春の風は、あの頃の私には少し冷たかった。山のふもとを抜ける風が、枝を揺らして花びらを散らす。
忍術学園の裏手にある訓練場からこっそり抜け出した私は、泥のついた足袋のまま、坂道を駆け上がっていた。
どこかへ逃げたかった。ただそれだけだった。
「なんで……僕ばっかり……」
言葉が零れた。
鍛錬も試験も、うまくいかない。
忍術も遅いし、手裏剣はまともに当たらない。
先生には「集中が足りない」と言われ、同級生には笑われる。
何より悔しかったのは、自分の家の名前――羽衣石という名を背負っていること。
生まれながらの忍者の家系。エリート中のエリート。期待されて、縛られて、逃げた。何度言われただろうか。「おちこぼれ」と。
僕は本当に、何も出来ないんだなと思いながら、どこか分からない所をひたすら走る。
足を止めたとき、目の前に小さな滝があった。
春の雪解け水が、勢いよく岩肌を打ちつけている。
その水しぶきの向こうに、人影がひとつ。
「……?」
長い髪を後ろで束ね、黒装束の袖をまくり上げた青年が、滝の下で黙々と立っていた。
水の音にかき消されそうなほど静かに、ただまっすぐに立つ。
その姿に、僕は足を止めた。
「すご……」
思わず呟いた瞬間、青年がこちらを見た。
目が合った気がして、わたしは慌てて木の陰に隠れた。
心臓がうるさい。
「誰だ」
短く、低い声。
僕はびくっとして、けれど出ていくしかなくて、
「……ご、ごめんなさいっ!」と声を上げた。
青年は滝から上がると、濡れた髪を軽く払ってこちらに歩いてくる。
冷たい水滴が陽に反射して、きらきらして見えた。
よく見ると、まだ若い。多分、上級生。
「……一年の忍か?」
「は、はい……」
「何をしていた」
「えっと……さ、散歩を……」
嘘は下手だった。
青年は少し眉を動かして、それからほんの僅かに笑った。
「ふむ。散歩にしては顔が泣き腫らしているな」
「なっ……!? み、見ないでください!」
「見なくても分かる。お前の足跡は走っていたし、目の下は赤い」
観察眼が鋭すぎる。
僕はもう逃げられないと悟った。
「……怒らないんですか?」
「何を?」
「勝手に出歩いたこと……とか」
「俺は教師じゃない。怒る理由がない」
その声は、驚くほど穏やかだった。
冷たい滝の水よりも、春風みたいに静かで。
「お前の名は」
「……羽衣石、珠那です」
「羽衣石か。なるほど、あの家の」
青年の目が一瞬だけ細くなった。
けれどすぐに、その目はやわらかくなった。
「俺は甲賀仙三。六年生。」
「……仙三先輩、ですか?」
「呼びにくいなら仙三でいい」
「えっ、そんな……! 呼び捨てなんて……!」
「敬われるほど立派な忍でもない」
そう言って、少しだけ笑う。
その笑顔が、春の日差しより眩しかった。
少し間があって、仙三が言った。
「さっき、何を見ていた」
「え?」
「滝の前で立ち止まっていた。何を思った」
言われて、思い出した。
僕は、仙三先輩の姿を見て、思ったのだ。
「……綺麗だな、って……」
「綺麗?」
「はい。なんか……強いのに、静かで。怖くなくて。綺麗だなって」
自分で言って、顔が真っ赤になった。
仙三先輩は少し驚いたように目を瞬き、それからまた、
ほんの少しだけ笑った。
「……変わったことを言うな」
「す、すみません!」
「いや。悪くない。お前のように言える忍は、強くなる」
