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羽衣石のおちこぼれ

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羽衣石のおちこぼれ

1 - 落ちこぼれ

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2025年10月05日

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春の風は、あの頃の私には少し冷たかった。山のふもとを抜ける風が、枝を揺らして花びらを散らす。

忍術学園の裏手にある訓練場からこっそり抜け出した私は、泥のついた足袋のまま、坂道を駆け上がっていた。

どこかへ逃げたかった。ただそれだけだった。


「なんで……僕ばっかり……」


言葉が零れた。

鍛錬も試験も、うまくいかない。

忍術も遅いし、手裏剣はまともに当たらない。

先生には「集中が足りない」と言われ、同級生には笑われる。

何より悔しかったのは、自分の家の名前――羽衣石という名を背負っていること。

生まれながらの忍者の家系。エリート中のエリート。期待されて、縛られて、逃げた。何度言われただろうか。「おちこぼれ」と。

僕は本当に、何も出来ないんだなと思いながら、どこか分からない所をひたすら走る。


足を止めたとき、目の前に小さな滝があった。

春の雪解け水が、勢いよく岩肌を打ちつけている。

その水しぶきの向こうに、人影がひとつ。


「……?」


長い髪を後ろで束ね、黒装束の袖をまくり上げた青年が、滝の下で黙々と立っていた。

水の音にかき消されそうなほど静かに、ただまっすぐに立つ。

その姿に、僕は足を止めた。


「すご……」


思わず呟いた瞬間、青年がこちらを見た。

目が合った気がして、わたしは慌てて木の陰に隠れた。

心臓がうるさい。


「誰だ」


短く、低い声。

僕はびくっとして、けれど出ていくしかなくて、

「……ご、ごめんなさいっ!」と声を上げた。


青年は滝から上がると、濡れた髪を軽く払ってこちらに歩いてくる。

冷たい水滴が陽に反射して、きらきらして見えた。

よく見ると、まだ若い。多分、上級生。


「……一年の忍か?」

「は、はい……」

「何をしていた」

「えっと……さ、散歩を……」


嘘は下手だった。

青年は少し眉を動かして、それからほんの僅かに笑った。


「ふむ。散歩にしては顔が泣き腫らしているな」

「なっ……!? み、見ないでください!」

「見なくても分かる。お前の足跡は走っていたし、目の下は赤い」


観察眼が鋭すぎる。

僕はもう逃げられないと悟った。


「……怒らないんですか?」

「何を?」

「勝手に出歩いたこと……とか」

「俺は教師じゃない。怒る理由がない」


その声は、驚くほど穏やかだった。

冷たい滝の水よりも、春風みたいに静かで。


「お前の名は」

「……羽衣石、珠那です」

「羽衣石か。なるほど、あの家の」

青年の目が一瞬だけ細くなった。

けれどすぐに、その目はやわらかくなった。


「俺は甲賀仙三。六年生。」

「……仙三先輩、ですか?」

「呼びにくいなら仙三でいい」


「えっ、そんな……! 呼び捨てなんて……!」

「敬われるほど立派な忍でもない」

そう言って、少しだけ笑う。

その笑顔が、春の日差しより眩しかった。


少し間があって、仙三が言った。

「さっき、何を見ていた」

「え?」

「滝の前で立ち止まっていた。何を思った」


言われて、思い出した。

僕は、仙三先輩の姿を見て、思ったのだ。


「……綺麗だな、って……」

「綺麗?」

「はい。なんか……強いのに、静かで。怖くなくて。綺麗だなって」


自分で言って、顔が真っ赤になった。

仙三先輩は少し驚いたように目を瞬き、それからまた、

ほんの少しだけ笑った。


「……変わったことを言うな」

「す、すみません!」

「いや。悪くない。お前のように言える忍は、強くなる」


滝の音が遠くで響いている。

仙三先輩が背を向けると、ふと振り返って言った。


「珠那。次に泣きたくなったら、滝の下で泣け。誰にも見られない」

「……はい」


その日から、僕の世界は少しだけ変わった。


初夏の風が山を渡る。

蝉の声が遠くから響くころ、

僕と仙三先輩の関係は、少しだけ近くなっていた。


滝の下で出会ってから、先輩は何かにつけて気にかけてくれた。

朝の鍛錬では、姿勢を直してくれたり、

放課後に勉強を見てくれたり。

周りの同級生には「また羽衣石が六年に甘えてる」なんて言われたけど、

それでも構わなかった。


仙三先輩のそばにいると、

なんだか呼吸が落ち着く。

“忍”であることを、少しだけ好きになれる気がした。


その日も、先輩は山奥の訓練場で一人、丸太を肩に担いでいた。

信じられないほど太い。

両腕でやっと抱えられるほどの木を、

先輩は軽々と担ぎ上げて歩いている。


「先輩っ、それ……重くないんですか!?」

思わず声が出る。


「ん? ああ、これか?」

仙三先輩は丸太を肩に担いだまま振り返る。

汗で濡れた額が、夏の日差しで光っていた。

「鍛錬にはちょうどいい。重さも、手応えも」

「じょ、冗談ですよね!? 丸太ですよ!? ひとりで!?」

「お前もやるか?」

「や、やりません! やれませんっ!!」


先輩がくすっと笑った。

その笑い声に、胸がくすぐったくなる。

いつも無表情で、静かで、まるで風のような人が――

今は、ちゃんと笑っている。


「珠那」

「はい?」

「怪力は、生まれつきじゃない。心が鈍ると、体も鈍る。

逆に、守りたいものがあるとき、人はどこまでも強くなる」

「……守りたい、もの」

「お前にはあるか?」

「うーん……まだ分かりません」

「なら、探せばいい。忍の力は、心の在り方で決まる」


仙三先輩の言葉は、いつも胸に残った。

その後ろ姿を見ながら、

(きっとこの人は、すでに“守るもの”を見つけているんだ)

