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「……お仕事、辛いのね」
「……最初は、良かったんです。新しいプランをたてさせてくれないかって、沢山のお宿とかホテルを回って、頭を下げて。大変でしたけど、ご協力頂けた施設の方と、絆が生まれたりもして。やりがいがあったんです」
「それが、変わってしまったの?」
彼女の瞳が暗く淀む。
「……少しずつ、軌道に乗ってきた時でした。社長が突然、もっと確実な利益を求めるようになったんです。新しい顧客層を増やす為にと、今の主軸である『わかりやすい』激安プランを前面に押し出す方針に一変させました。……思えばそこで、辞めておけば良かったんです」
ずっと押さえ込んでいたのだろう。彼女はせきを切ったように、か細い声で思いの丈を並べた。
時折不自然にならないよう、結月が疑問を紛れさせると、すっかり信用しているようで素直に答えを返してくる。
声と共に震える肩が、痛々しい。
「……私は、止めることもできなくて」
「貴方のせいじゃないわ。……それでも今のお仕事、好き?」
「……わかりません。お客様の喜ぶ姿を見るのが大好きだったのに、今ではその裏で、首を縦に振らざるを得ない皆さんの顔が浮かんでしまって」
(……なんか、腹立ってきた)
ほんの、気紛れだった。
あまりに身勝手な中川の暴挙に怒りを覚え、ホロホロと止めどなく彼女の頬を伝う雫に、つい、感化されたと言ってもいい。
結月は慰めるように彼女の丸まった背を撫でると、そっと頬に唇を寄せ、掠めるだけのキスをした。
友好を表す子供の戯れよりも微かな、風が頬を撫でる程度の接触だ。
だが彼女の涙を止めるには、抜群の効果を発した。
「っ!?」
「涙、止まったわね」
「えっ!? あっ!」
涙を見せた事への羞恥か、結月の行動への驚愕か。
真っ赤な顔で視線を彷徨わせる彼女に、結月はふわりと微笑んで立ち上がる。
「大丈夫、私がなんとかしてあげる」
それは『仕事』ではなく、本心からの言葉だった。
私情を挟むのは言語道断。そう言っていた『師匠』も、時折こうして、湧き出た情に流されていた。
常の結月だったならば、このあと彼女を助ける為には、更に奔走しなければならなかっただろう。
だが今の結月なら、もっと確実な方法を知っている。
(……了承してくれるかは、別だけど)
それでもなんとなく、仁志なら、助けてくれるような気がしていた。
突然の宣言にポカンと口を開けたままの彼女に「付き合ってくれて、ありがとう」と全てを含めた礼を告げ、結月は全身の感覚を研ぎ澄ませて『波長』を合わせた。
奪うのは結月の存在を確定付ける情報だけだ。それ以上を消す訳にはいかない。
「……――」
そっと、夜風のように『魔法の言葉』を溶け込ませ、結月は振り返る事なくその場を後にした。
残された彼女は未だボンヤリとして動けないままだが、脳が情報の整理を終えれば、じきに会場へ戻るだろう。
その前に、立ち去らないと。
(酔ったとでも言って連れ出すか)
会場の扉へ足早に近づきながら、未だ輪の中心にあるだろう仁志の奪還方法に思考を巡らせた時だった。
突如後ろから腕を引かれ、結月は思わず声を上げた。
「わっ!」
(っ、ヤバ!)
焦燥が過ぎったのと、打ち消されたのは、ほぼ同時。
見上げると、結月の腕を掴んでいたのは、これでもかという位に眉根をキツく寄せた、不機嫌丸出しの仁志だった。
「帰るぞ」
「え、う、うん」
空気が黒い。結月がうっかり通常の口調で頷いてしまうくらいに、仁志の纏う雰囲気は威圧的だった。
突如足早に現れた二人に、何事かと視線を向けたエントランスの警備員が、ギョッとした顔をする。
だが恋人同士の痴話喧嘩だとでも思ったのか、そそくさと視線を逸らす様に、結月は仁志に腕を引かれたまま「ですよねー」と他人事のように思った。
いつの間に呼んでいたのやら、エントランス前には行きに乗ってきた黒塗りの車が、会場内部から漏れ出る黄色いライトを艶やかな車体に反射していた。機敏な動作で運転席から降り立った逸見が、「おかえりなさいませ」と後部座席のドアを開けてくれる。
押し込まれるようにして乗り込むと、続いて無遠慮に座った仁志の反動で車体が上下にぐわりと揺れた。
結月はビクリと身体の左側を縮こめたが、逸見は何てことでもないように、いつもの穏やかな笑みのまま「出発しますね」と静かに告げて、アクセルを踏み込んだ。
滑るようにして車体が夜の街に繰り出す。
入り込んでは流れゆく街の明かりに照らされる仁志は、窓枠に頬杖をつき、仏頂面のままだ。
(お、おもい)
沈黙の続く一秒毎に、車内の酸素が鉛になっていくようだ。
息苦しさに耐えかねて、結月は引き結んでいた唇を恐る恐る開いた。
「……裏、とれたよ」
仁志は体制をそのままに、瞳だけを向けてくる。
聞く気はあるらしい。結月は言葉を続けた。
「あの社長、随分前から経営難の所や、ネットに疎い個人経営のトコ狙って、口八丁に言いくるめては激安プラン限定の専属契約結ばせてるんだって。気づいた経営者が解約を求めると、結構強引な脅しをかけて泣き寝入りさせてるんだってさ」
端的にいえば、結月の報告は以上だ。後は求められれば補足していくつもりである。
仁志はたっぷりの沈黙の後に、やっとの事で口を開いた。
「……逸見」
「はい」
「『游玄亭』に榊を送れ」
「かしこまりました。明日の朝、その様に手配させて頂きます」
(え、だれ)
初めて聞いた名に結月が視線をまごつかせると、気づいた逸見がバックミラー越しに瞳を緩め、「当社の顧問弁護士です」と教えてくれた。
なるほど、弁護士か。
それならこの問題は、早々に解決するだろう。彼女に聞いた限りでは、例の社長はどうもその手の知識には疎そうである。
それはいいとして。
望み通りの情報だったのか、仁志はそれ以上を結月に尋ねる事なく再び口を噤んでしまい、視線も窓の外に遣る。
気の重い空気が車内に充満していく。
なんだろう。何を怒っているのだろう。気づかない所で、失敗してしまったのだろうか。
結月は緊張に汗ばむ両手でギュウと拳を作り、意を決して尋ねてみた。
「……ねぇ、なに怒ってるの?」
「……」
こわい。
本気で怖いから目だけで凄まないでほしい。
「……おれ、なんか失敗した? それとも、置いてったの怒ってんの? でもそれは仕方ないじゃん、客連れの情報収集なんてやったコトないし、素直に邪魔だし」
「……本気でわからないのか?」
「……わからないから、訊いてんじゃん」
再び沈黙。話す気はないという事か。
だんまりを決め込まれしまっては為す術もない。
結月は出来るだけ息を潜め、窓外に流れる暗闇を見つめ続けた。