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大阪万博の年に生まれた僕は、当然万博のことも、その後のオイルショックのことも知らずに、むしろその後に学校の授業やテレビの「昭和を振り返る・・・」で知ったくらいである。
アルバムを見ると、鎌倉の大仏や従兄弟と撮った子供のころの写真も、後から何度も見たので覚えている程度で、はっきりとした記憶にあるのは小学生になってからであった。
そんなわけで就学前は近くの公立幼稚園に入ったわけだが、ほとんど覚えていない。
写真にある遊戯会のパン屋さんの恰好もやっぱりのちに何度も見て、こういう格好をしたんだ程度であった。
ただ幼稚園は、「今はやり」の登園拒否をしており、幼稚園の門のそばでずっと母親が迎えに来るのを待っていた。
午後になると迎えに来るので、必要に迫られて幼稚園入園してしばらくして、時間という感覚は身につくようになった。
幼稚園のそばにいた見知らぬおじいさんには「時計が理解できる頭のいい子」と呼ばれていたようだが、毎日毎日部屋に入らず、門のそばにいたので担任の幼稚園教諭はさぞかし、面倒くさい子供に映っていたに違いない。
そんな僕も小学1年生になり、地元の公立小学校に入学したわけだが、第二次ベビーブームで、クラスは6クラスあった。
1学年240人前後、小学校なので6年まであるから単純に1000人以上はいたはずで、今では考えられない。
運動会も紅白に別れてではなく、紅組白組以外に、青組、緑組と4色対抗であった。
1年生のときにクラスにかわいい子がいたことは覚えている。
2年生に進級するタイミングで転校していってしまったけど、別に小学1年生の好きな人ってだれもこんな感じであったと思う。
ちなみに「僕」が大学1年生のときに、その子は僕の大学で県下の短大生を集めて美人コンテストをやっていたが、そのコンテストに出ていて、準ミスに選ばれていたから結構当時からかわいかったのは間違いない。
そんな小学1年生であったが、「洗礼」もうけた。
国語ではみんなの前で黒板に「お姉さん」をおねいさんと書いて恥をかいたこと、それと社会のテストで稲の収穫を間違えて、30点を取って両親が焦っていたようだ。
「先生」は「せんせえ」と呼びながら「せんせい」と書くことを忠実に守っていたから、「お姉さん」は例外だとその当時の「僕」には難しかった。
稲の収穫だって家は農家ではないし、家の周りの田んぼは春から冬まで稲みたいなものが植えてあった。
正確には二毛作で秋から小麦が植えてあったけど、小学生の僕にはとても理解できる代物ではなかった。
その時代の男の子にしては、昆虫も含めて動物にも興味がなく、と言って植物にも全く興味がなかった。
そんなわけで勉強は不得意であった。
そんな「僕」を見かねて、学校から帰ると教科書の3回読みをさせられた。
長男である「僕」は反抗もせず、教育ママの隣で毎日その日課を黙ってしていた。
さらに母親に連れられて、塾に通うようになった。
4歳からピアノではなく、エレクトーンの習い事はしていたが、小学生になると当時のはやりの「読み書きそろばん」の習字教室の体験入学をするようになった。
しかし小学生の「僕」はさぞかし、ただ字を書くこと自体が退屈だったのか、契約当日に習字ではなくて、同じ教室でやっていた週1回の習字ではなく、週三回もある珠算教室に入った。
今思えば自分から週三回の習い事をすること自体、愚かな判断をしたと思った。。
エレクトーンが週1回なので、半分以上は習い事を小学1年ですることになってしまった。
それでも「僕」は真面目にやっていたようで、そろばんの珠をはじくのが面白かったのか、検定試験は1回も落ちることなく、1年生の3月には3級に合格した。
全珠連と日珠連があり、その塾は全珠連所属であったので、4級までは自分の塾で掛け算、割り算、見取り算の3種目を受験したが、3級になったとたんに近くの高校の教室が受験会場となり、さらに種目も伝票算、応用問題または暗算の5種目に増えた。
応用問題は複利計算や減価償却の問題など、小学1年生の僕には異次元の世界であり、当然暗算で受験していた。
2年生になると、北小学校ができ、町内北部に住む友達はそちらの小学校にうつり、本校生は2年生になると、4クラスになった。
教育ママの母親からは、教科書の音読以外に、クラスの頭のいいクラスメートの真似をするようにと指示された。
そのクラスメートには、同じ高校に進学したクラスメートやその後に中学生で同じクラスになる同級生ハルもいた。
そうはいっても、小学生なので、真似したから頭がよくなるわけでもなく、小学4年生のときに実施した学力到達テストはいたって普通の児童だった。
ただ悲惨だった1年生のことを考えれば、むしろよく検討した方だと思う。
その要因にそろばんがあったと思う。
そのそろばんは3年生で1級に、5年生で5段に昇格した。
段は平方根や立方根の問題もあるし、6年になると商業高校で高校生に混じって実務検定を受けることもあって、小学1年のときに訳のわからなかった減価償却や複利計算などの応用問題も学ぶことになった。
一方、珠算大会は2年生の珠算大会で初めて県下学年別で1位となった。
そんなこともあり、3年生になると、珠算塾は1部の低学年の部と2部の高学年の部も参加することになったし、4年生になると、その塾のトップチームに配属となった。
