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「痛っ」
大きめのマグカップを抱え、顔をしかめてしまった。
ッたく、1週間も経つのにまだ痛みが消えない。
突然押しかけてきた女にビンタされ、1発目は驚いただけでなんともなかったけれど、2発目は話している途中にいきなりで避けることもできず、口の中を切ってしまった。
その上ビールまで掛けられて、もう最悪。
「口内炎の薬、あるわよ」
母さんの渋い表情。
「うん」
分かってる。
私も不機嫌な返事になってしまう。
昔から、悔しいことがあると唇を噛みしめるのが癖の私だって、薬くらいは常備している。
でもね、いい加減薬には頼りたくない。
いつも無理して、頭痛薬を飲みながら平気な顔をしているとか、努力なんてしていないふりをしながら本当は徹夜で勉強をしているとか、そういう自分からいつか抜け出したい。そう思い続けて、随分時間が経ってしまった。
いつの間にか、何でもできる完璧な青井麗子ができあがっていた。
本当の私は違う。そう叫びたいのに、それでも演じ続ける自分がいる。
フフフ。
まるでピエロね。
自虐的に笑ってしまった。
***
先日お店に駆け込んできて平手を見舞ったのは、バイト先である花屋の店長の彼女。
店長とは何度か飲みに行ったこともあったし、普通にラインも交換している仲のいい知り合い。
それが・・・。
少し前から彼女とうまくいっていないって話は聞いていた。
付き合っていれば喧嘩だってするし倦怠期だってあるんだからと、私は店長を励ました。
間違っても男女の関係になるつもりはない。それは店長も同じだったと思う。
「俺たちダメかもしれない」
週に1度のバイトの終わりに店長が呟いたのを聞き、その声が悲しげで、しかたなく相談に乗るようになった。
オススメのデートコースや、彼女が喜ぶプレゼント。
何よりももっと話し合うべきよとアドバイスもした。
確かに、最近は店長と話す機会は増えていたし、「仲がいいですね」なんてスタッフに言われることも何度か会ったけれど・・・。
まさか、彼女に怒鳴り込まれるなんて。
はあー。
何でいつもこうなるんだろう。
神に誓って、私は何もしていない。
店長のことを男として意識したこともない。
それでも、世の女達は私が悪いって言うのよね。
ちょっとだけやけくそな気分になって、少し冷めたコーヒーを口に運んだ。
***
子供の頃から、「麗子ちゃんは綺麗な子ね」と言われてきた。
客観的に見れば、目鼻立ちのはっきりしたバランスのいい顔だと自分でも思う。
でも、私はこの顔が嫌い。
この顔のせいで、ずっとずっと辛い思いをしてきたんだから。
物心ついたときから、私は母さんと2人暮らし。
ずっと水商売をしてきた母さんは未婚のまま私を産み、1人で私を育ててきた。
私が初めてよそのお家と我が家が違うと気づいたのは、小学校に上がった頃。
遊びに行ったお友達の家のリビングで、偉そうに座っている男の人を見たときだったと思う。
友達はうれしそうに駆け寄り、「パパ」と呼び膝に座った。
それが、私にとっては不思議な光景だった。
ポカンと見ている私を、「おいで」と男の人が手招きし、友達と並べて膝に乗せた。
「君、かわいい子だね」
優しい声が頭上から降ってきても、私は何も答えることができなかった。
家の中に男の人がいるのも変な気分だし、誰かの膝の上にいる自分にも違和感がある。
それでも、この状況を冷静に見ている自分もいて、パパのいる暮らしってこんな感じなのね。なんて思っていた。
その時、
「パパ、何で麗子ちゃんばっかりかわいいって言うのっ」
突然、友達が怒り出した。
小学校に上がったばかりの子供からすれば、当然の嫉妬だったと思う。
「そんなことはないよ」
必死に言い訳するパパだけれど、もう遅い。
怒った友達は泣き出してしまい、私はすぐに自宅へと帰った。
その日から、私はその子に嫌われ、2度と遊びに誘われることはなかった。
***
その後は、無口でおとなしい子と思われながら小学校時代を過ごした。
友達も少なかったし、学校に行くのも好きではなかった。
そんな私を見かねた母さんが、中学は私立の女子校に行かせてくれた。
当時の家庭事情を考えればかなり無理をしてくれたんだろうと思う。
だからこそ、今度こそ友達をたくさん作ろうと私なりに努力した。
人並みにおしゃれもして、部活も軽音部に入り、自分から一生懸命話しかけた。
しかし、その私の行動は裏目に出てしまう。
気を遣ったはずのおしゃれは悪目立ちしてしまい、派手で遊んでいる子ってイメージがついてしまった。
