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千紘は大きく大きく目を見開いた。まさか今日そんな言葉が聞けるなんて思ってもみなかった。
触れる許可を得るまでだって時間がかかったのだから、その先だってもっと凪には準備が必要だと思っていた。
「千紘がいい」は他の誰でもなく千紘を選んでくれた証拠だ。女性でもなく、他の男性でもなく、千紘を名指ししたのだから。
千紘は、後ろから優しく凪を抱きしめた。からかう気も意地悪する気もすっかりなくなってしまった。ただ胸が熱くて嬉しくて、一緒にいられることの喜びを噛み締めた。
「ありがとうね、凪。嬉しい」
「……ん」
「俺も凪がいい。ずっと凪がいい」
ピッタリと凪の背中と千紘の胸がくっつくと、凪は抱きしめた千紘の腕を前からキュッと握った。
「うん……」
「ねぇ、俺がいいってことは、俺のモノになる気になったってこと?」
一応確認はしておきたいところだ。ちょっと好きと千紘がいいが聞けたらもう付き合うまですぐそこのような気がした。
こんな中途半端な状態で体だけ繋がるのはなんとなく嫌だ。
「は? ヤダ」
なのに凪はそれは納得がいかないと低い声で唸る。千紘は少し期待していたばかりに、ガックリと肩を落とした。
さすがに焦り過ぎたか……。としょんぼりする。
「んー……そうか」
「まあ……千紘が俺のモノになるなら、別にいいけど」
不機嫌そうに腕の中の猫はそう呟く。千紘はパチパチと目を瞬かせ、「え?」と素っ頓狂な声を上げた。
「だから、諦めるならお前が諦めろよ」
「……」
凪の言葉を理解する。確かに千紘は前に言った。もう諦めて俺のモノになれと。けれど、凪はそれを未だに拒否し続け、反対に千紘に求めた。
千紘の心はとっくに凪に奪われているのに、今更凪のモノもなにもないとは思う。しかし、物は言いようなのだろう。この際どっちでもいいと思った千紘は、簡単に自分が折れることを決意した。
「ふふ。もちろん。俺は凪のモノだよ」
千紘がそう言って腕の力を強めれば、赤く色付いた凪の耳が目に入った。
千紘の腕に抱かれながら、凪は小さくほうっと息をついた。どうやって触れる許可を出そうか散々悩んだが、結局は一枚上手だった千紘のいいように丸め込まれた気がした。
それでも悪い気は全くしないのだから、何だかんだいいながら絆されてしまっているのだと認めざるを得なかった。
昔付き合った女性やセラピスト時代の客達のように簡単に「好き」だとは言えないが、ほんの少しだけ好意が伝わったらいいなと凪は思った。
気軽に好きだと言葉にできないのは、以前何の気なしに使用していた「好き」の重みが増してしまったからだ。
千紘の凪に対する「好き」はとても大きくて重い。それを受け入れる覚悟はできても、それに対等な「好き」を与えるのは容易ではない。
ちょっと好き、と伝えることが精一杯だった凪も、今後少しずつ言葉にできる日がくるだろうか……とぼんやりと考えてみる。
「今日は付き合った記念日だねー」
凪の後ろでのんびりとそんな声が聞こえる。以前なら、バカにした態度で否定しただろう。しかし、今回ばかりはキュッと唇を固く結んで羞恥心に耐えた。
否定したら後が面倒臭いし。自分にそう言い聞かせながら、トクトクと弾む胸の音を隠す。千紘はこの先も凪のモノで、ワガママもおねだりも快く与えてくれるだろう。
こんなにも可愛気のない自分を全て受け入れてくれることに感謝しながら、凪は「毎年いつだって言わなきゃ忘れるからな」なんて悪態をつく。
千紘はふふっと笑いを堪えきれずに声を漏らしながら「それなら毎日言おうか?」と凪の髪を撫でた。
男性相手にこんなにも心穏やかになる日がくるなんて想像もできなかった。去年までの自分だったら、こんな未来は決して望まなかった。
収まるところに収まった今、精神的な苦痛も鉛のように重たい体も全てなくなった。開放感を十分に感じて凪はこれでよかったのだと頬を緩めた。
そんな日からもう10日は経った。凪が言った通り、2人は毎日のように体を重ねている。
だからシーツがダメになったといっても、どちらのせいでもないのだ。
「つーか、下にタオル敷いたらいいんじゃね?」
「そうすればシーツが汚れないってこと?」
「うん」
「絶対無理だよ。枕カバーにだって飛び散ってるんだから」
「それは絶対千紘」
「違う。凪だってば」
「昨日、顔にかかった」
「あ、じゃあそれは俺だ」
そんな話をした後にバッチリと目が合って思わずふっと笑い合った。
「朝っぱらからなんの話してんだよ」
「どこに行くかの話でしょ」
「あー、そうだ。シーツ見て、中華食って、何すんだっけ?」
「花火やる?」
「花火ー? もう何年もやったことねぇ」
「俺も。花火大会も行きたいよね」
「お前、仕事だろ」
「たまたま定休日に花火大会ないかなぁ」
「大体土日でやるからな。月曜日にやるとこなんか聞いたことない」
凪は会話をしながら、よっと上半身を起こした。千紘の膝枕から解放した頭をふるふると左右に振って、髪を整えた。
千紘も出かけるならと腰を上げて、支度を始める。
「1日くらい休んでもいいけどね」
「花火大会に行くカップルの髪セットとか予約入んじゃねぇの?」
「入るだろうね。来年分を見越してもう休み取っとくかな」
「1年越し。雨降ったら終わりのやつ」
「そう言わないでよ。雨降ったら凪と家でまったりすればいい」
「日常と変わんねぇじゃねぇか」
「それはそう」
何となく恋人らしい会話にはなってきた方だと凪は思う。甘く、ときめくような関係には程遠いが、千紘と自分らしい穏やかな時間が過ごせている。
「凪はデートで行きたいところないの?」
「んー……。とりあえず、この前言った温泉?」
「ああ、宿取ったよ。貸切風呂あるところ」
「貸切ぃ?」
「6種類の温泉入りたい放題」
「おおっ!」
「食事は刺身と金目鯛の煮付け」
「行く行く!」
凪はぱあっと表情を明るくさせて、両手を高く掲げた。