テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
M_Yuzu
636
楽屋を出て自動販売機に立ち寄った阿部は、冷たい紅茶を一本買い、取り出し口から拾い上げた。
戻ろうとして、ふとフリースペースへ目を向ける。パーテーションのわずかな隙間から、見慣れた大きな背中が見えた。
岩本だ。
声をかけようと一歩踏み出した、その時だった。
「告って関係を進展させる。それしかねえだろ?」
突然耳に飛び込んできた言葉に、阿部の足が止まった。
深澤の声だった。
パーテーションの向こうで、深澤が岩本に告白しろとはっぱをかけている。
誰に――とは考えるまでもなかった。岩本には、想いを伝えたい相手がいるのだ。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
聞いてはいけない。
反射的にそう思った阿部は、足音を立てないように後ずさる。そのまま逃げるように踵を返した。
立ち去る間際、岩本の低い声が耳を掠めた。
――誰にも渡したくない。
そう聞こえた気がした。
買ったばかりのペットボトルが、手の中で小さく軋む。冷たさを感じる余裕もないほど、指先に力がこもっていた。
勢いよく楽屋のドアを開ける。
「おかえりー」
振り向いた佐久間が、阿部の顔を見るなり目を見開いた。
「なに、どうしたの、あべちゃん?」
心配されるほど酷い顔をしているのだろうか。
動揺を隠しきれなかった自分が恥ずかしくて、阿部は咄嗟に俯いた。
「何でもないよ。大丈夫」
一度ゆっくり息を吸い、顔を上げる。いつも通りに見えるように、意識して口角を持ち上げた。
「……そんなわけないじゃん。何かあったんでしょ?」
佐久間の目は誤魔化せない。
けれど、何があったのかは言えなかった。言葉にしてしまえば、本当に岩本を失うような気がした。
阿部が話したくないのだと察したらしい佐久間は、心配そうに眉を寄せた。それでも、それ以上は問い詰めなかった。
阿部は席に着き、冷たい紅茶を一口飲んだ。
いつもと同じ味のはずなのに、ひどく薄く感じる。
ペットボトルを机に置き、そのまま腕の中へ顔を埋めた。
先ほど聞いた深澤と岩本の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
――告って、関係を進展させる。
――誰にも渡したくない。
耳を塞いでも消えてくれない。
(……そうだよね。ひかるにだって、好きな人くらいいるよね)
そんなのは当たり前のことだ。
岩本は別に、阿部のものではない。誰を好きになろうと、誰と付き合おうと、岩本の自由だ。
分かっている。
分かっているのに。
(嫌だな……そんなの、嫌だ……)
胸の奥を、見えない手で強く握り潰されているようだった。息をするたびに、鈍い痛みが広がっていく。
阿部はずっと岩本が好きだった。
デビューするよりも、ずっと前から。
けれど、その気持ちを表に出さないよう、細心の注意を払ってきた。想いは胸の奥にしまい、誰にも知られないまま持ち続けようと決めていたからだ。
岩本のそばにいられるなら、それでいい。
同じグループの仲間として笑い合い、ときどき二人で食事をして、隣を歩けるなら、それ以上は望まない。
そう割り切って、これまで過ごしてきた――つもりだった。
けれど今、岩本が自分ではない誰かを想っていると知った途端、押し殺していた嫉妬と欲が、一気に溢れ出した。
岩本の隣に、その誰かが立つ。
自分に向けてくれていた笑顔を、その人に向ける。
触れて、抱き締めて、恋人にしか見せない顔を見せる。
想像するだけで、喉の奥が詰まった。
知らなければよかった。
知らなければ、これまで通り笑っていられたのに。
「阿部ちゃん、具合悪い?」
頭上から降ってきた声に、阿部は弾かれたように顔を上げた。
いつの間に戻ってきたのか、深澤がそばに立っている。その後ろには、岩本の姿もあった。
心臓が大きく跳ねる。
泣くな。
絶対に、ここでは泣くな。
阿部は自分に言い聞かせ、奥歯を噛み締めた。
「ううん、大丈夫。ふっか、おはよ。ひかるも」
どうにか笑顔を作る。
頬が不自然に引きつっているのが、自分でも分かった。それでも、今の阿部にできる精いっぱいの笑顔だった。
佐久間がまだ心配そうに見つめていたが、ほどなくスタッフから呼び出しがかかり、それ以上追及されることはなかった。
立ち上がり、収録スタジオへ向かう。
廊下を歩きながら、阿部はそっと息を吐いた。
(今日、ちゃんと笑えるかな)
仕事なのだから、笑わなければならない。
どれほど胸が痛くても、カメラの前ではいつもの阿部亮平でいなければならなかった。
収録後。
深澤、岩本、佐久間、阿部の四人は、並んで帰路についていた。
夕方の空はすでに薄暗く、街灯がぽつぽつと灯り始めている。仕事を終えた人々が足早に行き交う中、深澤と岩本が少し先を歩き、その後ろを阿部と佐久間がついていく。
いつもなら岩本の隣へ行き、今日の収録のことや、どうでもいい話を途切れることなく話しているはずだった。
けれど今日は、どうしても近づけない。
岩本の背中を見るだけで、胸が苦しくなる。
阿部は俯いたまま、重い足を引きずるように歩いていた。隣の佐久間が何度も気遣うように視線を送ってくるのが分かったが、顔を上げることができなかった。
(好きって言えばよかったのかな……)
少し前を歩く岩本の背中を見つめながら思う。
もっと早く、自分の気持ちを伝えていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
けれど、もう言えない。
岩本には、心に決めた相手がいる。
今さら告白したところで、困らせるだけだ。大切な関係まで壊れてしまうかもしれない。
(本当は、好きって言いたかった)
鼻の奥がつんとした。
慌てて俯き、瞬きを繰り返す。
(好きになってほしかった……)
堪えようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
頬を、温かいものが伝っていく。
「……あべちゃん?」
佐久間の戸惑った声で、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
「どうした?」
「阿部?」
前を歩いていた深澤と岩本が振り返る。
岩本と目が合った瞬間、張り詰めていたものが切れた。
阿部は慌てて涙を拭い、笑おうとした。けれど唇が震えるばかりで、いつもの笑顔は作れなかった。
「あ……っれ、ごめ……」
次から次へと涙が溢れ、拭っても追いつかない。
「なんか、疲れてっ……のかも」
苦し紛れの言い訳さえ、最後まで繋がらなかった。喉が震え、声が嗚咽に変わる。
これ以上ここにいたら、全部言ってしまう。
好きだと。
誰にも渡したくないのは、自分のほうだと。
「帰る……っ!」
ようやくそれだけ絞り出し、阿部は三人に背を向けた。
「あ、阿部ちゃん!」
佐久間が咄嗟に腕を掴もうとしたが、その手を振り払い、走り出す。
背後から名前を呼ぶ声が聞こえた。
その中に岩本の声もあった気がしたが、振り返れなかった。
涙で滲んだ街の明かりが、いくつものぼやけた光になって流れていく。息が切れても、足がもつれそうになっても、阿部は止まらなかった。
今さらになって、「好き」と言いたい気持ちが、どうしようもないほど膨れ上がっていく。
願いを叶えてくれるのなら、神様でも悪魔でも構わない。
もう、隣にいられるだけでいいなんて言わない。
あんなものは、自分を納得させるためについた嘘だった。
ただ、岩本の全部が欲しかった。
コメント
2件

こう言う系めっちゃ好きです! 続き楽しみにしてます!🥰