5年生の1位の女の子や6年制の1位の女の子と団体戦を組むようになったが、その子たちは同じ塾でも隣町の教室に所属しているので、その塾に行って一緒に練習することになった。
そのため、大会前は日曜日を含めて毎日いろんな教室に移動することになった。
その結果、県下小学生の部の読み上げ暗算は小学4年生の時から3連覇、掛け算・割り算・見取り算・見取り暗算の普通種目は5年生から2連覇、読み上げ算、読み上げ暗算。普通種目の三種目完全優勝は小学6年生の時に達成した。
こんな感じだったので公文式も体験入学したが、計算問題は暗算で全部解いてしまったこともあり、その時の苦悶の先生に入塾を断られた。
計算だけは抜群の自信があり、このころの僕は将来はそろばんの先生になるのかなって思っていた。
親は収入の安定した公務員にさせたかったようだが…。
5年生になると、伊藤という友達ができた。
そいつがとてつもなく博学であった。
将棋はその伊藤には一度も勝てず、休み時間にするクイズは何でも解いてしまうほどの、同じ小学生とは思えないくらいの、まさに天才であった。
初めての「天才」との遭遇で衝撃を受けたことは今も覚えている。
当然例の母親の「指令」でその伊藤が僕の目標になったが、到底かなわないほどの怪物だった。
またニ村という近所の友達もできたが、伊藤、ニ村ともその後、京都大学や慶応大学に進学している。
そんな友達に刺激され、また日本の歴史が社会に登場し、妙に興味を抱き、特に戦国時代を授業中に何回も読んでいて、社会を中心に勉強に興味がわき始めたころだった。
そんな僕に同じクラスになった女の子から告白された。
小学生の告白だから、かわいいものだが、まさに女の子の仲のいい友達っていう感じだった。
その子はよくいう「おませ」なタイプで、みんなの視線にも臆することはなく、よく「僕」にちょっかいを出してきた。
放課後、二村と、その女の子の友達の計4人で、近くの神社に行こうと誘われ、よく遊んだ。
バレンタインデーのチョコというイベントもその子から教わり、修学旅行やスキー教室などのイベントも、普通の授業中でもその女の子がきっかけを作り、ただ僕はそれについていく感じであった。
中学校に進学するにあたり、当然クラス替えもあり、別々のクラスになっても…ということでその子は交換日記をしようと言い出し、別に断るわけでもなく、交換日記を始めた。
こういう状況だと、場慣れしてもいいようだが、全部女の子発信だったから、単に「僕」は追従していたにすぎず、自分発信で何かをすることはできず、当然自分から話をすることはなくても、女の子の方から話しかけてくれた。
それでも小学校を卒業しても、かわいい「交際」が持続したのはその女の子が積極的だったからだった。
中学校はやはり地元の公立中学に入学、小学2年生で分離した北小学校の児童も合流し、1学年270人程度となり、入学と同時にクラス編成があった。
6クラスあり、交換日記をしていた「彼女」の予想通り、別々のクラスとなった。
1/6なので違うクラスになるのは仕方ないことではあった。
最初は交換日記もやっていたが、別のクラスになると話をすることもなく、また僕から何か動くこともなく、その女の子はほかの男の子を好きになったとのことで二人の交際は終了となった。
別れる前の交換日記ではその子は他の男子から「かわいい」って言われたって書いてあったが、そういえば僕は今までそんなことを言ったこともなかった。
まあ、言えるはずもなかったのだが・・・
失恋のショックも多少はあったと思うが、小学校6年生の頃から歴史と得意の計算を中心に勉強するようになり、伊藤やニ村といった頭のいい友達の影響もあって、中学最初の定期テストではクラス5番、学年順位は27番であった。
あの小学校の時の成績からすれば、上出来であった。
そんな時に中学校最初の三者懇談では将来何になるか、という話題になった。
昔から体が弱く、年間を通して皆勤賞なんてとったこともなく、幼稚園の時は月の半分くらい風邪で休んだこともしばしばであった。
インフルエンザのような流行性感冒も毎年冬にはかかり、数日は病欠していたし、小学5年生のときは溶連菌感染で月2回病院で採血したり、体育を数ヶ月休んだりもしていた。
いつも行っていた医院は東大出身の医師で、受診すると見事に数日で症状は改善するわけだが、欠点は非常に混んでおり、だいたい2-3時間くらいは待たなければならなかった。
ただ毎年数回は同じような薬を飲むので、熱が出るとこの薬、咳が出るとこの薬、これは抗生剤と覚えるようになり、病院までいかなくても自分で薬を処方さえできれば、待たずにすぐに治療できるのではないかと考えるようになった。
だから成績が上がったこともあり、初めの三者懇談では軽い気持ちで「医者になる」って言ってみた。
よく病気で苦しんでいる人のために医師になるとか、身内の人が亡くなってその病気を克服したいとか、そんな高貴な考えは持ったことは一切なく、自分の「風邪」のために、それも待ちたくない、病院に行くのが面倒くさいととても他の人には言えないような理由であった。
中学一年の担任の山田先生は、医者になるならもっと勉強しないとだめだと言った。
両親は本気にし、それ以降、しきりに期待してきた。
「僕」もそれなりには勉強していたと思うが、「僕」の1年6組は頭がいい人が多く、結局クラス1番になることはできなかった。
今思うと1年6組には学年トップクラスの女の子がいたわけで、それはクラス1番なんかに到底なれるはずもなかった。