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#第6回テノコン
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最初に気づいたのは、夜の雨のにおいだった。
田辺奈緒は傘も差さずに商店街のアーケードを歩いていた。三月の雨は冷たく、水溜まりに映る街灯がぼんやりと滲んでいた。財布の中には千二百円。給料日まであと六日。晩ご飯のことを考えるたびに胃が締め付けられるような感覚があった。
二十八歳。派遣社員。彼氏なし。貯金ほぼゼロ。
自分の人生を三語で要約するとしたら、その程度のものだ、と奈緒は思っていた。別に悲観しているわけでもなかった。ただ事実として、そういうことだった。
アーケードの端、ちょうど閉店したクリーニング屋の隣に、それはあった。
白と緑のパネル。液晶画面のやわらかな青白い光。ATMだった。ただし、奈緒がこれまで見たことのないメーカーのものだった。銀行名も、ロゴも見当たらない。ただ画面の中央に、こう書かれていた。
MEMORY BANK
── あなたの思い出を、お金に換えます ──
奈緒はしばらく画面を見つめた。いたずらか、あるいは何かの広告か。でも機械は本物のATMと同じ質感をしていて、操作パネルにはテンキーとカードスロットと、それから指を置くための小さなガラスのプレートがついていた。
「思い出を、お金に」
声に出してみると、なんだかひどく滑稽に聞こえた。でも足は動かなかった。
財布の中の千二百円のことを思った。明日の朝ごはんのことを思った。六日間のことを思った。
奈緒は指をガラスのプレートに置いた。
画面が変わった。
読み込み中を示す緑色のバーがゆっくりと伸びていき、やがて新しい画面が現れた。そこには名前も住所も生年月日も入力する欄はなかった。ただ一行、こう書かれていた。
「最も古い幸福な記憶を、一つ選んでください」
奈緒の指が止まった。
最も古い、幸福な記憶。
思い出すのに、時間はかからなかった。それはいつも、呼ばれてもいないのに浮かんでくるたぐいの記憶だったから。
父の軽トラックの助手席。夏の匂い。走る窓の外の田んぼ。ラジオから流れる古い歌謡曲。父が歌に合わせて指でハンドルを叩く音。「奈緒、スイカ食べるか」と父が聞いて、「食べる」と答えると、父が笑う。ただそれだけの記憶。たぶん五歳か六歳のころ。父はその二年後に事故で死んだから、奈緒にとってその記憶は、父の笑顔が残っている数少ないフィルムの一枚だった。
でも奈緒は画面に向かって、何も答えなかった。
しばらく経って、機械は静かに次の画面に変わった。
「記憶の査定額:3,200円」
この取引を承認しますか? [はい] [いいえ]
三千二百円。
奈緒は笑いそうになった。父の記憶が、三千二百円。それは安いのか高いのか、そもそもこれは何なのか。
でも指は「はい」のボタンの上で止まっていた。
千二百円しかない財布のことを、また思った。
奈緒はゆっくりと、「いいえ」を押した。
機械はまた静かに画面を変えた。
「またのご利用をお待ちしております」
奈緒はアーケードを出て、雨の中に戻った。
翌朝、奈緒が出勤したのは渋谷のオフィスビルの七階にある、中堅の広告代理店だった。派遣先として配属されて八ヶ月。仕事は主にデータ入力と資料の整理で、誰でもできる作業を誰でもできないほどの速さでこなすことが、奈緒の唯一の取り柄だった。
昼休み、奈緒は一人でコンビニのおにぎりを食べながら、昨晩のことを考えた。夢だったかもしれない。でも靴はまだ少し湿っていたし、指先にあの冷たいガラスの感触がうっすらと残っているような気がした。
「ねえ、田辺さん」
声をかけてきたのは、同じ派遣の桑原みさきだった。三十二歳、奈緒より四つ上の先輩。
「あそこのATM、知ってる? 渋谷二丁目の、あの変なやつ」
奈緒は手が止まった。
「使ったことあるの?」と奈緒は聞いた。
みさきは少し笑って、「一回だけ」と言った。「でもやめといたほうがいいよ。なんか変な気分になる」
「変な気分って?」
みさきはおにぎりの包みを畳みながら、少し間を置いて答えた。
「なんか、ぽっかりする感じ。穴が開くっていうか。お金はちゃんともらえたけど」
それから彼女は、話を変えた。
その夜、奈緒はまたATMの前に立っていた。
理由は自分でもうまく説明できなかった。ただ昨日の「いいえ」が引っかかっていた。あの三千二百円が引っかかっていた。それから、みさきの「ぽっかりする感じ」という言葉が。
指をガラスのプレートに置くと、また機械は静かに起動した。今日は別の質問だった。
「最も鮮明に覚えている、他者への親切の記憶を選んでください」
奈緒は少し考えてから、一つの記憶を思い浮かべた。大学一年の春、電車の中で倒れた老人を助けたこと。駅員を呼んで、鞄を持って、救急車が来るまで手を握っていた。老人は最後に「ありがとう」と言った。その声がずっと耳に残っている。
「記憶の査定額:1,800円」
千八百円か、と奈緒は思った。昨日の父の記憶より安い。
でも今日は「はい」を押した。
機械は少しの間、ゆっくりと動いた。指の下のガラスがほんのり温かくなった気がした。それからカシャ、という音とともに、現金が出てきた。千円札一枚と五百円玉一枚と百円玉三枚。確かに、千八百円だった。
奈緒はお金を受け取った。
そして気がついた。
あの老人の顔が、思い出せなくなっていた。電車の車内の匂いも、手の感触も、「ありがとう」という声も、全部が薄い霧の向こうにあるようで、つかもうとするとすり抜けてしまう。記憶はまだそこにある。でも何かが、抜けていた。
みさきが言っていた。ぽっかりする感じ、と。
奈緒はお金を財布にしまいながら、少しだけ立ち止まった。それからまた歩き出した。明日の朝ごはんが買えるくらいには、それで十分だと思った。
少なくとも、その夜は。
家に帰って布団に入ると、奈緒はじっと天井を見つめた。
あの機械はいったい何なのか。誰が作ったのか。記憶を「買い取って」どうするのか。
いくつもの疑問が浮かんで、でも一番気になったのは別のことだった。
あの機械は、記憶の値段をどうやって決めているのだろう。
父の記憶が三千二百円で、見知らぬ老人への親切が千八百円。その差は何だろう。感情の強さか。失ったときの痛みの大きさか。それとも、また別の何かか。
奈緒は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
もし本当に大切な記憶を売ったとしたら、いくらになるのだろう。
そしてそれを売ったあとの自分は、いったい何者になるのだろう、と。
(第一話 了)
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