そんな気がして、少しだけ羨ましかった。


先輩が丸太を置くと、木の上に座って笑った。

「……お前、足、震えてるぞ」

「す、すみません……緊張してて……」

「俺の鍛錬を見てるだけで緊張するか?」

「はい! あの、なんか“忍”って感じがして……!」

「ふっ……変なやつだ」

「す、すみません!」

「いや、悪くない。俺のことを“忍らしい”と言う者は少ない」


その声が、どこか寂しそうだった。

けれど、僕が何かを言う前に、仙三先輩は空を見上げた。


「珠那、覚えておけ」

「はい」

「“強さ”は人に見せるものじゃない。

誰かの前で、静かに保つものだ」


その言葉は、僕の心に深く残った。

あの日から、先輩の背中は、わたしにとって“目標”になった。


夏が過ぎ、夜が長くなる頃。

僕は眠れない夜が続いていた。

理由は、自分でも分かっていた。

怖い夢を見るのだ。

水の中に沈んでいく夢。

息ができなくて、泣き叫んでも誰も来ない。


そんな夜、外に出て、裏庭の石に腰をかけて、

ぼんやりと歌っていた。

歌なんて、たいして上手くない。

けれど、声を出すと少しだけ落ち着いた。

それだけだった。


「……いい声だな」


背後から声がして、僕は飛び上がった。

振り返ると、仙三先輩が木の上に座っていた。


「せ、仙三先輩!? びっくりさせないでください……!」

「夜風に声が乗ってた。懐かしい音だった」

「懐かしい……?」

「ああ。母が、昔そんな声で子守唄を歌っていた」


先輩の瞳が、いつもより遠くを見ていた。

僕は、少しだけ沈黙してから尋ねた。

「……僕の声、そんなに聞こえてました?」

「風が運んだんだろう。

……まるで、“歌姫”の声のようだった」


「うた……ひめ?」

「伝承だ。古の忍の中には、声で人の心を和らげる者がいたという。

戦場で泣く子をあやし、痛みを静める忍。

“歌姫”――そう呼ばれたそうだ」


「……それって、優しい忍なんですね」

「ああ。だが、優しさを保つのは難しい」

「どうして?」

「忍は命を奪う術を覚える。

優しい心は、時に足枷になる。

……けれど、それでも優しくあろうとする者が、“歌姫”だった」


僕は小さく頷いた。

そして、照れくさく笑った。

「じゃあ、仙三先輩がそう呼んでくれるなら……

僕、“歌姫”でもいいかもしれませんね」

「ふふ……似合ってる。珠那、“歌姫”」


それが、僕が“羽衣石歌姫”になったきっかけの夜だった。


風が冷たくなり始めた頃、

学園の木々は赤く色づき、虫の声が夜を包んでいた。


仙三先輩の姿を、あの桜の木の下で見たのは――

あの日が最後だった。


「仙三先輩!」

「お、珠那。……どうした?」

「任務に行くって聞いて……見送りに来ました」

「そうか。ありがとう」


いつもと同じ笑顔。

けれど、どこかで“終わり”を悟っていたような穏やかさがあった。


「先輩、帰ってきますよね?」

「……はは。変なこと言うな」

「約束してください。絶対に帰ってくるって」


「分かった。約束だ。

