テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その通達は、血より冷たかった。
任務番号:S-88
対象人物:加賀見 悠生(Kagami Yuusei)
内容:対象の暗殺
備考:対象は元工作員。現在は離脱済だが、複数の機密保持違反の疑いあり。
実行部隊:0415・0812(特例バディ再編成により出動許可)
任務の紙面を見た瞬間、栞の手が震えた。
「……この名前、私……知ってる」
「……」
翠は何も言わず、栞の表情をじっと見ていた。
「この人……昔、私をかばって、組織から逃がしてくれた人……」
記憶が蘇る。
まだ殺し屋としての訓練すら始まっていなかった頃、
栞は施設の片隅で何度も泣いていた。
そのとき、誰よりも優しく、
誰よりも早く「ここから出ていけ」と言ってくれた大人──それが、加賀見 悠生だった。
「わたし、あの人がいなかったら……今、ここにいない。だから……殺せない……!」
翠は何も言わなかった。
ただ、書類を閉じ、静かに言葉を落とす。
「断れば、お前が消される」
「……分かってる。でも、殺せない……!」
「……」
「どうすれば……どうしたらいいの……」
***
翌日、現場は郊外の山中にある小屋。
そこに“元工作員”は潜伏しているとの情報だった。
「……来ると思ってたよ」
そう言って、小屋の扉を開けたのは、
黒髪に白が混じり始めた中年の男。
その目は、どこか懐かしさと哀しさが入り混じっていた。
「お前……あのときのガキか。もうこんなに大きくなったんだな」
「……加賀見さん……!」
「わかってる。俺は殺されに来たようなもんだ」
男は静かにソファに腰掛けると、煙草を一本咥えた。
「お前が来てくれて、よかったよ。最後の顔が“恩を返しに来た”誰かだったなら、少しは報われる」
「そんなの……そんな言い方しないで……!」
「殺さなくていいぞ、栞。……代わりに撃たれるだけだ。俺は、逃げ切れる立場じゃない」
そのときだった。
「──お前が死ぬのは勝手だが、うちのバディの手を汚すな」
後ろから入ってきた翠が、男に銃口を向けた。
「お前の罪は、お前の責任で裁かれるべきだ。“感情”で片付けられる命なら、殺し屋は必要ねぇ」
「……冷たいな」
「当たり前だ。殺し屋だからな」
男は目を細めたあと、
手元にあった封筒を栞に手渡す。
「中身は、組織が探してる“証拠”と“資料”。俺を殺せばそれで済む。けど、これを渡せば……命の取引は、できるかもしれない」
「……!」
翠が封筒を開く。
確かに、重大な機密情報が綴られていた。
「これがあれば……」
「俺を見逃せとは言わん。ただ、あの子だけは、これ以上“罪”を抱えさせないでくれ」
男は最後の一言を言い残すと、手を背後に回した。
銃でも、ナイフでもなく──自ら、両手を差し出した。
「拘束しろ。好きにしろ。殺すなら、その後でいい」
***
その夜。
「組織は“生け捕り”を受理した。あの男は“情報提供者”として処理される」
報告書を手に戻ったふたりは、
並んで夜のベンチに腰を下ろしていた。
「……ありがとう、翠さん」
「俺は何もしてない。お前が“撃たない”って選んだだけだ」
「でも、あなたが隣にいてくれたから、踏みとどまれた」
栞は空を見上げる。
空には星が見えていた。
あの日、泣いて逃げた施設の夜と、何も変わらない星の並び。
けれど、そのときとは違う。
今は、隣に“帰る場所”がある。
「私ね、たぶん、やっと“自分の正しさ”を選べた気がする」
「……遅ぇよ」
「え?」
「俺はとっくに、お前のその“正しさ”に救われてたのに」
「……ばか」
ふたりは、そっと手を繋いだ。
恋人らしくもなく、バディらしくもなく。
ただ、命を何度も預け合った、ひとりの“人間”として。
任務は終わった。
けれど、物語はまだ続いていく。
“正しい殺し方”なんてものが、あるはずがない。
それでも──
このふたりの在り方だけは、
きっと誰にも、間違いだとは言わせない。