髪についている水滴を撒き散らしながら、八意はキャンキャンと子犬のように吠える。
普段は大きな瞳が付いている帽子を被っているため分からなかったが、八意の髪は烏の濡れ羽色で美しかった。こうしてみると、本当に生意気な少女のように思えてしまう。
「お前の好き嫌いはどうでも良いよ。文句があるなら、さっさと終わらせよう」
「お前はいつもそうじゃ! 神様に対してのリスペクトが足りんぞ! リスペクトが!」
那由多は面倒くさそうに溜息をつくと、典晶を見て肩をすくめた。
那由多達の様子を見て、典晶は彼と対照的な安堵の溜息を漏らした。何も解決はしていないが、那由多の存在感というのは、目の前にいる凶霊よりも遙かに巨大で、力強い。彼が大丈夫だと言えば、本当に大丈夫なのだと思ってしまう。彼は、そんな不思議な力を持っていた。
「…………なんじゃ! 凶霊の足止めをしていないではないか!」
一頻り吠えて満足した八意は、バスタオルを巻いたままの姿で、少し離れた場所に立つ凶霊を見やった。
「足止めはした!」
典晶は反論する。あれだけ頑張ったのだ。何もしていないと言われては、流石に頭にくる。
「ちゃんと、バインドはしたか? 引っ張って、凶霊を抜き出そうとしたか? 随分とピンピンしておるが?」
「バインド? 引っ張って抜き出す?」
八意の言葉の意味が分からなかった。ポケコンには、もっと他の機能があったのだろうか。
「お主? チュートリアルをしていないのか? 可愛い八意思兼良命が、極悪な鬼女と性悪狐を倒すのじゃぞ!」
「極悪な鬼女と」
「性悪狐?」
典晶とイナリの頭には、歌蝶と宇迦の顔が思い浮かんだ。
「そ、そうじゃ、べ、別に他意は無いぞ! たまたま、チュートリアルに架空のキャラとして、鬼女と狐を取り入れただけじゃ!」
アタフタとする八意。そんな八意の頭を叩いた那由多は、「いくぞ」と一言呟いた。
「那由多さん……」
「典晶君、後は俺にお任せ。君は、ポケコンの準備を」
那由多が左手を振るうと、これまで纏っていた緑色の旅装が消え、学生服に戻った。那由多の左手には、黒い鳥が一羽、止まっていた。翼を広げると、那由多よりも遙かに大きい。漆黒の羽に、深緑の瞳。尾は長く根元で四本に分かれ、それぞれが意思があるかのように那由多の周りを回転している。
「ラウム、ご苦労」
那由多の言葉に、ラウムは一言頷くと、まるで馬のような大きく甲高い嘶きを上げ、その場から掻き消えてしまった。
「八意、行くぞ!」
言うが早いか、那由多は凶霊に向かって駆け出した。これまでのやり取りを、ジッと黙って見つめていた凶霊は、那由多の反応を見ると反撃体制を取った。
「致し方ないの……」
那由多の背中を見ていた八意は、胸に巻いたバスタオルをきつく締め直すと、彼の後を追った。
凶霊は触手のようなオーラで机を掴み上げると、猛然と突進する那由多に投げつけた。
唸りを上げて迫る机を、那由多は身を屈めてやり過ごす。更にそのままの勢いを殺さず、体を横にして鼻先すれすれで飛び交う机を回避する。
「典晶!」
那由多が躱した机が、その背後にいる典晶達に飛んでくるが、イナリの叫びに答えるように、ヴァレフォールが典晶達の前に立ちはだかった。
「ご安心ください。マスターのご友人達は、私が守りますので」
肩越しに振り返ったヴァレフォールは、穏やかで艶やかな笑みを浮かべると、右手を優雅に振って迫り来る机を空中で制止させた。そして、小バエを払うように指先を振ると、そちらの方に机が吹き飛んでいく。
圧倒的
その一言が典晶の脳裏を巡った。
那由多の召喚したハハビは、その強靱な肉体を武器に、並み居るグールをいとも容易く蹴散らした。
次に召喚したラウムは、その力で一瞬にして美穂子を凶霊の手元から救い出してくれた。
見知った顔である八意も、その力の片鱗を見せていた。バスタオル一枚という出で立ちだが、その動きはイナリよりも俊敏で、ハロよりも軽やかだった。投げられた机を空中で蹴りながら移動し、凶霊との距離を一定に保っている。
そして、このヴァレフォールだ。最初から那由多に付き従っていたが、彼女の力はまた別格で、その力は恐らく、凶霊を遙かに凌ぐだろう。
なにより、驚くべきはそれら神や悪魔を従える那由多だ。彼は、悪魔の力を使わなくても、凶霊に立ち向かっている。現に、彼は凶霊の攻撃を躱しつつ、その距離を縮め、肉薄していた。
那由多の繰り出す拳を、凶霊は受け止め、続けざまに放たれた鋭い蹴りを、大きなバックステップで躱した。凶霊は那由多を睨むと、憎々しそうに眉間に深い皺を寄せた。
「八意!」
那由多が叫ぶと、まるで猫のように飛び回り凶霊の攻撃をいなしていた八意が、待ってましたとばかりに長い跳躍をした。空中で両手を広げた八意。バスタオルが風に飛ばされる。那由多は右手を突き出し、八意の胸に触れた。瞬間、八意の体が那由多の体を透過し、一瞬で那由多は八意と同化した。
胸元が大きく開いた白い狩衣のような服を身に纏っていた。右手には黄金色に輝く万年筆、左手には巨大な辞典を持っている。
「えっ?」
早くて何が起こったのか分からなかった。ラウムの時もそうだが、那由多は、八意を身につけたのだ。
「あれが転神だ。神や悪魔をその身に纏って、その力を自在に操る」
大きく息を吐きながら、苦しそうにイナリが体を起こした。
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