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グラスの氷は、琥珀色の海にすっかりと溶け入り、――“あの日”に、桔流が愛した笑顔で微笑んだ教授の頬を染めていた夕空と同じく、美しいグラデーションを描き出していた。
桔流は、そのグラスを手に取り、揺する。
すると、あの夕空は、静かに掻き消えた。
桔流が、“指輪”そのものや、“指輪”という文字や音に、異常なほど過敏になり、それに散々と苦しむ日々が始まったのは、その出来事があってからであった。
― Drop.018『 LemonJuice〈Ⅲ〉』―
桔流は、今でこそ平然として過ごせているが、失恋の傷が色濃く残っていた当時は、何かしらの形で指輪を見るだけでも心が締め付けられ、タイミングが悪ければ、涙が溢れる事も度々とあった。
誰ともなしに、ただ一人、“嫌だ”、“行かないで”――と、声を震わせながら泣いた夜もあった。
そんな桔流が、指輪を目の前にしても平然と過ごせるようになり、指輪を手に取る事さえ問題なくできるようになったにも関わらず、花厳に対し“嘘”を吐いたのは、ほかでもない。
“自分の心を護ろうとした”からだ。
もちろん、嘘を吐いた時の桔流は、自分を護ろうという意識はなく、ほぼ無意識に嘘を吐いたようなものだった。
だが、今にしても思えば、桔流自身が気付いていなかっただけで、そのような嘘を咄嗟に吐いてしまうほどには、教授との思い出に触れるのが、やはり辛かったのだ。
(――やっぱ、忘れられてなかったな……)
また、そんな桔流が法雨と出会ったのも、この時期の事であった。
当時の桔流は、心の傷をなんとか和らげるため、毎日のように大量の酒に救いを求めていた。
そして、日によっては、一晩限りの相手と夜を過ごす事でも、その心の痛みを和らげていた。
だが、そんな日々を送っていた、とある夜の事。
運悪く、“指輪”との接触を経てしまった桔流は、いつも以上に強い苦しみに襲われていた。
それゆえ、その激しい苦痛をなんとか凌ごうと、いつもよりも強い酒を大量に流し込んだ桔流は、その晩。
それまでにないほどに、酷く酔ってしまっていた。
それにより、帰路を辿る事もできなくなった桔流は、壁伝いに歩き回った果てに、法雨のバーの裏手で倒れ込んでしまったのだった。
そこで、倒れ込んでいる桔流を見つけたのが法雨であった。
そんな桔流は、その後。
今では桔流の先輩となるスタッフ達と法雨により、すぐに更衣室に運び込まれると、アルコールに侵され、凍えきった身体を丁重に介抱してもらい――、そのようなきっかけを経て、桔流は法雨と知り合う事になったのだった。
そして、元々責任感が強く、義理堅い性格であった桔流は、その翌日。
迷惑をかけた事を幾度も謝罪し、何をすれば償いになるかと、法雨に必死に問うた。
だが、そんな桔流に、法雨は言ったのだ。
――謝罪も償いも要らないわ。
――でも、その代わりに教えてちょうだい。
――そんな風に、責任感もあって、ちゃんと謝れるアナタが、どうしてこんなヤケを起こしているのか。
――全部。正直にね。
そして、その法雨の言葉に従った桔流は、それまでのすべてを法雨に打ち明けたのだった。
すると、すべての事情を聞いた法雨は、桔流の事を放っておけなかったらしく、しばらくは法雨の家に居候する事を桔流に“命じた”。
“命じなければ”、遠慮をした桔流はまた一人になり、同じようなヤケを起こすと見抜かれていたのだろう。
当時の法雨が、敢えて居候を“命じた”理由を、今の桔流は、そのように判じている。
そして、それから1か月ほどの間は、法雨が店に居る際には、桔流も店の事務所で事務仕事を手伝い――、閉店後は、法雨と共に法雨の家に帰り、法雨と過ごす――、というようにして、一日のすべての時間を法雨と過ごした。
また、そのような生活を続ける中、桔流の心が少しずつ癒されてゆくと、桔流は正式に、法雨の店のバーテンダーとして働く事となった。
だが、稀に心の傷が疼き、不安定になる事もあったため、それ以降も桔流は、しばらく法雨の家に居候を続けた。
そんな桔流が、法雨と体の関係をもったのも、この時期の事であった。
桔流が不安定な夜は、多少の酒は赦したが、それだけで眠れない日は、法雨が桔流の思考を遮断させる事で、酒に頼らせ過ぎないようにしたのだ。
その度に、桔流は声を震わせ、謝った。
そして、その度に、法雨は言ったのだ。
――言ったでしょ。謝罪は要らないわ。
――これはアタシが好きでやってる事だしね。
――それと、謝るくらいなら、大人しくアタシに可愛がられてなさい。