「ねえ君、ちょっと付き合ってよ」なんて、街で声を掛けられることも珍しくなかった。
明るい昼間の人混みなら無視して逃げることもできるけれど、帰り道の裏通りでは何度か危ない目にもあった。
もちろんなんとか逃げ切りはしたけれど、あの時の恐怖は今でも消えない。
結局、中学でも友達はできず、2年の途中から学校で口をきかなくなった。
それなのに、「お高くとまってる」だの、「美人を鼻に掛けている」だのと陰口を言う人は絶えない。
中学時代、この頃が私にとって一番辛かったのかもしれない。
***
学校はエスカレーター式の私立の女子校だったから、そのまま高校大学と進学することもできた。
勉強は嫌いではなかったし学力的には何の問題もなかったが、私はそうしなかった。
とにかく、この場から逃出したくて、通信制の高校を選択。
近くの花屋で働きながら、高校へ進学した。
花屋の仕事は楽しかった。
毎日の水仕事で手が荒れるのも、重たいバケツを運んで腰が痛くなるのも、苦にはならなかった。
何よりも、同世代の子達から離れて、大人の中で過ごす時間は気が楽で、やっと自分で笑えるようになった。
フラワーアレンジも覚えれば奥が深く、自分が作り上げたものを評価される喜びも知った。
このまま花屋でもしようかと本気で考えた時期もあったけれど、私は大学進学を選んだ。
別に学歴にこだわるつもりはない。
このまま花屋になるのもイヤではない。
でも、逃出したまま終わりにしたくなかった。
勉強が好きなのに、友達が嫌いで学校に行かなくなり、自分は何も悪いことはしていないのに、偏見の目から逃出すようにドロップアウトしてしまうことが我慢できなかった。
「私は負けない」
それがその頃の口癖。
4年かけて高校を卒業し、大学入試を受けた。
寝る間も惜しんで勉強し、一流と言われる大学の工学部に入学。
専攻したのは情報工学。コンピューターの世界。
もちろん好きな分野だったし、この世界でなら外見も性別も関係なく、実力でやっていける気がした。
***
大学では友達もできそれなりに楽しく過ごした時期もあった。
けれど、やはり男女関係のゴタゴタに振り回されて、親友と呼べる人には恵まれなかった。
コンパに誘われても人寄せパンダ。
「麗子ちゃんなんて恐れ多いよ」「きっと素敵な彼がいるんだろ」そう言って、誰も本気で私に向き合ってくれる人はいない。
結局誰と付き合うこともなく、私は23歳で社会人となった。
就職先は都内の一流企業。SEとして、勤め始めた。
先輩も同期もみんないい人で、初めのうちは仲良くしていた。
新人歓迎の飲み会や、同期の親睦会も何度かあり、友達もできはじめた。
しかし、やっと仕事に慣れてきた5月の下旬。私の運命が大きく変わり始める。
まずは朝、駅で待っていた同期に
「今度、2人で食事に行こうよ」
と誘われ、
「う、うん」
断るのも申し訳なくてなんとなく答えた。
そして昼休み、隣の部署の先輩から社内メールがきた。
『美味しいイタリアンの店があるんだけれど、付き合ってくれない?』
先輩は2コ上で、女子からも人気のある人。
もし誘いに乗れば、周囲から何を言われるかは想像がつく。
結局、イエスともノートも答えられないまま、返事をしなかった。
そして、最後はその日の定時前、私は直属の上司である課長に呼ばれた。
***
「失礼します」
いつもは打ち合わせに使っている会議室に入ると、すでに課長がいて、その横には入社式で1度だけ見た顔の男性。
えっと、この人は・・・。
「社長秘書の山本です」
私の表情を読んで先に名乗ってくれた。
「青井君、ちょっと座って」
ポカンとしている私に課長が勧めてくれる。
「はい」
「実は、君に異動の話があってね」
「はああ?」
思わず大きな声を出してしまった。
入社して2ヶ月も経たない私に、異動?そんなバカな。
「私、何かしましたでしょうか?」
思い当たることはないけれど、それ以外考えつかない。
「違います。そうではないんです」
社長秘書の山本さんが、身を乗り出してきた。
「これは社長のたっての希望でして、あなたを秘書室に迎えたいんです」
えええー。
絶叫しそうになるのを、必死にこらえた。
嘘、嘘、ありえない。
だって、私は
「驚くのも無理はない。異例の人事なのも分かっている。しかし、考えてみて欲しい」
苦渋の顔を見せる課長と、申し訳なさそうな表情の山本さん。
私は、しばらく2人を見ていた。
「なぜ、私なんですか?」
考えて考えて、やっと出た声。
「社長の一目惚れらしいんです」
はあ?
