救急医療にも興味があるわけでもなく、昔からのんびりした町医者をするんだろうなあって、始めの頃はそう思っていた。
そこだけが予想された未来ではなかったわけだ。
看護師: 「救急隊からの収容要請です。
93歳、女性、CPAです。
朝、家族が起きたら反応がなく、救急隊到着時もCPAのようです。」
CPAとは心肺停止状態の患者を指すが、こんな救急患者も時々運ばれてくる。
現在の俺: 「挿管の準備と、人工呼吸器、アドレナリンやアトロピンも。」
俺が医師の成りたてのときは70代は高齢者、80代なんてもう、って感じだったが、今は80代は日常茶飯事、90代や間違えれば100歳越えだって救急搬送されてくる。
若いころに勤務した中央病院での救急部に所属することがあったが、その時に教わったことは、病院到着時に心肺再開していないCPA患者は社会復帰は0%で、1例のみ入院後心拍再開したが、植物状態であったということであった。
実際に他院から急性心筋梗塞で心室頻拍で蘇生されて心拍再開し、中央病院に搬送された60代男性の患者は入院後も心室頻拍が数分おきに発生し、そのたびに薬剤や電気ショックをかけ、何とか一命をとりとめて、その後歩行はできるようになったものの、脳の高次機能は障害受けてしまい、外来には理解力低下もあって子供に連れられて外来受診していた。
別の50代女性はやはり心肺停止で搬送、病院到着時には心室細動で電気ショックで正常波形に戻ったものの、意識は回復することなく、1か月後に亡くなられた。
だから本当に以前のように社会復帰ができるような助かる見込みがあるのは、少なくとも病院到着時に心拍再開している必要があるが、それでも半分程度は結局なくなってしまう現状であり、最低でも救急隊が到着する前に周りの人が心臓マッサージを行っているかが、重要だった。
地方ではそんなケースはほとんどないので、病院に運ばれたCPA患者はよくて数日昏睡状態で入院後に亡くなる程度で、社会復帰どころか、植物状態で命だけでも助かることもなかった。
そんなことも世間には知られていないから、病院に到着すると助かるのではないかって思う患者の家族も多く、蘇生しながら家族にはもう救命はできないことを丁寧に説明する、そんなことの繰り返しであった。
実際に心肺停止で、AEDが普及したが、心停止後に1分経過するごとに10%救命率が下がる、つまり5分で五分五分、10分経過すればほぼ救命は不可能であるが、若い人は別として地方では80代、90代の患者では基礎疾患も多く、今まで対応した中で社会復帰したのは1名のみであった。
その患者も救急隊到着時はCPAで、その後AEDで自己心拍開始して、病院に搬送された患者で、病院到着時は昏睡状態であったが、モニター装着してから心室細動となり、電気的除細動を実施、心電図ではST上昇があって急性心筋梗塞の診断で、以前勤務していた中央病院に救急搬送した。
1か月後に俺の外来を受診したときには、植込み型除細動器が体内に入っていたが、歩いて普通に外来受診しており、唯一の社会復帰した症例であった。
そんな理想と現実の違いや限界を感じての日常の外来診療、入院診療、救急対応とこなす毎日であったが、時がたつにつれて、子供の頃には想像できなかった体の不調や体力の低下は日に日に感じる様になり、夜間の当直や呼び出し、救急対応も体にこたえてくるようになった。
周りの先生も同じように1歳ずつ年をとり、仕事を縮小していくのを見ていると、いつまでこのような勤務体制を維持できるのかと、不安にもなってくるようになった。
そんなに献身的な性格でもない私でも、今すぐ医師をやめるわけにもいかないのは、単に正義感や義務感ではなく、あの時の約束や期待をそう簡単に違えるわけにはいかない自分が心の奥底にいることなのかもしれない。
父:「これは捨てていいのか?」
実家にある自分の昔のものを整理、処分していると、あの頃の日記と中学生の時に書いていた、というよりは書かされていた生活日誌が出てきた。