――一人でなんとかできるほど、本気の恋の傷って、軽いものじゃないのよ。
――だから、その傷が癒えるまで、アナタはただ、自分の心を癒す事だけ考えてなさい。
――アタシへの謝罪も恩返しも、すべてはそれからよ。
そして、そんな法雨の支えによって、徐々に心の傷を癒してゆく事ができた桔流は、その居候生活を終えた後も、恩返しとして、法雨のバーで働き続ける事を決め、今に至る――のである。
また、その当時の桔流は、恩を返しきるまでは無給で働かせてほしいと頼んだりもしたのだが、法雨がその頼みを呑む事はなかった。
そんな法雨を、今、久方ぶりに心の薬としている桔流は、法雨に言う。
「――なんで、諦めて離れるのすら、上手くいかないんですかね……。――先生ン時は、引きずりはしたけど、諦める事自体は早くできたのに……」
それに、法雨はしばし考え、言った。
「――……ねぇ、桔流君。“二度ある事は三度ある”って言葉があるけど、今のアナタが信じてるのは、この言葉よね」
桔流は頷く。
「そう……ですね。――現状が物語ってますから。――……まぁ、回数としては、今回が二度目ですけど」
「そうね」
そんな桔流に、法雨は頷き、続ける。
「確かに。もし、今回がまた同じ結果になるのなら、これが“二度目”になるわね。――でもね、桔流君。――この世には、“二度とない”って言葉もあるのよ」
「え?」
桔流は、それに、問うように首を傾げる。
法雨は、さらに紡ぐ。
「よく考えてみて。――今回は、“あの時”と同じような経緯があっただけで、結果はまだ分かってないわ。――だって、アナタは今。結果から逃げてるんですもの。――そうでしょう? ――花厳さんがアナタにその紙袋を出した夜。アナタは、袋の中身が指輪かどうかの確認もせず、それが誰に宛てたものかすらも尋かず、花厳さんの家を飛び出してきた。――なら、すべてがアナタの勘違いだった可能性だってあるわ。――だからこそ、アタシは、アナタが信じる言葉じゃなく、“二度とない”という言葉に賭けようと思うわ」
桔流は、それに戸惑うようにしながら言う。
「――でも、あの日。――花厳さんが、その贈り物について何か言おうとしてた時、すげぇ気まずそうな顔してたんですよ? ――しかも、前の恋人にあげる予定だった指輪の紙袋と、まるきり同じやつ出して……」
「そうね」
法雨は頷くが、先ほどからの気持ちは揺らいでいないようであった。
「――でも、花厳さん。――アナタが、“モノが残るタイプの贈り物をされるのが嫌”って言ったの、ちゃんと覚えてたんじゃないの? それを覚えてたから――、分かってたからこそ――、ずっと、“消えモノの贈り物”だけをしてきてたんじゃない?」
桔流は、それにぎこちなく応じる。
「そう……ですね……。多分、覚えてて、そうしてくれてたんだと思います」
そうなのだ。
実のところ、花厳はこれまで、一度も“モノが残るタイプの贈り物”をしてこなかった。
それは、恐らく法雨の言うとおり、桔流が“モノが残るタイプの贈り物”を贈られるのが苦手だと伝えたからだ。
以前から、高級品などで桔流の心を掴もうとする者も多く、桔流は、そのせいで“嫌な思い出があるのに捨てようにも捨てられないモノ”が、クローゼットに増えてゆく日々に嫌気がさしていた時期があった。
そのため、思い切ってすべてを処分できて以降は、“モノが残る贈り物”を受け取らないようにしてきたのだ。
そして、その事を打ち明けられていた花厳は、当然その事を覚えていただろう。
それゆえ、あれだけ桔流の事を細かく研究していた花厳なのだから、そのような重要情報も大いに踏まえた上で、敢えて、“消えモノの贈り物”を贈っていたに違いない。
法雨は、その花厳への憶測を踏まえながら、言った。
「――だったら、そんなアナタに、事前の確認もせず、アナタが避けている――モノが残るような贈り物を、“勝手に買って渡そうとした”としたら、――花厳さんは、“気まずそうな顔”で説明しようともするんじゃない?」
その法雨の言葉に、桔流は想像する。
(――確かに、もしそうだとしたら、花厳さんは、――“そう”するかも……)
――事前の確認もせず、勝手に用意しちゃってごめん……。
その条件下であれば、そう言い、気まずそうな顔で贈り物を渡そうとしてくる花厳は、容易に想像できる。
(――それに、花厳さんは、あの時。――“前置きもせずにで、申し訳ないんだけど……”――とも言ってたよな)
「――……」
(――なら、やっぱりあれは……。――……いや、でも……)