社長と言えば、40代のダンディいなおじさま。
女子の間でもかなり人気があったのに。
これってパワハラ、職権乱用。どうかしているとしか思えない。
「断ることはできますか?」
やっと冷静になって、課長に向かって聞いてみた。
「うーん、できなくはないが、君が働きにくくなるんじゃないかなあ」
「・・・」
確かにそうかもしれない。
でも、納得できない。
「私は理系の女子です。SE.としての採用ですし、秘書検定だって持ってはいません。秘書としてのスキルは全くありません。何とかこのまま、SEとして働かせていただけませんか?」
課長ではなく、山本さんの方を見て言った。
「困りましたね」
山本さんはそう言って言葉を止めた。
長い沈黙の後、
「もう少し時間をもらおう」
と課長が言ってくれて、とりあえず異動の話は保留にしてもらった。
それでも、このまま終わるはずもなく、山本さんを通じて社長からのお誘いを頻繁に受けるようになった。
のらりくらりと交わしてはいたが、いつまでも断り続けることはできないのも分かっていた。
***
それからは本当にひどかった。
食事に誘ってきた同期は用事もないのに私の周りをうろつくし、隣の部署の先輩は私がメールを無視したことに腹を立てあることないこと悪い噂を広めてくれる。
しまいには、秘書課のお姉様方に異動の話が漏れてしまい社内で私を知らない人はいないんじゃないかってくらいに有名になってしまった。
「ほら、あの人でしょ?遊びまくっているって評判の」
「そうそう、SEの青井麗子。毎晩違う男連れてるって噂よ」
「へー、いやね。何しに会社に来ているのかしら」
「恥さらしね。辞めてくれればいいのに」
1人でないって怖いことで、何人か集まれば噂話も大きな声になる。
当然本人に聞こえているとわかりそうなものなのに、誰も遠慮はしなくなっていった。
この状況で3ヶ月。私は必死に我慢した。
でも好転の兆しはなく、ギリギリまで踏ん張っていた私はストレスで倒れてしまった。
入院中、見舞いに来てくれる友達もいない中で、課長だけが顔を出してくれて、
「倒れる前に止めてやるべきだったのに、守ってやれなくてすまない」
そう言って頭を下げてくれた。
病院のベットの上で、私はいっぱい泣いた。
SEとしての夢も、将来の希望も、すべて涙に流した。
そして、吹っ切れた。
会社は辞める。もう未練はない。
こうして、私の会社勤めは5ヶ月で終わった。
***
「麗子、たまには飲まない?」
見ると、母さんはワインのボトルを手にしている。
「飲むの?」
いつも仕事の後は飲まないのに、珍しい。
「たまにはいいじゃない」
すでにグラスを半分ほど空けた母さんが、私にもグラスを差し出した。
まあいいか。
明日は日曜日でお店も休みだし、たまった洗濯と家の掃除以外に用事はない。
「飲むなら、先に店の片付けするよ」
私は流しに残ったグラスを片付け始めた。
「明日でいいじゃない」
不満そうに、それでも店の中のゴミを集めて回る母さん。
母さんは美人だし、人当たりもいいし、とっても優しい。
でも、少しズボラ。
使い終わった食器を残して置いても平気だし、多少のほこりも気にしない。
せっかく休店日前の店で飲むなら、綺麗に掃除が終わってからにしたいって思わないのかしら。
飲んでしまえば面倒くさくなるだけなのに。
「ホント、麗子って良いお嫁さんになるのにねえ」