生活日誌は次の日の授業予定や持ち物、その日の時間ごとの過ごし方、その日の出来事を書く、1週間で見開き2ページのノートだった。
ふと読み返すと、その当時付き合っていた女の子の名前が書いてあった。
俺は中学2年生のときにクラス替えをしてその日にその子に一目惚れした。
班長なんかしたことがない俺が立候補して、その女の子を班員に選び、ふとしたことで交際が始まったけど、あまりにも好きすぎて緊張の毎日だったし、ずっこけたことは決してできないし、傷つける一言でその子に嫌われたらどうしようと思って、くだらないことも話することできずにいた。
その上つきあうこと自体が珍しい中学時代、みんなの噂の的となり、普通の会話も一緒にいることもからかいの的になり、それがさらに自分が思ったように行動することができなかった。
ただあの当時の僕はそれでも彼女が隣の席にいること自体で幸せを感じていたし、彼女と目なんかあった日には自分の心臓の暴走を抑えるのに精いっぱいであった。
しかし、そんな僕に嫌気がさしたのであろう、結局ふられてしまった。
それでも交際中は自分なりに頑張っていたつもりだった。
つきあっているときは当然、ふられてからもしばしばその子の存在、彼女との思い出から勇気をもらっていた。
あの中学時代は学力不足だった僕に彼女は医学部に行けるだけの力を与えてくれた。
別々になった高校時代も成績が落ち込んだときもあのときの「約束」が僕を救ってくれた。
そしてその「約束」は今はちょっと違う意味で俺を支えてくれている。
自分一人の実力では無理であり、あの時の彼女のお陰で成し得た今の仕事はまさに彼女への感謝の上に成り立っていた。
それでも一つだけ心残りはあった。
今の生活には何一つ不満もなく幸せだが、そうはいっても、自分の人生を振り返った時に、ふられたあの瞬間、彼女に自分の気持ち、思っていることさえ言えずに、「さよなら」「ありがとう」さえも言えず、別れてしまって事…
そんなこともあり、昔の夢をよく見るようになった。
以前はその彼女がいるクラスでの卒業式や、同窓会などに参加すると。いるとわかっていてもすれ違いで会えないとか、人ごみをかき分けて探している自分がいた。
結局は会えずじまいとか、遠くで見ていて話しかけれない、そんな夢であった。
しかし、最近は妙に積極的な、強引な自分になっていた。
K(僕): 「今いい?」
さっちゃん: 「うん。」
夢の中の彼女は、顔もしぐさも中学生のままだった。
K(僕): 「「あっちに行こう。」」
強引に手を握って引っ張って誰もいない場所に彼女を連れてきていた。
あの時にもできなかったことであった。
夢のなかでも積極的になったなあ、と感じるほどだった。
K(僕): 「「ずっとあれからも好きだったんだ。」」
すっかりあの頃の「僕」ではない、思ったことは何でも言えている俺だった。
成長したのか、それともあの時に何も話せなかった自分に後悔したためなのか、積極的に話をしていた。
そう「告白」した時の彼女は、あの時のままのうつむき加減のはにかみ顔だった。
彼女: 「・・・・」
その他: 「「みんなで写真撮るよ。」
集合写真を撮ることとなり、彼女は呼ばれ、どこかに行ったところで目が覚めた。
起きてから「成長」した自分に感慨深いものを感じた。
そんなある日、彼女の情報を中学時代の同級生であるみきから聞いた。
現在は県外に移住し、結婚して子供がいるようだ。
幸せそうな情報にもっと「ヤキモチ」を抱くかと思ったが、意外にもホッとしていた。
長い年月は人の気持ちを少しは変えるんだと拍子抜けしたり、自分でも不思議な感情であった。
ただどんな女性になっているんだろう。
仕事上、いろいろな臨終の場面に立ち会うと、この先どうなるか分からないし、そんな彼女に会えるうちに会いたい、感謝の気持ちを伝えたい、そう思うようになった。