滝の音が遠くで響いている。
仙三先輩が背を向けると、ふと振り返って言った。
「珠那。次に泣きたくなったら、滝の下で泣け。誰にも見られない」
「……はい」
その日から、僕の世界は少しだけ変わった。
初夏の風が山を渡る。
蝉の声が遠くから響くころ、
僕と仙三先輩の関係は、少しだけ近くなっていた。
滝の下で出会ってから、先輩は何かにつけて気にかけてくれた。
朝の鍛錬では、姿勢を直してくれたり、
放課後に勉強を見てくれたり。
周りの同級生には「また羽衣石が六年に甘えてる」なんて言われたけど、
それでも構わなかった。
仙三先輩のそばにいると、
なんだか呼吸が落ち着く。
“忍”であることを、少しだけ好きになれる気がした。
その日も、先輩は山奥の訓練場で一人、丸太を肩に担いでいた。
信じられないほど太い。
両腕でやっと抱えられるほどの木を、
先輩は軽々と担ぎ上げて歩いている。
「先輩っ、それ……重くないんですか!?」
思わず声が出る。
「ん? ああ、これか?」
仙三先輩は丸太を肩に担いだまま振り返る。
汗で濡れた額が、夏の日差しで光っていた。
「鍛錬にはちょうどいい。重さも、手応えも」
「じょ、冗談ですよね!? 丸太ですよ!? ひとりで!?」
「お前もやるか?」
「や、やりません! やれませんっ!!」
先輩がくすっと笑った。
その笑い声に、胸がくすぐったくなる。
いつも無表情で、静かで、まるで風のような人が――
今は、ちゃんと笑っている。
「珠那」
「はい?」
「怪力は、生まれつきじゃない。心が鈍ると、体も鈍る。
逆に、守りたいものがあるとき、人はどこまでも強くなる」
「……守りたい、もの」
「お前にはあるか?」
「うーん……まだ分かりません」
「なら、探せばいい。忍の力は、心の在り方で決まる」
仙三先輩の言葉は、いつも胸に残った。
その後ろ姿を見ながら、
(きっとこの人は、すでに“守るもの”を見つけているんだ)
そんな気がして、少しだけ羨ましかった。
先輩が丸太を置くと、木の上に座って笑った。
「……お前、足、震えてるぞ」
「す、すみません……緊張してて……」
「俺の鍛錬を見てるだけで緊張するか?」
「はい! あの、なんか“忍”って感じがして……!」
「ふっ……変なやつだ」
「す、すみません!」
「いや、悪くない。俺のことを“忍らしい”と言う者は少ない」
その声が、どこか寂しそうだった。
けれど、僕が何かを言う前に、仙三先輩は空を見上げた。
「珠那、覚えておけ」
「はい」
「“強さ”は人に見せるものじゃない。
誰かの前で、静かに保つものだ」
その言葉は、僕の心に深く残った。
あの日から、先輩の背中は、わたしにとって“目標”になった。
夏が過ぎ、夜が長くなる頃。
僕は眠れない夜が続いていた。
理由は、自分でも分かっていた。
怖い夢を見るのだ。
水の中に沈んでいく夢。
息ができなくて、泣き叫んでも誰も来ない。
そんな夜、外に出て、裏庭の石に腰をかけて、
ぼんやりと歌っていた。
歌なんて、たいして上手くない。
けれど、声を出すと少しだけ落ち着いた。
それだけだった。
「……いい声だな」
背後から声がして、僕は飛び上がった。
振り返ると、仙三先輩が木の上に座っていた。
「せ、仙三先輩!? びっくりさせないでください……!」
「夜風に声が乗ってた。懐かしい音だった」
「懐かしい……?」
