アスファルトの水溜りに黒い革靴が沈む。視界は妙に眩しいが頭の中は真っ白い霧が掛かり呆けて居る。昨夜の暴風雨、いや”川北大橋”での出来事が嘘の様だ。
血だらけの後部座席、微動だにしない太田の背中、朱音に手渡した《《あの》》洋服屋のショップバッグを”手取川”に投げ捨てた。あれも幻だ、無かった、何も無かった。
ブルルルルルルル
目の前を赤い何かが横切る。
「ひ、ヒィっ!」
西村は思わず肘で顔を庇って身体をすくめた。
赤、赤い。
それは水色の制服を着て白いヘルメットを被った郵便配達員が運転する赤い郵便局のバイクだった。脇の下が汗ばむ。心臓の血が逆流する悍ましさ。
赤い、赤、赤、赤。
もしかしたら赤い《《金魚》》が俺の所にも来るのではないか、そんな得体の知れない恐怖が背中を伝い全身に広がった。今こうしていてもそのブロック塀の枯れた垣根の陰から赤いワンピースの裾が見えるのでは無いかと足が竦んだ。
(いや、そんな筈はない。俺は朱音にやましい事など《《ひとつも無い》》。大丈夫だ)
フラフラと力なく覚束ない足取りで辿り着いた我が家。濃い赤茶色の煉瓦を貼り付けた自宅マンションを眩しく仰ぎ見る。6階のベランダではタオルハンガーに白いタオルがはためき、洸が通う幼稚園の水色の制服がふわりと11月の風に揺れて居た。
(問題ない。朱音に俺が何処に住んでいるか、その事は話していない)
薄暗く肌寒いエントランスに踏み入れ、右の壁に埋め込まれた郵便受けに目が止まる。601号室西村、そこには保険会社や通販会社のダイレクトメールの封筒が何通も詰め込まれていたが、それを手に取る気力も無くエレベーターのボタンを押した。
ガコンガコンとゆっくりと上昇する箱、もう何も考えられなかった。1分1秒でも早くベッドに倒れて眠りたかった。
601号室の鍵穴にテンプルキーを差し込むと、それを回すよりも早く茶色いドアがガチャリと開いた。身体が自然と跳ね上がる。
「おかえり!大変だったねぇ、疲れたでしょ?」
「お、お前、インターフォンも鳴らして無いのにドア開けるなよ。不用心だろ」
「何よ、いつもの事じゃない」
黒いカットソーのワンピースにベージュのフードパーカーを羽織った智が疲れ切った西村を出迎えた。天真爛漫な笑顔、血色良く生き生きとした肌、ふくよかな身体のライン、これほど妻の顔をじっくりと眺めたのは何ヶ月前の事だろう。それすらも思い出せない。
「何、ボーっとしてるのよ。寒いでしょ、早く入りなさいよ!」
「お、おお」
玄関先に洸のアンパンマンがプリントされた小さくて青いスニーカーが無い。
「あれ、洸は?」
智は呆れた顔をして西村の背中を軽く叩いた。
「裕人、何言ってるの?洸、幼稚園じゃない」
「あぁ、そうだっけ」
西村はまるで浦島太郎の様に現実に戻って来た、そんな面持ちで周囲を見渡す。智の柔らかな手のひらに背中を押され、フローリングの廊下を進む。逆光が眩しい。薄い貝殻を繋げたウィンドウチャイムが窓から降り注ぐ陽の光に揺れ、ファンヒーターの暖かな吐息、西村の好むガーリックの効いたホワイトシチューの温もりが溢れるリビング。それはこれまでの事を《《全て》》掻き消してしまう程に心地良かった。
「ねぇ。これって、裕人の同期の人だよね。怖いよねぇ、気をつけてよ」
ドス黒い現実に引き戻される。
TVに振り向くと、色黒の坊主で横長の黒縁眼鏡を掛けた太田の顔写真と名前、年齢のテロップが、昼の情報系ニュースの番組に映し出されて居た。大袈裟な程に大きな見出しには黒地に赤い縁取り、黄色い文字が(タクシードライバー猟奇殺人!)と叫んでいる。その画面では北陸交通のグレーの制服に臙脂色のネクタイを締めた同僚が顔にモザイクを掛け、声色を変えて太田の性格をペラペラと垂れ流していた。
「裕人もインタビュー受けたりするかも知れないね」
インタビューどころか西村は明日、任意だが警察で事情聴取を受けなければならない。昨夜、何の為に加賀市に向かってタクシーを走らせていたのか、加賀産業道路で何の為にSDカードを抜いたのかと尋ねられる。そして、普段から車通りの少ない”川北大橋”で第一発見者になったのか、問い詰められる事は間違い無かった。
そのどれも此れもが山下朱音に繋がっている。
(駄目だ、ダメだ!朱音の事だけは隠し通さないと!智が朱音との不倫を知ったらどうなる!?駄目だ!この生活が無くなる、それは嫌だ!)
「どうしたの?顔色悪いよ?」
「え、大丈夫だよ」
「えぇ、昨夜雨に濡れて風邪引いたんじゃない?お風呂入りなよ」
「大丈夫」
振り向いた西村は思い切り智を抱き締めたが、彼のYシャツの袖口には、112号車に付着した太田の血痕がドス黒い線となり染み付いて居た。