もし、法雨が言うように、花厳が桔流への配慮から“気まずそうな顔”をしていたのなら、今すぐにでも花厳に連絡をとり、真相を確かめるべきだ。
だが、桔流は、そうである可能性があったとしても、その場では、意を決する事ができなかった。
恐ろしかったのだ。
(もし、その希望にかけて、――また、先生と同じ結果になったら……)
そのような事になれば、今度こそ、二度と立ち直る事はできないだろう。
しかし、悩む桔流に、法雨は言う。
「――まぁ、悩むのは分かるわ。――でもね、桔流君。――アナタはきっと、どちらにしても逃げきれないわよ」
それに、桔流はやや困惑しながら言う。
「“逃げ切れない”って……。――別に、あっちは追ってこないですよ」
すると、法雨は、そんな桔流の前に置かれた空のグラスに、ロックアイスを丁寧に入れながら、言う。
「アラ。それはどうかしら? ――アタシの勘は、“逃げ切れない”って言ってるわ。――だって、アナタ。確認するどころか、花厳さんの言葉を最後まで聞かないで飛び出してきたんでしょう? ――最後まで聞くのが、恐かったから」
「う……。――は、はい……」
桔流が応じると、法雨は、
「そうよね」
と、言い、続ける。
「いい? 桔流君。――花厳さんは、今。追う気がなくて追ってこないんじゃないわ。――花厳さんはね、ハンターはハンターでも、とっても忍耐強いハンターなの。――それでいて、思考力もあるハンターだから、分かってるのよ。――“余裕がない状態のアナタをすぐに追うのは、逆効果だ”って。――だから、一切の連絡もせず、お店にすら顔を見せずに、ただ静かに様子を伺ってるのよ」
「“様子を”……?」
桔流が尋くと、法雨は頷く。
「そう。――だって、アナタの事をよく分かっている人なら、誰だってこう思うもの」
法雨は、紡ぎながら、カラリカラリと、ブランデーの蓋を回す。
「――もし、まだ、アナタが自分を想ってくれているのならば、――アナタは、アナタ自身の気持ちさえ整えば、アナタの方から何かしらのアクションを起こす、ってね」
「………………」
そんな法雨の言葉に、桔流は黙した。
その桔流の前では、琥珀色の滝がとくとくと注がれ、グラスの中の氷を溶かしながら海を成してゆく。
その中、法雨は言う。
「好きなんでしょう? 花厳さんの事。――だって、アナタ。彼が復縁する事になったんだって思い込んで、それが辛くて逃げてきたのに、――まだ忘れられないで、延々と悩んでる。――それは、アナタが、花厳さんに対する希望を捨てきれてないから。――そうでしょう?」
「………………」
それにも、変わらず黙したままの桔流は、煌めく琥珀色を、ただ見つめる。
その桔流に、法雨はさらに紡ぐ。
「そりゃあそうよ。――だって、本当の事は、まだ何も分かってないんですもの……。――ねぇ、桔流君。――アナタは、伝えたの? アナタが本当はどう思っているか、花厳さんに、ちゃんと伝えたの? ――まだよね? ――相手の事を憶測だけで判断して、相手に勝手に遠慮して、そうやって本心を隠したままでいたら、そのまま、――すべて終わるわよ」
「――………………」
琥珀色の海は、氷と共に、グラスの中に美しいグラデーションを描き始める。
それを一口味わえば、彼らが織り成す最高の味わいが、その舌を満たす。
そのように、グラスの中に、琥珀色と氷のみを注げば、その飲み方らしい味わいを楽しむ事ができたりする。
そして、さらに多彩な材料を適量ずつ注ぎ入れ、適した方法で仕上げれば、様々な味わいのカクテル達で、その舌を満たす事もできる。
しかし、そんなカクテル達が、最高の味わいを成すには、まず、それぞれがひとつのグラスの中に納まらなくては始まらない。
つまり、憶測だけを並べても、最高のカクテルなど、ひとつも生まれないのだ。
こうすれば美味くなるだろうか――。
こうすれば、あの人が喜んでくれる味わいになるだろうか――。
そんな憶測だけを並べても、最高のカクテルが、そこに現れる事はない。
つまり、どれほどに最高級の材料を揃えたとしても、同じグラスに入るまでは、彼らがどのような味を成すかは、分からないのだ。
どうすれば最高の味を成せるか――。
それを知るには、まず、――互いが同じグラスに入らなければ、始まらない。
そして、それと同じく、人と人も、憶測だけを繰るのでは、互いの事など、何も分かりはしない。
憶測だけを繰るのでは、その関係は、一歩たりとも前に進みはしないのだ。
すべては、その心を晒し、ひとつのグラスに入った時にこそ、本当の始まりを迎えられるのだ。
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