いつの間にか手を止めていた母さんが、私を見ていた。
「なるのにねえって、残念そうに言わないでよ」
まるで、私が結婚できないみたいじゃない。失礼ね。
「何、あてがあるの?」
「あるわけないでしょ」
じゃなければ、ここで母さんの店の手伝いなんてしていません。
「おかしいわよね。こんなに綺麗で、頭も良くて、家事全般何でもこなすのに、なんで男ができないのかしら」
「フン。放っておいて」
その答えがあるなら、私が一番知りたい。
***
「そう言えば、彼は?」
彼と言われ、私は1人の男性を思い出した。
無表情で、冷たい目をしていて、でもどこか寂しそうな横顔。
間違いなく2枚目なのに、近づくなってオーラが強すぎる人。
「随分久しぶりだったじゃない」
「え?」
この時になって、母さんの言う彼と、私の思った人が違うことに気づいた。
「徹君が時々うちに来ていた頃って、どのくらい前?」
ああ、徹のことだったのね。
「10年くらいかな」
いつの間にかそんなに経ったんだ。
元々、私と徹は高校の同級生。
友達の少ない私にとって、高校時代唯一の友達かもしれない。
「店の片隅で二人して勉強してたわね」
母さんの懐かしそうな顔。
「そうね」
あの頃から、徹はやたらと勉強ができた。
わからない点を聞けば必ず答えが返ってくるし、テストの成績が悪ければ『ここが間違っているんだ』と的確なアドバイスをくれた。
理系の得意な私と、文系の得意な徹は、本当にいい勉強仲間だった。
「鈴森商事に勤めているんでしょ?」
「らしいわね」
母さんが何を言いたいのか、想像はできる。
でも、私と徹はそういう関係にはなれないと思う。
***
「あんたは専務さんの方がいいみたいね」
「・・・」
口を開けたまま母さんを見てしまった。
さすがというか、鋭いというか、母さんは気づいていた。
「もう少し、身近な人なら良かったのに」
「え?」
「鈴森商事の御曹司とでは、さすがに無理でしょう」
すでにだいぶ酔いがまわった母さんが、1人妄想を始めている。
「そんなこと、思ってもいないって」
ただ少し、ほんの少しだけ気になっただけ。
「そお?」
「そうよ」
恋愛トラブルなんてこりごり。
穏やかに、目立たず、そっと生きていきたいと本気で思っているのに。
「麗子、いいことを教えてあげる」
「何?」
「専務さんもあんたのことが気になっているわよ」
「はあ、ないない」
ありえない。
昨日はたまたま私の素性を確認したくて来ただけで、それ以外の意味はないはず。
「間違いないわ」
「もー、母さん」
冗談はやめて。
「じゃあ麗子。あんたはなぜ専務さんはあんたが気になっていないって思うの?」
「それは・・・」
「それは?」
「ちっとも楽しそうじゃなかったし」
ニコリともせずに話していたし、目が笑っていなかった。
「麗子の見た顔があの人の本当の姿だとは限らないでしょ?ただシャイで、うまく笑えないだけかもしれないじゃない」
「それはそうだけれど・・・」
確かに、母さんの言う通りかもしれない。
たった数度しか会っていない孝太郎さんの事を、私は何も知らない。
できればもう一度、会ってみたいな。
「ハハハ」
突然母さんが声を上げて笑った。
「何よ」
「あんたのそんな顔が見られるなんて、明日は雪かしら」
楽しそうな母さん。
私は答えるのをやめた。
これ以上言えば、母さんが喜ぶだけだわ。