「ああ。母が、昔そんな声で子守唄を歌っていた」
先輩の瞳が、いつもより遠くを見ていた。
僕は、少しだけ沈黙してから尋ねた。
「……僕の声、そんなに聞こえてました?」
「風が運んだんだろう。
……まるで、“歌姫”の声のようだった」
「うた……ひめ?」
「伝承だ。古の忍の中には、声で人の心を和らげる者がいたという。
戦場で泣く子をあやし、痛みを静める忍。
“歌姫”――そう呼ばれたそうだ」
「……それって、優しい忍なんですね」
「ああ。だが、優しさを保つのは難しい」
「どうして?」
「忍は命を奪う術を覚える。
優しい心は、時に足枷になる。
……けれど、それでも優しくあろうとする者が、“歌姫”だった」
僕は小さく頷いた。
そして、照れくさく笑った。
「じゃあ、仙三先輩がそう呼んでくれるなら……
僕、“歌姫”でもいいかもしれませんね」
「ふふ……似合ってる。珠那、“歌姫”」
それが、僕が“羽衣石歌姫”になったきっかけの夜だった。
風が冷たくなり始めた頃、
学園の木々は赤く色づき、虫の声が夜を包んでいた。
仙三先輩の姿を、あの桜の木の下で見たのは――
あの日が最後だった。
「仙三先輩!」
「お、珠那。……どうした?」
「任務に行くって聞いて……見送りに来ました」
「そうか。ありがとう」
いつもと同じ笑顔。
けれど、どこかで“終わり”を悟っていたような穏やかさがあった。
「先輩、帰ってきますよね?」
「……はは。変なこと言うな」
「約束してください。絶対に帰ってくるって」
「分かった。約束だ。
お前の“歌”、また聞きに戻ってくるよ」
「……はいっ」
「泣くな。忍だろ」
「泣いてません!」
「なら、笑え。忍の笑顔は春を呼ぶ」
その言葉を最後に、霧の中へと消えた背中。
その背を見送りながら、胸の奥に黒い不安が沈んでいった。
⸻
それから三日。
仙三先輩は戻らなかった。
五日目、講堂で“自主退学”の知らせが読み上げられた。
“甲賀仙三、個人の都合により、学園を退く”
ざわつく声。
誰かが「仙三が?」「急すぎるだろ」と囁く。
けれど先生たちは、淡々とした顔で通り過ぎた。
……そんなわけ、ない。
珠那の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
あの人が何も言わずに去るはずがない。
手紙一つ、挨拶一つ、必ず残していくはずだ。
「何かあったんだ……」
そう確信して、放課後。
珠那は六年の長屋へ向かった。
戸の前には、二人の六年生が立っていた。
顔を見合わせると、ぎこちなく笑った。
「……羽衣石、どうした」
「仙三先輩のこと、教えてください。
“自主退学”って、嘘ですよね?」
「……それは――」
その時。
長屋の奥で、低く誰かが「戸を閉めろ!」と声を上げた。
何かを運ぶような足音。
血の匂い。
珠那は、その匂いを嗅いだ瞬間に、
全身が凍りついた。
先輩たちの制止を振り切り、戸を開け放った。
――そこに、仙三がいた。
畳の上で静かに横たわり、冷たくなったその姿。
頬にはまだ、微かに笑みの名残があった。
その隣には、破れた任務書と血に染まった忍具。
「……っ」
声が出ない。
手が震える。
涙も出ない。
ただ、身体の奥が“何か”を失って空っぽになる音だけが響いた。
「珠那、駄目だ!」
誰かが肩をつかむ。
「見るな、頼む、今は――」
「なんで……なんで黙ってるんですか……!
