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「行っちまうみたいだ。」
男は少年が歩き始めたのをみて
少し残念そうに妻に声を掛けた。
「やれやれだね。」
妻は仕込みの手を止めることなく応えた。
「いやぁ、べっぴんさんだったのになぁ。」
「まだ言うのかい?」
妻は顔も上げない。
辺りは夕焼けの朱色がどんどん濁り
紫の幕が家や人や木々の形を
黒く染め始めている。
「ちょっと声かけてみるか。」
「馬鹿いうな!」
突然の妻の大声に、
男も霧人も動きをとめて振り返った。
「あ・・・」
霧人が見つめているのに気がついた妻は
ガクガク小さく震え出した。
「おい、どうした。」
男が怪訝そうに言う。
「あ・・あ・・・あ・」
妻はそれには答えず、
霧人を見たまま硬直している。
「おい、お前。大丈夫か?」
突然大声が聞こえた。
音がしたのは件の店の中からだと
霧人はすぐに気がついた。
見るつもりはなかったが、
反射的に脇差に手を添え、振り返る。
怪訝そうな表情の男が見つめる先、
其れはいた。
黒というのは生温いほどの漆黒が
ヒトガタをして揺れていた。
「魔か!」
霧人は叫ぶと同時に跳んだ。
脇差を抜いた刹那、
辺りはまた昼日中に時が進んだかの様に白じむ。
「ひゃっあああああ!」
ヒトガタの其れは
男とも女ともつかない悲鳴をあげて
瞬時に消え去った。
後に残ったのは、
いよいよ山の向こうに落ちた太陽が連れてきた
青黒い夜の帳のみ。
「雑魚か」
霧人は刀を鞘に戻すと踵を返して
再び坂を登り始めた。
「ちょ、ちょっと待て!」
男は霧人を追ってきた。
「なんなんだ!あいつはどこへやった!
あいつは、かみさんはどうした!」
「あれは人ではない」
「え・・」
「あれは魔だ」
「魔だと?!そんなはずは・・」
「よく探せ。
魔の証である魔石が転がっているはずだ。
まぁ、あの位の魔だと石にならず、
砂になったかもしれないが。」
「砂・・・」
「気の毒だが、
あのまま一緒に時を過ごしていたら
貴様も魔になるか、喰われていたか。
どちらにしろよくないことになっていた」
男はふらふらと店に戻り
女がさっきまで手仕事をしていた厨房に入る。
そしてそっと何かを拾い上げた。
薄墨色した小石。
魔石。
男は呆然と小さなその欠片を見る。
霧人は少し眉を顰めると
男を残し、歩き出す。
男は霧人が坂の上に消えても
まだ手のひらの上の薄墨を見つめていた。