お前の“歌”、また聞きに戻ってくるよ」


「……はいっ」

「泣くな。忍だろ」

「泣いてません!」

「なら、笑え。忍の笑顔は春を呼ぶ」


その言葉を最後に、霧の中へと消えた背中。

その背を見送りながら、胸の奥に黒い不安が沈んでいった。



それから三日。

仙三先輩は戻らなかった。

五日目、講堂で“自主退学”の知らせが読み上げられた。


“甲賀仙三、個人の都合により、学園を退く”


ざわつく声。

誰かが「仙三が?」「急すぎるだろ」と囁く。

けれど先生たちは、淡々とした顔で通り過ぎた。


……そんなわけ、ない。


珠那の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。

あの人が何も言わずに去るはずがない。

手紙一つ、挨拶一つ、必ず残していくはずだ。


「何かあったんだ……」


そう確信して、放課後。

珠那は六年の長屋へ向かった。


戸の前には、二人の六年生が立っていた。

顔を見合わせると、ぎこちなく笑った。


「……羽衣石、どうした」

「仙三先輩のこと、教えてください。

“自主退学”って、嘘ですよね?」


「……それは――」


その時。

長屋の奥で、低く誰かが「戸を閉めろ!」と声を上げた。

何かを運ぶような足音。

血の匂い。


珠那は、その匂いを嗅いだ瞬間に、

全身が凍りついた。


先輩たちの制止を振り切り、戸を開け放った。


――そこに、仙三がいた。


畳の上で静かに横たわり、冷たくなったその姿。

頬にはまだ、微かに笑みの名残があった。

その隣には、破れた任務書と血に染まった忍具。


「……っ」


声が出ない。

手が震える。

涙も出ない。

ただ、身体の奥が“何か”を失って空っぽになる音だけが響いた。


「珠那、駄目だ!」

誰かが肩をつかむ。

「見るな、頼む、今は――」

「なんで……なんで黙ってるんですか……!

“自主退学”なんて……そんなの……!」


押し殺した声が漏れた。

涙が床に落ちて、血に混じった。


六年生の一人が、唇を噛みながら言った。

「……珠那。

あいつの名誉を守るためだ。

任務の失敗じゃない。“死”でもない。

あいつは、“去った”ことにするんだ。

それが……仙三の願いでもある」


「……仙三先輩の、願い?」

「最後に言ってたんだ。

“自分の死を、忍の恥にはするな”って」


沈黙。

何も言えず、ただ頷いた。

震える唇から、ようやく声が零れる。


「……分かりました。

仙三先輩のためなら、誰にも言いません」



二年の春。

僕は歌姫に名前を変えた。

まだ雪解け水が冷たく、山肌を薄い白が覆っていた朝。

羽衣石歌姫はひとり、鍛錬場へと足を向けていた。

誰もいない時間を狙って。

――誰かと話すのは、もう疲れるから。


刃を振る音だけが、静かな山の空気を裂いていた。

かつて隣で「もっと腰を落とせ」と笑っていた声は、もうない。

代わりに、手の中の木刀が軽く響くたび、胸の奥で何かが軋んだ。


(……仙三先輩)