“自主退学”なんて……そんなの……!」
押し殺した声が漏れた。
涙が床に落ちて、血に混じった。
六年生の一人が、唇を噛みながら言った。
「……珠那。
あいつの名誉を守るためだ。
任務の失敗じゃない。“死”でもない。
あいつは、“去った”ことにするんだ。
それが……仙三の願いでもある」
「……仙三先輩の、願い?」
「最後に言ってたんだ。
“自分の死を、忍の恥にはするな”って」
沈黙。
何も言えず、ただ頷いた。
震える唇から、ようやく声が零れる。
「……分かりました。
仙三先輩のためなら、誰にも言いません」
⸻
二年の春。
僕は歌姫に名前を変えた。
まだ雪解け水が冷たく、山肌を薄い白が覆っていた朝。
羽衣石歌姫はひとり、鍛錬場へと足を向けていた。
誰もいない時間を狙って。
――誰かと話すのは、もう疲れるから。
刃を振る音だけが、静かな山の空気を裂いていた。
かつて隣で「もっと腰を落とせ」と笑っていた声は、もうない。
代わりに、手の中の木刀が軽く響くたび、胸の奥で何かが軋んだ。
(……仙三先輩)
その名を、今も心の中で呼んでしまう。
死んだと知らされた日の衝撃は、まだ体のどこかに残っていた。
「自主退学」と告げられた時の違和感。
問いただしに行って、偶然開いた襖の奥で見た、血の気を失った先輩の顔。
あの瞬間、時間が止まったようだった。
周囲の6年生たちは蒼白になり、泣きながら「誰にも言うな」と頭を下げた。
あの日を境に、歌姫は誰とも目を合わせなくなった。
授業にも顔を出さず、山に籠り、夜に刀を振る。
眠れない夜は、ただ刃の光に先輩の面影を見つける。
「歌姫みたいな声だな」と笑った、あの春の桜の下が、
まるで夢だったように遠い。
だから、転入生がやってきた時も、正直どうでもよかった。
「蓬川健三です。よろしくお願いします!」
明るい声も、無駄にまっすぐな目も、全部まぶしすぎて、見ていられなかった。
けれど――同室になってしまった。
部屋に帰れば、隣にいる。
夜、彼は寝言で「強くなりたい」と呟き、朝はやけに元気で笑っていた。
うるさくて、でも……その声が聞こえない夜は、少しだけ寂しかった。
そんな健三が、ある朝、突然ついてきたのだ。
「ねぇ、待ってよ!」
息を弾ませて追ってくる足音。
「ここは訓練用の道じゃない。危ないから帰りな」
「そんなの関係ない。俺も強くなりたいんだ」
まっすぐな瞳が、かつての仙三に似ていた。
――だからこそ、胸が痛かった。
そして、あの崖崩れ。
竹槍の罠。毒の棘。血の匂い。
何もかもが一瞬で混ざり合って、気づけば命がけで互いを支え合っていた。
「黙って、登る」
歌姫の声は震えていたけれど、健三の目には確かな力が宿っていた。
泥と血にまみれたまま崖を登りきったとき、
二人はただ、空を見上げて息を吐いた。
冷たい風の中で、健三が微笑んで言った。
「助かったな、俺。君がいなかったら終わってた」
その笑顔が、あまりにも――仙三先輩に似ていた。
涙が勝手にこぼれた。
「え?!なんで泣いてるの?なんか悪いことした?」
「いや、なんでもない。ただ……生きててよかったって、そう思っただけ」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
健三は何も言わず、上着をかけてくれた。
その瞬間、ふと風が吹いた。
背後で、誰かが微笑むような気配がした。
――『健三』
――『ありがとう』
――『歌姫のこと、頼んだよ』
健三がはっと顔を上げた。
目の前に立っている歌姫の後ろ。
そこに、一瞬、霧の中に佇む青年の姿が見えた気がした。
髪を風に揺らし、どこか懐かしい笑みを浮かべていた。
「……今、誰か……」
健三が呟くと、歌姫は首をかしげた。
「え? 何か言った?」
「いや……なんでもない」
「……そっか」
歌姫は小さく笑い、空を見上げた。
桜の花びらが風に乗って、霧の中を漂っていく。
その笑顔を見た瞬間、健三は思った。
――誰であれ、今の彼を守れるのは、自分しかいない。
霞が流れ、山の向こうから朝日が差した。
冷たい空気が、少しだけあたたかく感じた。
きっと仙三先輩も、今どこかで笑っている。
そんな気がした。
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