その名を、今も心の中で呼んでしまう。

死んだと知らされた日の衝撃は、まだ体のどこかに残っていた。

「自主退学」と告げられた時の違和感。

問いただしに行って、偶然開いた襖の奥で見た、血の気を失った先輩の顔。

あの瞬間、時間が止まったようだった。

周囲の6年生たちは蒼白になり、泣きながら「誰にも言うな」と頭を下げた。

あの日を境に、歌姫は誰とも目を合わせなくなった。


授業にも顔を出さず、山に籠り、夜に刀を振る。

眠れない夜は、ただ刃の光に先輩の面影を見つける。

「歌姫みたいな声だな」と笑った、あの春の桜の下が、

まるで夢だったように遠い。


だから、転入生がやってきた時も、正直どうでもよかった。

「蓬川健三です。よろしくお願いします!」

明るい声も、無駄にまっすぐな目も、全部まぶしすぎて、見ていられなかった。


けれど――同室になってしまった。

部屋に帰れば、隣にいる。

夜、彼は寝言で「強くなりたい」と呟き、朝はやけに元気で笑っていた。

うるさくて、でも……その声が聞こえない夜は、少しだけ寂しかった。


そんな健三が、ある朝、突然ついてきたのだ。

「ねぇ、待ってよ!」

息を弾ませて追ってくる足音。

「ここは訓練用の道じゃない。危ないから帰りな」

「そんなの関係ない。俺も強くなりたいんだ」

まっすぐな瞳が、かつての仙三に似ていた。

――だからこそ、胸が痛かった。


そして、あの崖崩れ。

竹槍の罠。毒の棘。血の匂い。

何もかもが一瞬で混ざり合って、気づけば命がけで互いを支え合っていた。

「黙って、登る」

歌姫の声は震えていたけれど、健三の目には確かな力が宿っていた。


泥と血にまみれたまま崖を登りきったとき、

二人はただ、空を見上げて息を吐いた。

冷たい風の中で、健三が微笑んで言った。

「助かったな、俺。君がいなかったら終わってた」

その笑顔が、あまりにも――仙三先輩に似ていた。


涙が勝手にこぼれた。

「え?!なんで泣いてるの?なんか悪いことした?」

「いや、なんでもない。ただ……生きててよかったって、そう思っただけ」

自分でも驚くほど、声が震えていた。


健三は何も言わず、上着をかけてくれた。

その瞬間、ふと風が吹いた。

背後で、誰かが微笑むような気配がした。


――『健三』

――『ありがとう』

――『歌姫のこと、頼んだよ』


健三がはっと顔を上げた。

目の前に立っている歌姫の後ろ。

そこに、一瞬、霧の中に佇む青年の姿が見えた気がした。

髪を風に揺らし、どこか懐かしい笑みを浮かべていた。


「……今、誰か……」

健三が呟くと、歌姫は首をかしげた。

「え? 何か言った?」

「いや……なんでもない」

「……そっか」

歌姫は小さく笑い、空を見上げた。

桜の花びらが風に乗って、霧の中を漂っていく。


その笑顔を見た瞬間、健三は思った。

――誰であれ、今の彼を守れるのは、自分しかいない。


霞が流れ、山の向こうから朝日が差した。

冷たい空気が、少しだけあたたかく感じた。


きっと仙三先輩も、今どこかで笑っている。

そんな気がした。

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